そらをたつ(5)

          ☆    †    ♪    ∞


 彫谷ナオエは、それまで夢中になれるものがなかった。

 塾講師で教育熱心な母親を持つためか、幼い頃から他の家庭よりも比較的システマチックな教育を受けた結果、その知性がナオエに冷静をもたらした。

 遊び相手はいても友達と呼べるような存在ではなく、遊ぶにしてもそれは仲間はずれにされたくないがゆえの付き合いに過ぎない。

 親にいくつか習い事を勧められたりもしたが、それも乗り気にはなれなかった。


 冷静であることが、次第にナオエを孤立させた。

 夢中になるとは、いったいどういうことなのか。

 胸の奥底に溶けない氷を抱いたまま、ナオエは中学に上がった。


 そして――唐突に、その氷は砕け散ることになる。


 一年生向けに行われた部活説明会。そこでナオエは初めて刻ランセという存在を知った。

 剣道全国大会に出場し、優勝するまでのランセの姿が映像で流されたがその効果は絶大で、その年の剣道部入部希望者は二〇人超。

 ほとんどがランセ目当てであり、ナオエもその一人だった。

 が、ランセは滅多なことでは部活に参加しないという事実を知らされたために新入部員は一月経たずに半数以上が退部。


 ナオエもその一人になるかと思われたが――ナオエは剣道部を辞めなかった。


 ランセ目当てで入部したことは間違いではない。

 しかしナオエ本人にとっても予想外だったのは、剣道そのものに夢中になり始めたからだった。


 剣道のみならず、武道全般にある礼節と所作の美しさ。

 厳しい鍛錬によって余計な思考が取り払われる感覚。

 積み上げたものの結実を実感できる、試合に勝利した瞬間。

 その全てがナオエにとっては新鮮で、充実感を与えた。

 最初の頃は他の部員に白い目で見られているという自覚もあったが、素人ながらも休まず練習を続けた姿勢は次第に評価され、フミカを始めとした部員達との仲も良好になった。


 ランセを忘れたわけではないが、剣道に出会えてよかったと――確かにそう言える瞬間が、ナオエにもあった。


                        [四日後]

        [午後四時二一分]

                  [朝吹中学校 体育館]


 ひゅかんっっっ、と、竹の乾いた快音が体育館に響きわたる。

 流し――剣道における練習試合において、ナオエがフミカに打ち込んだ面がきれいに入った。


 が、その打突に気剣体の“気”は一切入ってない。

 あまりにも速く、鋭く、そして無機質な一撃だった。


「――……」


 一本を取られたフミカには、その実感すらない。

 ナオエの剣才は確かにフミカも認めている――が、ここ数日の伸びは異常とも思えた。

 その違和感は、フミカだけでなく他の部員にも広がりつつある。

 唯一、トモヒトだけはナオエの仕上がりに満足げだった。


「よーしよし! 今のはよかったぞ彫谷!」

「………………」


 トモヒトが声をかけるも、ナオエはなにも返さない。

 ぼう、とその場に立ちつくしたまま。


「彫谷、さん……?」


 すでに試合終了の儀礼として開始位置で蹲踞していたフミカも、ナオエが動かないことにいぶかしむ。




「――――――――ぇへ」




 ナオエの全身が、一瞬消えたかのようにブレた。

 たった一歩。二の足も踏まぬ疾風のごとき踏み込み。

 そこから充分な加速を乗せて繰り出される片手の縦一閃。

 剣道の面打ちとは全く違う、一切の遠慮ない打ち下ろし。


「っ!?」


 ギリギリで反応し、防御に回ったフミカであったが、

 その一撃は盾にした竹刀ごとフミカの脳天を強打した。


 脳震により意識が途絶し、その場に倒れるフミカ。

 他の部員も、トモヒトでさえもその事態に絶句した。

 その中で――ナオエだけが何事もなかったかのように、平然と面を脱ぎ捨てる。


「――ぜぇぇぇんぜんダメじゃないですかぁ。今のも防げないなんて」


 弱者を蔑む、温度のない嘲笑。

 毛細血管が異常をきたしたのかナオエの顔の右半分には赤黒い亀裂のような模様が浮かび、右目も真っ赤に充血している。


 その行動、表情は普段のナオエとは別人とすら思わせる様相。

 尋常ならざる変貌だった。


「お、おい……彫谷……?」

「……先生ぇ。私、もう上がりますね」


 恐る恐る呼び止めようとするトモヒトをまるでいないものとして扱うかのように、ナオエは歩き出した。

 手ぬぐいや胴、小手、垂の防具一式もその場に脱ぎ捨てながら、しかし竹刀だけは離さずに。

 そんなナオエを、トモヒトも、他の部員も、誰も追えなかった。

 フミカが一撃で倒されたように、阻めば除かれるだけと解ってしまったから。


「やっぱり……刻先輩じゃないと。刻、先輩…………ぅふ、ふふ、ふふふひひひ……」


 頬がゆるむ……といった自然な笑みではなく狂気によって表情筋が引きつったような痙笑けいしょうを浮かべ、裸足のまま体育館を出るナオエ。


 ランセの居所は解っている。

 公立春日峰かすがみね高校。

 朝吹中学校とは道路一本でつながっており、距離もおよそ六〇〇メートル強と遠く離れているわけではない。

 今の自分なら、走れば一分もかからない。


 もし春日峰にランセがいなかったら?

                   その時は誰かに聞けばいい

          手当たりしだいに


 なんなら

        その場の人間を

                  皆殺しにしてもいい


 その方が早いかもしれない    きっと早い


 だってあの人は




              あのひとは――




 澄みきった思考と、歪みきった認識。

 ナオエは走り出した。裸足の上に袴姿であるにもかかわらず、陸上選手も唖然とするような速度で。


 それは欲望を心身に満たし、欲動を解き放った獣だった。

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