6.満点だよこれ - 草津温泉③

 目を覚ますと、隣でえるが眠っていた。

 ついさっきまでなにか夢を見ていて、私はちょっとした人生の窮地に立っていながらやけに冷静だったはずなんだけど、その記憶は輪郭だけが残ってあとはほとんど消えてしまった。なんなら、昨晩宿に戻ってお風呂で体を温めた後の記憶もあいまいだ。コンビニで買い込んだお菓子を食べながら、夜更けまでとりとめのない会話に花を咲かせていた記憶はあるけど……はて、なんの話をしていたのやら。

 身を起こしてスマホを手に取り、時刻を確認する。午前7時。4時間くらいしか寝てない? チェックアウトは10時だから、もうひと眠りしようか。

 スマホを置こうとしたら、えるが身じろぎした。私は思わず動きを止めて視線を向ける。早寝早起きのえるはいつも0時を回る前には布団に入って、6時過ぎには起きている。こんな時間になっても眠っているのは珍しい。

 もしかして、こうしてえるの寝顔をまじまじと眺められる機会ってレア? ……いや、昨日のバスでもあったな。

 造形の美しいものは人の目を惹きつけて離さない。名画や絶景がそうであるように、えるの顔もそうだ。

 眺めること数秒、ふと、いま私の手の中にはスマートフォンという文明の利器があることに気がついた。この液晶の板は通話やインターネットができる以外に、なんとカメラとしての機能もある。それがどういうことか、もはや言うまでもない。魔が差すや否や、私はカメラを起動してえるの寝顔を写真に収めた。

 起こしたらなに言われるだろう、なんてことを考えたのはばっちり撮り終えたあとのことで、幸いにして熟睡しているのかえるは目を覚まさなかった。

 削除しようなんて殊勝なことは思いもしなかったけど、ホーム画面にするなんてリスキーな真似もしなかった。やけに冷静な私だ。

 スマホを置き、寝ころんでえるの顔を見つめる。こうしているとなにか悪いことをしているみたいだ。なんでだろう……美しいものを独り占めしているから? でもだからっていま撮ったえるの写真をインターネットにアップロードして全世界に共有したらより重い罪を背負ってしまうんだよなあ……なんて、くだらないことをしみじみと考えた。まだ眠いらしい。ほら、再起した睡魔がじわじわと……。


 ……次に私が起きたときにはえるはすでに目を覚ましていて、急いだ様子で荷物をまとめていた。

 時刻は9時半。飛び起きた。


「なんで起こしてくれなかったの」

「わたしも起きたばっかりよ」


 とは言うけども、えるの髪は綺麗にかれていて、寝起き特有のぼんやりした感じがない。洗顔もばっちり終わっているみたいだ。

 だけど、そんなえるに文句を垂れている時間はない。超特急で洗顔、着替え、軽い化粧と荷物の片付けを済ませた。えるはそんな私を尻目に、昨晩コンビニで買ったお菓子の余りを朝食代わりに齧っていた。

 文句を垂れる時間はなくても、恨みがましい目で見つめたりはする。


「あによ」

「……や、うん。なんでもない」


 こっそりとスマホのアルバムを確認すると、最新の写真としてえるの寝顔が表示された。えるの知らない、でも私が知っているえるに関すること。

 思わず「ふふ」と笑みをこぼすと、えるは「きもちわる」と言った。



          *



 慌ただしいチェックアウトを済ませて、私たちは昨晩も歩いた西さいの河原通りを歩いた。

 夜に賑やかだった飲み屋がのれんを下ろす時間帯には土産物屋が盛んに客を引いている。ひっそりとしていた旅館は多くの旅行客を見送っていた。昨日歩いてからまだ半日も経っていないはずだけど、まるで別の場所みたいだ。

 それは夜にはライトアップで幻想的な風景を作り出していた西の河原公園もそうで、湯や風の音だけが支配していた夜とは打って変わっていまは足湯や上流に設えられた東屋で多くの人が風景や談笑を楽しんでいる。

 夜中の公園がモノクロームなら、いまの公園は極彩色だ。


「こう賑やかなのを見てると、昨夜ふたりでふざけてたのが夢だったみたいに思えるね……」

「全身濡れ鼠で宿まで戻ったあの寒さはしかと記憶に刻まれているけれどね」

「うん、まあね……」


 ため息交じりのえるの言葉には頷くほかにない。もし宿に戻るなり入浴して体を温めていなければ、私もえるも十中八九旅先で風邪をひくという苦々しい思い出を抱える羽目になっていただろう。


 ……まあ、それはそれとして。

 夜には夜の、昼には昼の美しさがある。夜には闇に沈んでいて気づけなかったけど、西の河原の岩々は温泉の成分が固着したのか所々がエメラルドグリーンに染め上げられている。紅く染まりつつある周囲の木々とのコントラストはまさに風光明媚だ。

 えるがぽつりと言った。


「もっと早朝に来ればよかったわ」

「どうして?」

「人、多すぎ」


 いつものだ、と相変わらずの人嫌いに呆れる一方、強く頷きたい気持ちもある。自然の音だけが満ちた場所には心洗われるものがあるから。

 幻想的だった夜の残滓が漂う黎明の光景には、代えがたい無二の澄んだ美しさがあるのかもしれない。



          *



 再び西の河原公園を訪れたのは、昼の景観も楽しみたかったから……というのもなくはないけど、本命は温泉に入るためだ。

 公園に隣り合った場所に、西の河原露天風呂という浴場がある。その立地や知名度の高さもあって利用者は多いけど、充実した設備やバラエティ豊かな温泉がウリというわけじゃない。流し場がなく脱衣所を出ると、そこには岩に囲まれた広い露天風呂ひとつだけ。純然たる入浴のための温泉だ。粗削りな光景は山奥の秘湯のような趣もある。


「なんか、ちょっと申し訳なくなってくるなあ……」


 公園の岩とよく似た薄いグリーンの湯を見て、私はそう零した。


「なにが?」

「お湯の色が神々しいなと思って。昨晩足湯で遊んでたのが悪い気がした」

「さとって変な感性してんのね」

「変って」

「ちなみにだけど、公園の足湯とここって違う源泉なのよ」

「え、まじ?」

「公園は西の河原源泉で、ここは万代鉱源泉。でも場所が西の河原だから西の河原露天風呂」

「ややこしー」


 そんな会話のあと、言葉はとぎれとぎれになって、岩にもたれかかりながらぼんやり湯に浸かって過ごした。

 露天風呂を囲う木塀の向こう側、山々に茂る木々は、緑、黄、赤と色とりどり、各々好きな色に染まっている。もう1週間か2週間もすれば、鮮やかな紅葉に染まって見事な風景が見られたかもしれない。

 でも、これはこれで乙かなあ……なんて思うのは温泉で温まっておおらかな気分になっているからかな。でも、人間その気になればなんでもエモーショナルに感じるものだ。平安の歌人だって、事あるごとにをかしをかし言ってて、たまたま筆と墨と短冊のあったときに歌を詠んでいたんだよ。

 ……って、この渡井紗鳥とかいう女は平安の歌詠みをなんだと思うておるのか?


 山から視線を上方へスライドさせて、空を見上げてみる。どこまでも広がる青の中を、ばらばらの雲たちがゆるやかに流れていく。


「あの雲があの木の枝の先を越えたら出ようか」

「あの雲ってどの雲?」

「あの端っこのほうの、マヨのボトルみたいなやつ」

「あの枝ってどの枝よ」

「ええと、あの葉っぱが散ってるやつ」

「んー……」


 流れる雲と同じように、私たちの言葉も吐き出されては流れ、吐き出されては流れ、とめどなく、なんとなく、交わされているような、垂れ流されているような、ふわふわとして過ぎ去っていく。意味なんてなくて、雲の形を誰も気に留めないように、この言葉は記憶もされないまま溶けて散って消えてしまう。だけどそれが心地よい。言葉は残らなくても、この時間は私たちの記憶に刻まれて、きっと死ぬまで消えることはない。

 結局、温泉を出たのはマヨのボトルみたいな雲がどこへ流れていったのかすっかりわからなくなってからだった。



          *



 草津に数あるまんじゅう屋の中でも、行列の絶えない人気を誇る山びこ温泉まんじゅう。湯畑の正面に店を構えるその店の看板商品のひとつであるあげぽてスウィート、その味は無類である。

 私とえるは射的の列に並びながらそれを齧っていた。

 スイートポテトをただ揚げただけと侮るなかれ。カリカリの衣の食感はひと噛みごとに心地よく、揚げ物好きにはたまらないものがある。控えめな甘さはおまんじゅうのあんこの甘さが苦手だという人にもお勧めできる塩梅で、それでいて揚げているからこそ満腹感も十分にある。


「……私、思ったんだけど」


 私が食べるのを中断して呟くのに対して、えるはあげぽてを齧りながら目線で続きを促した。


「もしかして揚げたらなんでも美味しいのか……?」

「でぶ」

「なんたる言い草!」

「発想がそういう類の人間だし、さっきもマヨとか言ってたし」

「ヘンケン!」


 実をいうと、食べても太らないというのが私のささやかな自慢だ。女子としてはむしろ大いに自慢したいところでもあるけど、そこはあえてささやかにとどめておくのがミソ。

 まあ、脚は太いって言われたんだけどさ……。


「実際、私は太ってないでしょ」

「いまはね」

「いま……」


 端的なその言葉は刺さった。いまはよくても、将来的にはどうか。自分の食生活を振り返ってみると、未来の肉体や健康にはあまり気を遣っていない。というか、『食べても太らない』とか言ってる奴が食生活に気を遣っているわけがないのだ。


「見直したほうがいいかなあ……」

「さしあたりそのあげぽてをわたしに譲ってカロリー削減に努めるのがいいと思うわ」

「なるほど、さすがに騙されないからね」


 私は食べかけのあげぽてを口に放り込んだ。


 ところで、温泉街の娯楽の定番といえば射的……らしい。私にはそういうイメージはなかったんだけど、事実として湯畑の周辺には3軒の射的屋があり、それぞれに列を成している。

 私たちの並んだ射的屋の店内は小ぢんまりとしていて、なんというか、落ち着く狭さだった。秘密基地的な猥雑さがある。

 ひな壇に並んでいるのは景品そのものではなくて、点数の書かれた的だ。10発で500円、当てた的の合計点数に応じた景品と引き換えることができる。このルールは柔軟で、友達の点数との合算や複数回挑戦しての累計点で景品を獲得するのもアリ。


「せっかくだし、勝負しない? 得点の多いほうが景品総取りで」


 そんな提案に、えるは乗り気だった。


「わたし、家族でアメリカ旅行に行ったときに実弾射撃をやったことがあるのよ」

「え、そんなコナンくんみたいなことが……?」


 ……結果だけ言うと、双方振るわず1点対1点で引き分け。猟師や警察官にはなれないな。

 合計2点でもらえたのはちゃちなストラップ。店員さんから受け取ったそれを、えるは私に差し出した。


「あげる」

「いいの?」

「実弾射撃の経験があるって言ったじゃない。あれ嘘。さと、半分くらい信じてる感じで面白かったから」


 えるは舌を出しながら器用に笑う。「に、2割くらいだし……」とかいう妙な返事は一種の降参宣言みたいだった。


「それに、わたしがあげるって言ったものは、さと、いるでしょ」


 覗き込むようにして視線を合わせてくる。その眼にはそらしたくてもそらせない引力のようなものがあった。私は頷くしかなかった。



          *



 800年以上の歴史を誇るという古刹・光泉寺こうせんじは湯畑の東側、温泉街を見下ろす位置にある。

 昨晩は山門に向かう階段に無数のキャンドルが灯されていて、湯畑のライトアップに華を添えていた。


「ここ、日本三大温泉薬師って呼ばれてるんだって」

「あとのふたつは?」

「有馬の温泉寺と、城崎の温泉寺か山中温泉の温泉寺か道後温泉の石手寺いしてじ。草津有馬がツートップで、あとのひと枠を3か所で争ってるの」

「まいったな、温泉寺と温泉寺と温泉寺が被ってしまった」

「開いた時には名前とコンセプトが被るなんて思わなかったんでしょうね」


 個人的には道後温泉石手寺にはぜひとも頑張っていただきたいところ。名前の被りが発生しているのはよろしくない。たとえば徳川四天王に本多がふたりいたら収まりが悪いよね。


「お、鐘鳴らせるみたいだよ」


 山門を抜けてすぐのところに鐘楼が設置されていて、1回につき100円を奉じることで誰でも鐘を撞くことができると書かれていた。柱に取り付けられた解説によると、草津温泉の酸性の空気に晒され続ける光泉寺の梵鐘は80年程度でダメになってしまうそうで、ひと撞き100円のお賽銭はそんな「日本一劣化の早い梵鐘」の交換のために使われるみたい。


「昨晩たまに聞こえてきたのはこの音だったんだね」

「やってみる?」

「……じゃあ、ここは一発」


 ただ個人的なお願い事をするだけのお参りとは違って、鐘を撞くというのは神聖な行いというか、厳格な儀式というか、とにかく少しばかり緊張してしまう。秋風にかき消されてしまうような情けない鐘の音を鳴らしたりしないよう、気を引き締めて撞かないとね……。

 意を決して100円を投じ、撞木から垂れる縄をぐっと掴む。深呼吸、それからぐっと引いて……勢いのまま、ええいっ!

 ボワーン!!

 と、大きな鐘の音が鳴り響いた。想像の優に3倍はある音量に、周囲の人々は驚いて一斉にこちらに視線を向けた。背筋が凍る思いがした。


「力みすぎ」えるは顔をしかめる。「ただでさえ短い鐘の寿命はさらに半分くらいになったわよ」

「わ、私も寿命縮んだよ……びっくりしたあ……」



          *



 早いもので、もう家路。

 帰りの特急電車は上野へ向かって走り出している。車窓を流れる木々の向こうに、大きな水たまりが広がっているのが見えた。先日の台風で満水になったダムに、まだ水が溜まったままになっているらしい。

 ふう、と私はため息をついた。これは疲労じゃなくて、落胆のため息。

 私は草津口の駅前の売店で販売しているという上州牛のすき焼き弁当に目をつけていて、帰りの電車で食べるつもりでいた。目玉商品とはいえ帰るには少し早めの時間帯だし、閉店間際でもない限りは買えるんじゃないかな……なんて考えていたのが甘かった。

 すき焼き弁当は見事に完売、もうひとつの目玉だった鳥めし弁当もこれまた完売。昼過ぎには完売していたそうで、午後3時台に店を訪れた私は完全に遅きに失していた。ちなみに閉店時刻は16時。閉店間際だった。

 内心楽しみにしていたプランだったけど、それが崩れることはまるで想像していなかった。それだけにショックは小さくない。満点を確信していたテストの最後の大問でつまらないケアレスミスをして95点だった……みたいな、そんな感じ。わかる?

 はー……。


「ねえ」


 もういちどため息をつくと、えるが話しかけてきた。向き直ると、口になにかを押し込まれた。むぐ、と声が漏れる。ふわふわしてて、柔らかで甘いなにか。餡の味……どらやき?


「せっかくの旅の終わりにため息なんてつくんじゃないの。それで口塞いでなさい」


 そういえば、売店ではどらやきやおまんじゅうなんかも売ってたな……。

 甘さが口いっぱいに満ちていくにつれて、欠落が少しずつ埋まっていくのを感じた。美味しいには美味しいけど、とびきり美味しいってわけじゃない。自分で埋め合わせに買ったのなら、きっと気分が晴れたりはしなかった。

 だけど、変な話かもしれないけど、胸中に渦巻いていたもやもやした気持ちは甘味が広がるにつれて解けていく。たぶん、口に押し込まれるものはなんでもよかった。この旅をせっかくと言ってくれたことが嬉しかったのだ。


「満点、満点だよこれ」

「なに、そんなに美味しかったの、それ」


 心が満たされる味だよ、と、私が答えるよりも前に、くうとお腹が鳴った。


「……逆でしょ、普通」


 えるは呆れ顔で言った。

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