第7話 黄昏の関中にて
旧秦の地は三分されている。
それぞれに王が立てられたが、いずれも秦の将軍だったことから領内の反発は凄まじいものがあった。
曰く、味方殺し、あるいは死に損ない。人々は陰で彼らをそう呼んだ。
歴史を紐解いてみても、憎まれ、軽蔑された領主が統治に成功した例はない。
それは彼らとて例外ではなかった。
その中の一人、
彼の家は代々将軍を輩出した家系である。ただし、彼自身は文官として秦に仕えていた。それが、相次ぐ敗戦と
劉邦ら楚軍の前にも関中に迫った反乱軍がいる。その大軍を文字通り粉砕したのがこの男だった。
彼のように軍事経験の無い者が突然一軍を率い、しかも成果を上げるという事例は洋の東西を問わず、
ただ、章邯の場合。その幸運が続いていたとしても、項羽の暴威に立ち向かう事は不可能だっただろう。同情の余地は大きい。
「だから、そんな兵力は無いと言っておるだろうが、分からん奴だな」
「なにも訓練された兵でなくてもいいんだけどなぁ、たとえば
「おう、案山子か。成る程、そいつは飯も食わないし経済的だな。って、誰がそんなものを運ぶのだ。からかっておるのか」
横で聞いている張良は真面目な顔を取り繕うので精一杯だった。お腹が、痛い。
「曹参どの、案山子はもののたとえです。農民でも何でもいいから、兵士に見えれば良い、と云うことです。そうだな、韓信」
「はあ、そういう事です。擬兵というやつで」
「だったら最初からそう言え、面倒くさい奴だ!」
言っておくが、曹参は決して気が短い男ではない。韓信と一日話していると、大抵の人間はこうなる。
戦力的に劣る漢軍は、その狙いを章邯一人に絞った。旧秦軍の中で脅威となるのは、もはや彼だけだったからだ。本体である章邯さえ倒せば、あとの二人の王など放っておいても立ち枯れる。張良と韓信はそう判断した。
一撃で章邯の本拠地を衝く。その為にはどうしても陽動部隊が必要だったのだ。
漢中から中原へ出るルートは限られる。それこそ四百年の後、諸葛孔明率いる蜀軍が通ったものとなんら変わりは無かった。
まず、東から武器らしき物を持った怪しげな集団が賑やかに関中に乱入した。迎撃のために兵を出した章邯の軍を、待ち構えていた韓信の主力軍が包囲した。
「突破しろ、城へ戻れ!」
章邯は軍を錐状に集結させ、包囲を破ろうとする。しかし、それを韓信の用兵が上回った。突破されたと見せかけ、脱出しようとする章邯軍をさらに途中分断する。そしてまた個別に包囲し、撃滅する。
救援に出てきた城兵も伏勢によって横撃され、四散した。
「これは、魔法か」
劉邦がぽかん、と口を開けたまま戦況を見詰めている。彼もやっと、自分が斬り捨てようとしたものの本当の価値が分かった。
徐々に秦兵は撃ち減らされていき、ついには全滅した。章邯も自ら死を選んだ。
彼はもう自分には帰る場所がない事を、よく知っていたのだろう。
章邯亡きいま、他の二人の王など物の数に入らなかった。ほとんど日を置かず、彼らは韓信によって滅ぼされた。今回は包囲戦を行わなかったため、敵兵の多くは四散した。劉邦もあえて追わせなかった。兵士は、故郷へ帰ればいいのだ。
こうして、関中は劉邦のものになった。
既に手にした漢中と蜀をあわせ、これから劉邦が中原を制覇していく上で最も重要な後背地を固めたことになる。これが彼の命綱と言ってもいい。
項羽に対し百戦百敗といわれた劉邦だが、この地域だけは絶対に手放さなかったことからもそれが分かる。
張良は、隣に立つ劉邦を見た。前には、ふたりの長い影が伸びている。
「少しだけ威厳が出てきたようだな。漢王よ」
劉邦は苦笑した。
「心にもないことを。だが、お主に言ってもらえると、嬉しいぞ。子房」
身体をかがめ、張良の顔をのぞき込んだ。
「もう少し手伝ってくれるのだろう?」
今度は張良が苦笑いを浮かべた。
「それは以前、樊噲に言われた台詞だ。
「韓王信の嫁になるのだったな」
張良は少しはにかんだ笑顔を見せたが、すぐに首を横に振った。
「それこそ、まだ分からん。項羽を倒し中原の統一が果たされて、その時生き残っていれば、……そうだな。そうなるのかな」
では、せいぜい時間を掛けるとするか。わしもまだ諦めておらんしな。お前のことを。
「おい、劉邦。なんだそれは」
「いや、何でも無い。行くぞ、作戦会議だ。今後の方針を決定せねばならん。いい案はあるのだろうな」
当たり前だ。張良は彼の後を追った。
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