第1話 新しい職場

 山田司。

彼女の表情筋の動きは二種類に限定されているのではないかと噂されるのに、十日もかからなかった。


「ちょっと、みんな、大袈裟よ」

 掃除の手を止めて、一人が他の四人を見渡した。立てたモップの柄の上に左の手首を乗せ、右手を腰に当てた姿がとても絵になる。

 看護師のような淡いラベンダー色のパンツスーツに青系のスカーフという制服はその場の五人全員同じなのに、同じものには見えない。

上衣からのぞく足の長さがまず違う。そして、体型をあらわにしないはずのデザインなのに、胸から腰にかけてのラインが決定的に違うのだ。

「コスプレ感、半端ないわ」

 誰かのぼそっとしたつぶやきは、彼女の耳には届かなかったらしい。


「新しい制服、体型が隠れて良かったと思ったけど」

「いいじゃないですか。中林さんには、婦長の貫禄がありますよ」

 こそこそくすくす、会話する二人の方を見て、時任はきっと眉を上げた。

 赤味がかった茶色に染めた髪はふんわりと肩にかかり、ぽってりした唇と相まって柔らかな印象を与えるのだが、目力が強い。

「ベテランの中林さんまで、賛同することないじゃないですか。引っ込み思案な人を笑いものにするなんて」

「笑いものになんて、してないわ。実際、ほわわーっとっした笑顔と、お客様に向ける笑顔の他の表情、思い出せる?」

「ま、じめな表情」

「うん、真面目な表情。口元がこう、固定しているから、それが笑顔っぽいのよ。しかもほわっとしてるでしょ?」

 中年女性の貫禄のある中林は、自分の口の両端を左右の人差し指でつり上げて見せた。

「地顔が、いわゆる笑い顔? 客商売には良いことだと思うわ。ただねえ、もうちょっとこう、反応を見せてほしいのよね。なんだか寂しいじゃない」

 中林がため息をつくと、他の三人も盛大に相づちをうった。


 



「っていうことがあったのよ」

「…それ、本人に言います?」

 数日後、通勤途上で一緒になった司は、時任に目を向けずに小声で返した。

 私服の時任は、春らしい花柄のブラウスに薄茶色のフレアスカート。司は白のシャツブラウスに濃いグレーのプリーツスカートだ。

「だって、どうにかしたいんだもの。直接言うのが一番でしょ」

 官庁街の通勤ラッシュが一段落した午前九時前、二人は市役所通りから脇道に入った。


 いかにも一昔前のオフィスビルというたたずまいの、オモダカビルヂングのエレベーターホールは地味だ。銀色の郵便受けが並ぶ横のエレベーターのドアは、何度か塗り重ねられた上に傷の入ったクリーム色。階数の表示板は一階から七階まであるが、三階の警備会社と五階の<睡眠研究所・こもれび>の他は空欄である。

 五階で降りると廊下の右側はすべてガラス張りで、ワンフロアぶち抜きの店舗が見渡せる。出入り口近くには五台のベッドが並べられている。

 突き当りのスタッフルームのドアの横にあるボードに時任が暗証番号を入力して解錠し、二人は中に入った。中にも廊下があって事務室、男女のロッカールーム、休憩室と並んだ先に店舗へのドアがある。

 ロッカールームに入るまでも入ってからも、時任は皆が司を気にかけているのだということを何とか伝えようと、言葉を選びつつ話し続けていた。

「リバーサイド店から一緒に来た女の子、あと三人いるでしょ。仲良くしてるの?」

「仲良くって」

 目を伏せて言い淀んだ司の顔をのぞき込んで、時任はにんまりした。

「困った顔、はっけーん!」

「え」

「確かに変化は少なめだけど。そもそも、いつも笑顔なんだからさ、無表情っていうんじゃないもんね」

 十センチは高い背をかがめて司を見ていた時任は、そう声をかけた直後にぽっと頬を染めたことにも言及しようと口を開いて、固まった。

「…きれい」

「へ?」

「ときとおさん、きれいな肌ですね」

 ぽかんと口を半開きにしていた時任は、ふっと我に返ると姿勢を正した。

「今、ときと、お、って言った?」

「はい?」

 次の瞬間、きゃーっと叫んだ時任は、司の両手をつかんで激しく上下に振った。しばらくして、司が笑顔のまま車酔いのようになっていることに気付くまで、ぶんぶんと。

「ごっめーん。嬉しくて、つい」

「な、何が」

 司は、肩をがっくりと落としたまま訊いてきた。

「みんな、ときと、う、って呼ぶのよ」

「ええと、自己紹介で言いましたよね、ときとお、って」

 司は手を引こうと身をよじりながら、また目を伏せて言った。

「そうなのよう。言ってるの、いつも。と、き、と、お、って。でもみんなときとうって呼ぶの」

 時任は手を離そうとしない。司の身長はごく平均的だったが、彼女の背が高いので威圧している格好になっていた。

「思い込み、ですかね」

「ん?」

「私の苗字がやまた、だったとしても、やまだって呼ばれると思うんです。日本人の苗字って、難しいです」

「えっ、ああ、そうね」

 時任はなぜか気まずそうに目をそらしたが、これ幸いと引きかけた司の手をぎゅっと握り直した。

「山田さんはどうして、覚えていたの? 私が名乗ったのって、一回きりじゃない?」

「ええと、珍しいなと思ったからです。名札を見てトキトウだと思っていたら、オって聞こえたから」

 時任は、丁寧にマスカラを塗った長いまつげに縁取られた目を、しばたたかせた。

「耳が良いのね」

「えーと、聞き取り能力は。でも、耳は悪いです」

「どういうこと?」

 首を傾げたときに力が緩んだらしく、司はさっと手を引っ込めた。

「外国語のリスニングとか、得意なんです。意味がわかるかどうかは別として。でも、私、耳鳴りがあるんです」

「あ、病気?」

 時任はばつの悪そうな顔をした。

「そうは言いきれないって、病院では言われてます。所長と奥さんには話してあるんですが、そうそう広めなくてもいいだろうって言われてて。一応、こうやってお話できますし」

「特に気にはしないでほしいってことね? 了解」

 時任はようやく着替え始めた。スカーフも、ロッカーの扉に付いた小さな鏡を見るだけで、手早く結んでしまう。

 司が、壁の鏡に向かって何度も結び直しているのに気付いて、彼女はさっと後ろに立つと、鏡の中で目を合わせた。

「やってあげる。こっち向いて」

 司は赤くなったが、素直に向き直った。

「はい、出来上がり」

「ありがとうございます。ちょっと苦手で」

「慣れるよ、大丈夫。それよりさ」

 言いかけたところに、二人の社員が連れだって入って来た。おはようの挨拶を交わして、時任は壁の時計を見上げた。

「休憩室のコーヒーの準備、お願いできますか? 私たち、先に掃除に行ってます」

 後から来た二人組はゆっくり出てくるだろう。そう確信したように、時任は司を店舗に引っ張っていった。


「さっき言いかけてたんだけど。敬語はやめようよ」

 二本取ったモップの一本を渡しながら、彼女はにこやかに言った。

「私は高卒だから勤務歴は長いけど、年は同じくらいだよね? 大学の頃からバイトしてたって聞いてる。私は二十四だけど」

「私、誕生日がきたら二十四です」

「うん、いっこ違い。それでね、私のことは時任って呼び捨てにして。お客様のいないところでは」

「えっ、呼び捨てって」

 言葉に詰まる様子を見て、時任は声を上げて笑った。

「結構表情豊かじゃん。でね。抵抗あるみたいだから、一回だけ言っとく」

 ずい、と近づかれて司は肩を引いた。

「私の名前は、時任麗香。麗しい、香り。親には悪いけど、この名前は大嫌い」

「そうなんですか…、そうなんだ。きれいな名前なのに」

「見た目もきれいじゃなきゃ、許されない的な名前だよ。しかも画数多いっての」

 くるりを背中を向けてモップをかけ始めた時任は、わざとらしいため息をついた。

「お父さんの名前は、正直の正でタダシ。お母さんは、数字の一に代理人の代でカズヨ。初めての子に凝った名前を付けたかった気持ちはわかるけど、どんな名前負けよ」

「負けてない。ぴったりだと思うけど」

「ありがとう。まあ、自分でも不細工とは思ってないけどね。それなりの努力もしてるんだから。で。呼び捨てはニックネームだと思ってくれればいいから。そうなると、こっちからもさん付けはどうかなってなるじゃん。ニックネームって、何なの?」

 真面目に掃除をしながら話していた時任は、返事が返ってこないのでようやく顔を上げた。目に映った司は、妙に遠いところを見ていた。いつも通り、微笑んだような口元のままで。




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