第5話 女神の死の抱擁(5)

放課後、空は校長室を訪れた。津田沼校長亡き後、教頭の富岡征二が新校長になると決まったので、メルマガに載せる富岡教頭のプロフィールを秘書の新井奈穂から教えてもらうためだった。


 しかし、校長室のドアは閉まっていた。


 いつもなら校長室のドアは大きく開かれていて、中に入ると机に座っている奈穂が笑顔で迎えてくれ、もう一つのドアの向こうにいる校長に取り次いでくれる。


 奈穂は超がつく美人だ。落ち着いた話し方から三十歳は過ぎているだろうと思われるのに小柄なせいで若く見える。メイクをせずに制服を着たら高校生にみえなくもない。奈穂に憧れている男子生徒は少なからずいて、彼らはよく何の用もないのに校長室の前を行ったり来たりしていた。


 津田沼校長が亡くなって、学園では一番身近に接していた秘書の奈穂は忙しく立ち回らなければならなかったはずだった。しかし津田沼校長が亡くなった時を境に、ぴたりと奈穂の姿を見かけなくなった。


 不思議に思いながら、空は隣の事務室にむかった。


「星野さんじゃない、何か用?」


 事務室に入るなり、目ざとく空に気づいた浅見幸子が笑顔でカウンターまで近づいてきた。もう一人の事務員、本宮玲子も机から顔をあげ、空にむかって微笑んだ。二十代半ば、小柄でぽっちゃりとした可愛らしい感じの女性だ。対して、幸子は高校生の子供がいそうなくらいの年齢で、生徒たちを自分の子供のように扱うが、独身だ。玲子とは正反対の外見で、痩せていて背が高い。


「浅見さん。新井さんに用事があったんですけど、いないみたいで」


「新井さんなら、今日はお休みよ。きょうと……じゃないんだった、もう。校長先生に用事があるなら、かわりに取り次いであげましょうか?」


「メルマガに載せる校長先生のプロフィールを受け取りに来ただけなんで」


「それなら、新井さんから預かってるわ。ちょっと待ってね」


 そう言うなり、幸子は自分の机に戻っていった。


「データはこのフラッシュメモリに保存してあるから。それとこれはプリントアウトしたもの」


「助かります!」


 幸子からメモリを受け取りながら、空はざっと資料に目を通した。生年、最終学歴、主だった業績など、頼んでいた情報はそろっているようだった。


「富岡校長って、津田沼校長と同じ大学の出身なんですね」


 マスメディア部は学園のホームページを管理している。校長の挨拶に掲載されている津田沼校長のプロフィールを空は覚えていた。富岡校長の最終学歴を見て、一瞬、津田沼校長のプロフィールをもらってしまったかと錯覚したのだ。しかし、卒業した年が離れていた。


「同じ大学の後輩だって聞いてるけど。津田沼先生が理科主任になった時だったかしら、よその学校から引き抜かれてきたの」


 富岡校長が学園に就任してくる以前に勤務していた学校名もプリントには記載されていた。


「新井さん、最近見かけないですけど、事件のショックで休んでいるとかですか?」


「ショックには違いないと思うけど」


 幸子は困ったような表情を浮かべてみせた。つられるようにして空の表情も曇る。

「新井さん、もうすぐ辞めるので、有給休暇を消化しているところ」

「辞めるって、津田沼校長が亡くなったからですか?」

「いいえ、前から決まっていた事なんだけどね。次の人が決まるまでは私と本宮さんとで新井さんの秘書の仕事もしているの」

 高等部の事務関係は幸子が主に担当し、玲子は中等部の事務を引き受けている。仕事が増えて大変ですねと空が言うと、幸子は四角い肩をすくめてみせた。

「本宮さんと分担しているから、そうでもないわね。一人でやれって言われたら、私ならすぐに辞めていると思うけど。実際、亡くなった津田沼校長の秘書はみんな一年ぐらいしか続かなかったから。新井さんは三年も続けてきたっていうんだから、もった方かな」

「秘書の仕事って、そんなに激務なんですか?」

 忙しそうにしているけれどかりかりしているような奈穂をみたことがなかった空は不思議に思い、無邪気に尋ねた。すると幸子は、カウンター越しに空に顔を近く寄せたかと思うと、他には誰もいないというのに声をひそめ、

「あの津田沼校長相手なら、大変だったと思う」

 ああと、空は、意味深な笑みを浮かべている幸子にむかって頷いてみせた。

 亡くなった津田沼校長は誰にでも好かれるという人物ではなかった。空は生徒の立場からしか人物を知らなかったが、嫌いとは言わないまでも好きにはなれなかった。廊下を走っていた生徒を捕まえて、ネチネチと説教している所は何度も見かけたことがある。きっと教師たちや事務員の幸子たちに対しても、仕事に関してはややヒステリックで粘着質っぽい態度をとっていたのだろうと簡単に想像がつく。

「憎まれっ子世に憚るっていうけれど、ギリシャの神様は憚るのを許さなかったみたいね」

 皮肉たっぷりに幸子は言った。

「どういうことですか?」

「校長を押しつぶしていた像って、ビーナス像なんでしょ」

 ビーナスは愛と美の女神であって、悪人に鉄槌をくらわすというのなら復讐の女神ネメシスの仕事である。 

「こういっては何だけど、津田沼校長が死んで、みんなほっとしているのよ」

 眉をひそめ、囁くように言う幸子の目は輝いて、声の調子は軽く弾んでいた。

「先生たちを校長室に呼びつけて怒鳴りつけるなんて日常茶飯事だった。怒鳴り声が廊下とか事務室まで聞こえてきて、すごく気分が悪かった。美術部の子たちは黙ってないで言い返したりしてたけどね」

「石膏像の件ですね。市川先生も津田沼校長にいろいろ言われたとか」

「誰かがいたずらしていたのに間違いないのに、美術部の管理がなってないって、ずっと言ってたわ」

 まるでその場にいたかのように、幸子は露骨に嫌な顔をしてみせた。

「マスメディア部の顧問の宮島先生も、何度も呼び出されたって言ってました」

「文化祭のゲストの件でいろいろ書かれたからでしょ?」

 生徒の父親が社長を務めている芸能事務所所属の芸能人が招かれた件だ。旬を過ぎた歌手だったので、生徒からは顰蹙を買った。津田沼校長とその生徒の父親との関係は文化祭後に発覚したのだが、生徒の名前が明らかになって納得する部分があった。お世辞にも出来のいいとはいえない生徒で、どうして学園に入学できたのかも謎である。そうした生徒についてまわる噂話として、裏口入学ではないかと陰口をたたかれたりもしていた。

「亡くなる少し前には松戸先生と白石先生を呼び出して、すごい剣幕で怒鳴ってたっけ。校長に怒鳴られたことのない先生はいないと思うわ」

「松戸先生と白石先生……なんで怒られていたんでしょうね」

 松戸は生物、希美は英語を教えている。松戸は四十過ぎ、希美は二十代後半。生徒たちに特に人気があるというわけではなかったが、かといって嫌われているわけでもない。津田沼校長に叱責されるような問題があるとは思えない二人だ。

「さあ。津田沼校長ってちょっとしたことですぐ怒る人だったから、きっと他の人には何でもないことでグチグチ言ってたんじゃないのかしら。誰でもいいから怒鳴り散らしたいっていう人だったし」

 立ち話を切り上げ、事務所を出て行こうとした時だった。入れ違いに入ってきた生徒がカウンター越しに幸子に声をかけた。

「浅見さーん、茶道室の鍵、貸してください!」

 空との世間話を終え、机に戻って椅子に腰かけようとしていた幸子は浮かした腰を下ろすことなく、事務室の奥にむかった。

 事務室の脇の壁には小窓がしつらえてある。新校舎正面玄関に来た客に応対するためだ。幸子はその小窓にむかっていき、小窓から少し離れた場所で立ち止った。幸子の視線の高さにヒューズボックスのようなものがあった。ボックスを開け、幸子は中から鍵を取り出した。どうやらヒューズボックスのように見えたものは事務室にあると聞いていたキーボックスに違いなかった。

「はい、茶道室の鍵、山下さん」

 幸子から鍵を受け取りながら、その生徒は笑顔で首を振った。

「違います、相馬です」

「あら、ごめんなさい」

「大丈夫です、私たち、よく間違えられるから」

 相馬七美は軽く頭を下げ、鍵を手にぱたぱたと駆け足で事務室を出ていった。

「年のせいか、今時の若い子はみんな同じに見えるのよ。タレントとか誰が誰だか区別つかなくて」

 自虐的にそういうと、幸子はふっとため息をこぼした。

 相馬七美と、幸子が間違えた山下聖歌は茶道部員だ。部活のために茶道室の鍵を借りにきたのだろう。

「浅見さん。学園の鍵はそのキーボックスに保管されているんですか?」

 空はさりげない様子を装って幸子に尋ねた。

「ええ。といっても、旧校舎の鍵だけなんだけど。新校舎の教室はカードキーだから」

「キーボックス自体に鍵はかかっていないんですか?」

 空が見た限りでは、幸子はつまみのようなものを引いてボックスを開けた。

「鍵はついてるけど、壊れているからかけないようにしているの。かけてしまうと開けられなくなるから。鍵の意味ないわよね」

 ならば、事務室さえ出入りできれば誰でも鍵を手に入れることができる。問題は、事務室には常に幸子と玲子の二人、もしくはどちらか一人が常にいることだが。

 事件のあった日、市川はいつもより早めの時間、五時前には部活を切り上げ、美術室の鍵をキーボックスに戻したと言っていた。事務室が閉まるのは五時ごろだから、市川が戻した鍵を誰かが、つまり津田沼校長を殺害した犯人が持っていったことになる。

「津田沼校長先生が亡くなった日、市川先生が鍵を返した後、誰か事務室に来た人はいますか?」

「さあ。あの日は私は早番で、四時には帰ったから」

「早番?」

「早番と遅番があるの。早番の時は朝早くに出勤して、早く帰る。遅番――っていっても普通の企業と同じだけど、九時五時の就業時間ね。あの日は、本宮さんが遅番だったから。本宮さん、何か知ってる?」

「トイレに立って席を外していたりしたらわからないです」と玲子は首を横に振った。

「そうそう、美術室の鍵で思い出したんだけど」

 そういうなり、幸子はそそくさと机にもどり、引き出しから小さな紙袋を取り出し、空のもとに持ってきた。

「何ですか、これ」

 袋の中身は金属の塊、何かの部品のようなものだった。

「海くんが体当たりでドアを開けた時に壊れたっていう美術室の鍵。新しい鍵を取り付けた時に、業者に古い鍵を引き取ってもらってもよかったんだけど、何となく、手元に置いておきたくて取っておいたの。海くんに見せてくださいって頼まれていたから、これ、海くんに渡しておいてくれる?」

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