3.ここは異世界だもんね

 松、紅葉もみじ羊歯しだ山茶花さざんか……。多様な木々に囲まれた岩風呂は、山奥に自然と湧き出た温泉かと思うような光景だった。傷を負った鹿や猿が湯に浸かりに来ていたとしても、そっか、と納得できてしまいそう。

 浴場は木の塀に囲われていて、湯に浸かりながら美しい景色を堪能するようなことはできない。だけど、ここではこれが正しい。この世界観(誤用)はこの空間で完結しているべきだ。


 えるはすでに湯船に浸かっていた。白磁の肌が湯できらめいていて、見ているだけでのぼせてしまいそう。あー、いけませんいけません。あかんで。


「さと、なんで眼鏡してるの」


 棒立ちになった私に、えるが声をかけてきた。

 えるの言うとおり、さっきまでと違って、今の私は赤縁の眼鏡をかけている。

 私は遺伝で目が悪いから小学校の途中から眼鏡っ娘なんだけど、大学デビューのときにコンタクトに変えた。このことはえるも知っているから、『お風呂で』眼鏡をかけている理由を訊いているらしい。


「お風呂で目が見えないと怖いんだよ」


 そう答えて洗い場に行こうとしたら、「ちょっと」と引き留められた。


「温泉は先に湯船に浸かったほうがいいわよ」

「そうなの?」


 どうりでもう湯船に浸かっているわけだ。関東の人は先に身体を洗って、関西の人は先に湯船に浸かる傾向があるって聞いたことがあって、えるは意外と関西派なのかななんて思ったけど、そういうわけでもないみたい。


「角質が浮いて汚れが落ちやすくなるの。逆に洗ってから入ると、温泉の成分が肌を傷つけることがあるのよ」

「へえー。えるはなんでも知ってるねえ」

「ええ。なんでも知ってるわ。知ってることだけ」


 えるに言われるまま、私はくるりと方向転換して湯船に足を伸ばす。爪先が触れただけで、湯の温かさが、私の中に溜まりに溜まった悪いもの、日々の疲れ、苛立ち、悩みも悲しみも、全部溶かしてくれるような気がした。溶けだした心の老廃物で湯船は真っ黒に染まった……りはしないけど。


「あっ、あー……。生き返るう……」


 外気に冷やされた全身に熱が染み渡る感覚に、思わず声が漏れる。

 鶴巻の湯は塩化物泉。世界有数のカルシウム含有量を誇り、その効能はリウマチ、神経痛、冷え性、外傷などなど。心の疲労にもてきめんなのは言うまでもない。


「……なんで温泉に入ったときに生き返るって言うんだろう」

「自分で言っておいてなにがなんでなの」

「それはそうだけど」

「みんな死んだも同然の殺伐とした日々を過ごしてたんでしょ、きっと」

「それは、世知辛いなあ……」


 岩に頭を預けて肩まで浸かって空を見る。空なんて久しぶりに見上げた気がする。物語ならきっとどこまでも続く蒼穹が広がっているんだろうけど、私の目に映るのは青みがかった灰色の曇り空。温泉が気持ちいいからどうでもいいか。

 ふと、音の少なさに気づいた。スクランブル交差点を行き交う無数の足音、高架橋のレールを滑る車輪、街頭ビジョンが買わなくちゃとせっつく新商品、対して仲良くもない人の自慢話。都会にあふれているそんな音が、耳を塞いでも手のひらをすり抜けてくる声が、ここにはない。湧き出る湯、そよ風と木々のざわめき。それだけ。それもそうか。ここは異世界だもんね。

 お互いの言葉もなかった。無言だった。でもそれが心地よかった。声もLINEもいらない。ただこうして一緒に温泉に入って、溶けあっているだけでいい。それだけで私には十分すぎた。こういうことを幸せというのかなあ。


          *


 ときどきとりとめのない会話をして、なんとなく返事が思いつかなくて、黙って、また会話して。そんなふうにして時間が過ぎていった。気づけば1時間が過ぎていた。


「ぬーん……頭が痛い……」

「血行がよくなったせいだわ」


 軽くふらつきながら露天風呂を出て、隣接する休憩所に入った。

 休憩所は畳敷きで、いくつかの座卓が並んでいる。私たちよりあとに来て、私たちより先に上がった50代くらいの女性が隅で本を読んでいた。

 私は座布団に突っ伏して、頭痛が引くまで寝転がっていることにした。えるはそれほど興味もなさそうなビジネス誌を、マガジンラックから取ってぱらぱらとめくりはじめた。


「このあとどうするの?」

「んー……」


 読みふけっているわけでもないのに生返事。「……ねむ」とえるはつぶやいた。


「私も……っぁ」


 私があくびしたら、えるもあくびした。

 秦野はだのの名所を調べてみたら、盆地だけあって山がたくさんヒットした。山登りをするには時間がちょっと遅いし、そもそも装備がない。

 スマホで丹沢の山々を見ているつもりで、いつの間にか夢うつつ、まぶたの裏に脳が映写した景色を見ていた。ええと、なんだっけ。ほんの10分ばかり眠っていたらしい。本を読んでいた女性はいなくなっていた。

 えるのほうを見てみると、ページを繰る手を止めていて、頬杖をついて目を閉じていた。長いまつげに感じる既視感はなんだろう。なにか、とても美しいものだったような。そんな疑問はえるの顔の造作にみとれていたら、机に残ったコップの結露みたいに蒸発して消えた。

 えるがうっすらと瞼を開けて、私は咄嗟に目をそらした。見てないでーす。


「……なにかついてた?」

「……目と鼻と口」


 雑誌の角でこづかれた。


          *


 フロントに戻って、貴重品を返してもらってからドリンクを注文した。私はコーヒー、えるは紅茶。

 フロントのそばの休憩スペースで、錦鯉の泳ぐ池の水音をBGMにとりとめのない話をした。伏線にも答えにもならない、人生にとってなんの意味もない会話。できればこれで満たしたい。

 だけど満足しきる前にお互い飲み干してしまって、新宿で映画を観ようなんて話をしながら庭園を歩く。私の小刻みな一歩にえるは合わせてくれた。


「飲泉だって」


 えるは立ち止まって、お湯がこんこんと湧き出る管を指さした。『神奈川県飲泉許可第一号』と書かれた板が掲示されている。それによると適応症は慢性消化器病と慢性便秘。どちらも心配はないけど、好奇心で飲んでみる。


「んー……」

「どう?」

「良薬口に苦し……かな」


 白湯よりもちょっと苦みを感じる気がする、という程度だけど。新鮮な湧水みたいな美味しさはないけど、不味いわけでもない。


 舌にかすかに残った鶴巻の湯の味を飲み込みながら、庭園を出る。重力が急に増したような気がした。

 従業員のスーツを着たおじさんがお辞儀をして、庭園の入り口に置かれた陣太鼓を叩いた。そんな勇ましい音で見送られるとなんだか面映おもはゆいけれど、異世界から帰るBGMなら、こんなのもありかもしれないな。

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