大嶽砦の地獄絵図


―――


 小谷城



「長政様、朝倉軍と織田軍はまだ動かない模様です。」

「そのようだな。何か動きがあればこちらも対処のしようがあるのだが……」

 そう言うと、浅井長政は『う~ん……』と唸った。


 籠城している浅井軍としては、このまま何も動きがなければ手の出しようがない。長政は長い溜め息を吐くとふと思いついた様子で家来に向けて小声で言った。


「……市の様子はどうだ?」

「えぇ。いつも通りにお見受けしますが、やはり複雑だと思います。」

「そうだろうな……」

「あの……市様が何か?」

「女中に頼んでくれ。あいつの行動を逐一報告しろと。」

「えっ!ま、まさか市様が織田軍に情報を流すなどと思われているのですか!?」

「いや、そうではない。ただこの状況下では何かと不便な事や不満があるだろうと思ってな。私なりの配慮だ。深い意味はない。」

「わかりました……そう命じておきます。」

 その家来は納得したようなしていないような顔をしながらも頷いた。


「あぁ、雨が降ってきた。この分ではまだまだ戦況は動かないな。今の内に体を休めておこう。私は奥の部屋で休む。何かあったら呼べ。」

「はっ!畏まりました!」

 立ち上がって奥へと歩いていく主君を見送りながら、その家来は密かに溜め息を吐いた。




―――


 朝倉軍、本陣



 雷が轟き大雨が降った為、朝倉軍は早々と砦の中に引っ込んだ。義景がいる本陣も戸をしっかりと閉め、全員が防具を脱いで一休みをしていた。


「ここまできたら仕方がない。謙信殿の援軍が来ないのなら我々だけで織田を迎え撃つしかあるまい。やっと踏ん切りがついた。この雨が止んだら攻撃する。」

 義景がそう宣言すると、集まっていた家来達が俄に騒ぎ出した。

「ほ、本当でございますか?」

「あぁ。こちらが動く事を今か今かと待っている長政殿にとってもこれ以上の猶予は忍びない。朝倉と浅井が合わされば、上杉の助けなどいらないとやっと気づいた。これで織田信長を亡き者に出来るという訳だ。」

 暗く淀んでいた瞳が輝きを取り戻していた。家来達は顔を見合わせながらやっとその気になった主君に喜びを顕にした。


「さて、そうと決まれば準備をしろ。雨が止んだら決行だ!」

「はい!」

 一斉に返事をする家来達を眺めながら、義景は満足そうに微笑んだ。




―――


 義景及び長政が余裕綽々で休んでいる頃、織田軍は密かに朝倉軍の大嶽砦へと向かっていた。


「もう少しで着きます。それにしても信長様、こんな少数で大丈夫でしょうか……?」

 朝倉から織田に寝返った前波吉継は先頭を歩きながらそう言った。というのも、今回の奇襲に駆り出された人数は僅か千人。全体でニ万の兵、大嶽砦だけでも一万はいるだろう朝倉軍に今から向かうという状況としては些か心許ない。しかしそんな吉継の心配を他所に、信長は不敵に笑った。


「心配無用。攻撃を仕掛けてもこの雨だ。朝倉は一旦降伏を申し出てくるだろう。だがここで止めは差さず、わざと逃げ場を作ってやるのさ。浅井を放って逃げる朝倉軍をサルや勝家が追いかける算段になっている。もはや朝倉は俺の手のひらで踊らされる羽目になるだろうな。」

「…………」

 隣で聞いていた蘭は雨のせいだけではない寒さを感じた。


「着きました。大嶽砦です。」

「あれが大嶽砦……」

 吉継の声に蘭は呟く。思ったより堅固でこの少人数で本当に大丈夫かと心配になった。その時信長が馬を降りて蘭に向かって言った。


「大丈夫だ。俺が負ける訳がないのだろう?」

 一瞬呆けた顔をした蘭だったがすぐに気を取り直すと頷いた。

「はい!もちろんです!」

 その返事に満足そうに顔を縦に振ると、信長は気合いを入れて叫んだ。


「いざ、参るぞ!」




―――


「義景様!大変でございます!」

「どうした?」

「大嶽砦が……信長の軍にやられました!」

「何っ!?」

 義景が飛び起きる。即座に脇に置いてあった刀を取る。

「信長め……この雨の中に襲ってくるとは何という奴だ……!」

「どう致しますか?砦を守っていた者の中には降伏した者や逃げ出した者がいて、もう壊滅状態だそうです。このままではいずれこの本陣にも……」

「……仕方がない。長政殿には申し訳ないがここは越前へ引こう。」

「畏まりました。では支度をします。」

「私もすぐに行く。」

「はっ!」

 家来が下がると義景は額に手を当てて溜め息を吐いた。


「まさかここまでするとは……織田信長という男を侮っていたようだ……」

 もう一度深く息を吐くと身支度を整え始めた。




―――


「降伏を申し出た者が約三百、逃げた者が五百前後。討ち取ったのがニ百か。まぁまぁの出来だな。」

 吉継の報告を聞いた信長はそう言った。


 ここは大嶽砦の入り口に簡易に作った織田軍の本陣。蘭は首を傾げながら信長を見た。

「いいんですか?降伏を申し出てきた人達も逃がしちゃって。」

「構わん。先程も言ったがどうせ越前へ帰る途中でサル達に討たれるだろうからな。それに義景も撤退するだろうから、纏めて一網打尽にしてやるさ。」

「そう、ですか……」

 蘭は複雑な表情で俯いた。


 昨日確認したテキストによるとこの戦は、朝倉の居城の一乗谷城を滅ぼすきっかけになった『刀根坂の戦い』に繋がる戦のようだった。今信長が言ったように大嶽砦を奇襲した事で義景は浅井を一旦放って越前へ逃げると書いてあった。そしてその途中を追撃して朝倉軍にダメージを与えるという事も。

 蘭はテキスト通りに事が進んでいる事に恐ろしくなりながらも、信長と共に目の前の惨劇を眺めていた。


(まぁ、こんな残酷な地獄絵図を平気で見ている俺も恐いけどな……)


「よし。では行くか。」

「え?何処に?」

「決まっているだろう。奴の本拠地、一乗谷城だ。」

 信長は黒い瞳を輝かせて言った。




―――


 豪雨の中の突然の織田軍の奇襲により、朝倉軍は散り散りになった。義景は一旦越前へ引く事を選択し、織田軍も浅井軍は後回しにして朝倉を追いかけた。

 そしてついに刀根坂の戦いが始まる。



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