第5話 論功行賞の行方

 張良は虚ろな表情で、竹簡を拡げては、また閉じてを繰り返していた。思うことはただひとつ。

「咸陽を陥したところでさっさと逐電ちくてんしていればよかった」

 あの時、樊噲が呼び止めさえしなければ。

 なによりその前に、あの馬鹿が狼藉を働いてさえいなければ。

 ひとり呟き、出るのはため息ばかりだった。自然と苦笑いさえ浮かんで来る。

 ああ、いつから私は、こんな後ろ向きな人間になったのだろう。

 そしてまた、ため息。

 どんよりとした空気が天幕の中に充満していた。


 来客を告げる声が、天幕の外から聞こえた。断ろうか、一瞬思う。

「入ってもらえ、韓信」

 天幕の隙間から、呆れるほど長身の男が、ぼんやりとした顔を覗かせた。

 先日、項羽の軍から鞍替えしてきたばかりで、取りあえず張良の護衛を任されている。郎中だった彼にとっては警護の対象が変わっただけとも言えるのだが。

「誰だ?」

「俺が知ってる訳がないだろう」

 それはそうだ。聞いた私が悪かった。と、また後悔する。


 そんな、どん底まで落ちた張良の精神状態だったが、入ってきたその男を見た瞬間、一気に弾みだした。それだけ懐かしい顔だった。

「韓信ではないか!」

 説明が必要だろう。

 この韓信はもちろん郎中の韓信とは別人である。史記などにおいて多くの場合『韓信』と記されている。「韓」の「王」で名前は「信」。と云うことだ。

 劉邦の陣営にいるこの時点の彼は王ではないのだが、紛らわしいので、出来るだけ韓王信と呼ぶことにする。韓の王族。つまり、張良にとっては旧主筋ということだ。

「ああ、胡蓉。会いたかったぁ」

 飛び込んで来たのは二十歳くらいと思える青年だった。もう一人の韓信ほどではないが結構な長身だ。

 幼な顔をくしゃくしゃにして張良の手をとる。

 彼は劉邦の別働隊として旧韓の地を中心に戦っていた。

「ここがよく分かったな、信」

 ああ、と韓王信は笑った。

「だって、天幕の前に竹簡を満載した荷車が置いてあれば、胡蓉だと見当がつくさ」


「そうだ、挨拶がまだだったな。韓(王)信、韓の地を平定して沛公の本隊に合流いたしました。軍師どののお顔を拝見できて、……胸が、いっぱいです」

「泣くな、ばか」

 張良は劉邦に対する時とは別人のように優しく言った。

 韓王信は最後の韓王の側室の孫、ということらしい。韓の王宮にはこんな子が何人もいただろう。王位を継げる訳も無く、ある意味自由に宮廷を闊歩していた。信もその一人だ。そしてその頃、宰相の孫娘と出会った。同世代の二人は、すぐに仲良くなった。男勝りで気が強く、そのくせ書物が大好きなその少女。

 名前を、胡蓉といった。


 韓の王都が陥落し、二人が離ればなれになった日の事を彼らは決して忘れないだろう。別れ際にした初めての口づけと、その後に起こった二人の身体の異変を。

 そして数年の後、胡蓉の父の張良が、劉邦の命により韓の地を攻略していた時、韓王信は胡蓉と再会したのだ。

 彼はに戻って、そして彼女は、実際より十歳以上もとして。


 そして、今はまた年齢が逆転していた。


「論功行賞の結果か。私もまだ聞いていないのだが」

 張良も首をひねった。

 韓王信は急に深呼吸を始めた。真っ赤な顔になっている。

「おい大丈夫か、信」

「胡蓉。聞いてくれ」

「なんだ」

「もし僕が韓王、とまでは言わないが、少しでも領土をもらったら。その時は、僕と一緒に、来てくれないか!」

 張良は自分の頬が緩むのを感じた。

 ああ、この男は。張良は胸が温かいもので満たされるのを感じた。

 目が潤んできた。

「なぜだろうな。この場面を何度も夢で見た気がする」

 ん?韓王信が首をかしげた。

「それは一体、どういう……」

「決まってるだろ、それはな」

 そういう運命だったんだよ、と口に出しかけたところで、また天幕の外で声がした。

「張良さま、韓(王)信さま。沛公がお呼びです。至急おいでください」

 二人は顔を見合わせた。



「か、漢中王だというのだぞ。このわしが」

 劉邦が呆然としている。

「な、な、子房。嘘だよな、だってわし、王になるはずだったんだぞ。そういう約束だったのだ」

 張良の両肩を掴み、訴える。涙と鼻水とよだれが劉邦の長い顔を汚している。

 可哀想、という気さえ起きなかった。

 知るか馬鹿、天罰が下ったんだ。張良は口の中で呟いた。

「これは、字面が似ているから書き間違えたのだよな、きっと」

 とことん往生際が悪い。張良は冷たく切り捨てた。

「これを間違えるのは、お前くらいなものだ。受け入れろ、現実を」

 がっくり、と膝をつく劉邦。なにか空気が抜けるような声を発してうつむいている。

 張良が話しかけても、ついに返事さえしなくなった。

 仕方なく、横に控える簫何に目をやった。

「こんな奴の事はともかく。信は韓の地に戻れるのですか」

 簫何は口を一文字に結んで、首を横に振った。韓王信には何一つ与えられなかった。国はおろか、郡も、県すらもだ。

「う、うそ」

 張良は横に立つ韓王信の顔を見ることができなかった。怒りで身体が震えていた。

「なぜです。信は旧韓の地をほとんど制圧したのですよ」

 その韓には、やはり王族に連なる韓某という男が王として封ぜられた。

 その男は常に項羽に付き従っていたが、特に功績は上げられなかったという。単に韓の出身だから、というのがその理由のすべてだった。

「だったら、信の方がふさわしいだろ……」

 張良は言葉を詰まらせた。ぐっと上を向く。しばらくそのままの姿勢でいた。

 ふーっ、と息を吐く。その時にはもう普段の冷静な表情に戻っていた。

「これは、やられましたね。簫何さま」

「はい」

 張良は韓王信を見た。衝撃からまだ立ち直れていない様子で俯いている。

「すまんな、信。お前は我々に近すぎたんだ。そんなお前を、項羽が王侯に封ずるはずもなかった。理由はそれだけだ。お前のせいではない、我々の、いや端的に言ってこいつのせいだ。今のうちだ、好きなようにするがいい」

 見る影もなく落ち込んだ二人の男を残し、張良は自分の天幕に戻った。


 天幕の前では、韓信がその長身を横たえるようにして竹簡を拡げていた。そう言えばこいつは私の護衛なのではなかったか?

「何をしている」

 張良が声を掛けると、韓信はものぐさげに顔をあげた。

「ああ。読ませてもらっている。面白いな、これは」

 のぞき込むと、張良が咸陽から持ち出した竹簡だった。荷車から勝手に持ち出したらしい。呆れた護衛が居たものである。

 だが、驚いた張良は彼に文句を言うことを忘れていた。もちろん、驚いたのはその態度に、ではない。

「読めるのか、これが」

 文盲が普通の、この時代だ。

「ああ、少し学んだことがあるからな。どうも、俺がぼんやりしていると、皆、何かを教えたくなるらしいのだ」

「それは、うらやましい性格だな」

 決して皮肉ではなかった。

「私も、お主に教えてやりたくなった。分からないところがあれば、訊け」

 韓信は、無邪気な表情で笑った。

 少しだけ、胸のつかえが取れた気がした。

 そうだ。この男、どこか劉邦に似ているのだな、そう張良は思った。


 韓王信の、渾身のプロポーズも不発に終わり、張良は彼ともども劉邦に従い漢中へ向かうことになった。一緒に居たいという願いだけは叶ったのだから、もって瞑すべしという所か。




 漢中そして蜀。秦によって開発が進んできたとは云え、いまだ中原の人間にとっては霧の海に沈んだ未知の世界であっただろう。

 後の世でさえ、蜀への道は天に昇るより険しい、とうたわれた、しょく桟道さんどうが彼らを待っている。


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