4.八大神社・詩仙堂丈山寺

 京の都、狸谷山たぬきだにさんより下る長い坂道を、腰に二刀をいたひとりの男がゆらりと歩いている。

 色が抜け落ち、泥に汚れたよれよれの着物の裾が、そよ風を受けてひらひらと揺れる。獣のような臭いは、長い山籠もりの修行を経た彼の体から漂っているのではなく、今朝方狸谷の山中で斬り捨てた化け猪の返り血だ。

 時は江戸時代、慶長9年。男は名を新免武蔵守藤原玄信しんめんむさしのかみふじわらのはるのぶといった。

 すなわち、言わずと知れた二天一流にてんいちりゅうの開祖、宮本武蔵である。


 坂の中腹、神社の前で、武蔵ははたと立ち止まった。


「勝利を祈願すべきだろうか――」


 敵は吉岡門弟十数名。決闘を直前に控え、そう思った。吉岡道場といえば日の本にその名を轟かす名門である。名だたる剣客と兵刃を交えて無敗、剣聖宮本武蔵といえど、「もしも」のことがないとは言えない。


「――否」


 しかし、本殿を前にして武蔵は踵を返した。


「我神仏を尊んで、神仏をたのまず――」


 長年をかけて磨き上げてきた己の技こそが真実。神仏は尊びこそすれ、戦場いくさばを前にしてあてにするものではない。神社の清澄せいちょうな空気が、武蔵にそれを悟らせたのだ。


 そして訪れた一乗寺のくだり松、待ち受ける吉岡門弟どもを駆け向かうままにばったばったと斬り伏せて、果たして武蔵は勝利した。


          *


 ……というのは、私のテキトーな想像でしかないんだけど。

 決闘の顛末については文献によって諸説あるみたいだし、当時から二刀流だったかも知らないし、修行してたからってボロボロの着物で決闘に赴くわけないし。

 ていうか化け猪ってなんやねん。


 ただ、武蔵が「神仏を恃まず」と悟ったといわれる神社は確かに狸谷山不動院から下る坂の途中にある。

 名前は八大神社はちだいじんじゃ。鳥居のそばに宮本武蔵とのゆかりを宣伝する看板があるから、すごくわかりやすい。

 この神社はとにかく武蔵推しで、参道の掲示板には宮本武蔵を主役に据えた昔の時代劇映画のポスターが掲出されているし、お守りや絵馬なんかの授与品にも宮本武蔵が描かれたものが多々ある。


 極めつけは、本殿のそばで二刀を構えた鬼気迫る表情の宮本武蔵のブロンズ像。傍らには石碑があり、吉川英治よしかわえいじの随筆から武蔵が「神仏を恃まず」を悟る下りの引用が刻まれている。

 人影はなく静かだけど、こんなに武蔵を推されると静けさからは清らかで落ち着いた雰囲気よりも、決闘を目前に控えた荒涼とした空気を連想してしまう。乾いた空気を血しぶきが湿らすような。


 祭神は素戔嗚尊すさのおのみこととその妻の稲田姫命いなだひめのみこと、そしてその子どもである5柱の男神と3柱の女神である八王子命はちおうじのみこと

 素戔嗚尊は廃仏毀釈以前は祇園精舎の守護神とされる牛頭天王ごずてんのうと同一視されていて、牛頭天王の8柱の子を八王子命とすることもあるみたい。


 縁結び、学業、農耕などなど、ご利益は多岐にわたるようだけど、この八大神社は狸谷山不動院の不動明王と同じく京の都の表鬼門に鎮座していることもあり、方除・厄除のご利益もあるらしい。

 でも、いざ厄って考えてみるとピンとこないな。いいことも嫌なこともそれなりにあるから、際立たないのかも。あ、そこから厄が取り払われればいいことだけになるのか。最高だね。

 ……拝みながらそんなこと考えてた。ゴメンナサイ。


 八大神社には宮本武蔵を描いた判を押す通常の御朱印と、祭礼を描いた判を押す特別御朱印がある。特別御朱印は見開きだからちょっと豪華な感じ。

 せっかくだから、私は特別御朱印をいただくことにした。

 描かれているのは毎年5月5日に行われる例祭で巡行するお神輿と、それを先導する3基の剣鉾けんぼこ。そこに神号「八大天王」の墨書が映える。

 剣鉾は祇園祭の山鉾と由来を同じくするものだそうで(そういえば吉田神社も祭神は素戔嗚尊だ)、悪霊を祓い鎮めるためのもの。近ごろは伝統を後世に伝えるため、近隣の子どもたちに子ども用の剣鉾を使って訓練を行っているらしい。伝統を残すのも大変だなあ。


 八大神社を出て、次の目的地はお隣。


          *


 詩仙堂しせんどうは戦国末期に徳川家に仕えた石川丈山いしかわじょうざんが晩年に造営した山荘で、正式名は凹凸窠おうとつかという。中国の著名な詩家36人を称える「詩仙の間」からとって詩仙堂を通称としているそうだ。そして現在では曹洞宗のお寺、六六山丈山寺でもある。

 よって、フルネームは六六山詩仙堂丈山寺凹凸窠。こうして並べると外国の貴族か王族みたいだ。


 丈山は作庭の名手としても名高く、自ら手掛けた詩仙堂の庭はかの有名な(?)『そうだ、京都行こう』のポスターに採用されるほど。

 サツキの春と紅葉の秋がオンシーズンで、多くの人で賑わうという。じゃあ今がオフシーズンかというと、私以外にも拝観者がたくさん出入りしていて、そういう感じもしない。この界隈では一番人気のある史跡かもしれない。

 それに、丈山はそれこそ作庭の名手と呼ばれるほどだから、四季折々、どの時季でもそれぞれの美しさが映えるような庭造りをしていたんだろう。

 雪降る庭園もまた風雅だ。できれば積もっていたほうが画になっただろうけど……そんな天気だったら、そもそも私来てないだろうな。


 庭園は書院から眺めることができた。

 白砂とサツキの枯山水。畳の冷たさに思わず指をもぞもぞと動かす一方で、絵に描いたような見事な光景には思わず息が漏れた。

 畳の上に正座して、何をするでもなく、ただぼんやりと庭を眺める。

 風が吹くか、鹿威ししおどしが鳴るか。それまではこの空間の時間は止まっている。私以外の拝観者が少しずつ遠ざかって、この世界に私ひとりしかいないような気分になっていく。

 ……眠くなってきちゃうな。


 丈山は90歳で亡くなるまで、詩歌と学問に耽溺する30余年の生活をここで過ごしたという。

 私もこんな場所で、一日中漫画を描くだけの生活がしてみたいな……。晩年といわず、今すぐに。


 屋外に出て、庭園を歩いた。凹凸窠の名の通り、詩仙堂の庭園にはたくさんの段差があり、それを活かした庭造りがなされている。書院から見えない位置にもさまざまな趣向が凝らされている。

 たとえば、鹿威しは屋内から見ると左手側、ちょうど段差の陰になるような位置にひっそりと設えられている。なにか意図があるのか、それとも施工上の都合だったのかは知らないけど、ここからこだまする音は屋内で聴くそれとは少し違って感じる。

 ちなみに、詩仙堂の鹿威しは日本で最初に作られたもの。こういう風流な音で庭園を彩る装置は、正しくは添水そうずというらしい。


 切り取られた灰色の空を眺めてみると、降ったり止んだりしている雪がまた降り始めていた。陰鬱といいたくなるようなこの空も、ここでなら風雅を形作る。

 重い空も美のひとかけらに変えてしまう。それこそが丈山の作庭の妙なのかもしれない。

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