15 三枚のお札(後編)

 それから一週間、僕は作り置きのカレーやカップ麺、魚の缶詰などを食べてひっそりと過ごした。日がな一日、テレビをぼんやりと見て過ごす毎日。もちろん、宿題など手にはつかない。困ったことに、その間に何も事態は変わらなかった。

 音のない朝に味のしないパンを食べ終わったとき、再び玄関の呼び鈴が鳴った。


 ――母さん!?


 喜び勇んで玄関へと走る。

 けれど、僕の期待はすぐに外れてしまった。玄関扉の向こうから聞こえた声が、母さんのものじゃなかったからだ。


「おはよう、エス君。皆川です」

「なんだ、おばさんか……」


 明らかにがっかりした声を出してしまったことに後ろめたい気持ちを抱きながら、玄関の鍵を開ける。すぐさま、おばさんが中に飛び込んできた。


「その様子だと、お母さん、まだ帰ってきてないね……」

「うん」

「食べ物は大丈夫?」

「それがもう、あんまり……」


 そう答えた途端。

 大きく目を見開いたおばさんが、ころころと丸い掌を僕の前に差し出した。


「わかった。おばさんにこの前のお金を預けなさい。食べ物、買ってきてあげる」

「買い物だったら僕でもできるから……」

「いいから、よこしなさい!」


 むきになったおばさんがずかずかと家の中へと進み、テーブルの上の一万円札を一枚、鷲掴みにする。


「じゃあ、後でまた来るからね」

「う、うん……ありがとう」


 それから一時間後。おばさんが戻って来た。

 この前と比べると、ずいぶんと荷物が少ない気がする。買い物袋の中にあったのは、コンビニ弁当ひとつと、いくつかのインスタント食品、そして少々のパンとお菓子だった。


「……これで、全部?」

「そうだよ。とりあえず、これだけ。人に世話してもらって文句を言うもんじゃないよ……。とにかく、また来るから」


 僕にそれ以上言わせず、おばさんは家から出て行った。

 テーブルに残った一万円札を掴んだ僕は、ズボンのポケットへとそれを突っ込んだ。母さんから貰ったお金だし、大事にしなきゃならない。そして母さんが帰って来るまで、できるだけ自分一人の力で生きていこう――。

 おばさんが買ってきたコンビニ弁当は、きゅんと胃が縮むほどに冷たかった。


 それから、また一週間が経った。

 また来ると言っていたおばさんも、母さんも家に来ることはなかった。

 なくなりかけた食べ物を前に、残りのお金で買い物をしようと決意したときだった。一週間ぶりに、玄関のベルが鳴ったんだ。


「エス君、開けて! そろそろ食べ物なくなったんじゃない?」


 この前にも増して、切羽詰まったようなおばさんの口調。

 背筋に寒さを感じた僕は、そのまま居ない振りしてやり過ごそうかとも思った。けれど、人の家をずっと覗いているおばさんの事だ。きっと僕が中にいることは十分にわかっていることだろう。

 玄関扉を叩くその勢いが、時間とともに増していく。

 今にもガラスが割れそうだ。

 仕方なく、鍵を開けることにした。


「おはよう、エス君。もう、食べ物ないでしょ? おばさんが、買ってきてあげる」

「いえ、結構です。後は自分で何とかしますので――」


 刹那、おばさんの髪がまるで山姥やまんのようにぶわりと逆立ち、ビー玉のように丸くなった目がぐいぐいと強烈な圧力で僕の体を床に押し付けた。


「折角、面倒見てあげるって言ってるんだから、アンタは大人しく従えばいいの!」


 ずかずかと家に入り込んだおばさんが、お金の置いてあったリビングテーブルのところへと進んでいく。


「……残りの一万円はどうしたの?」

「え、あ、それは……」

「分かった……。アンタが持ってるんでしょ!?」


 すごい勢いで近寄って来たおばさんが、僕の体をまさぐった。

 ズボンのポケットにあったお金を探し当てるのに、そんなに時間はかからなかった。


「ほらあった! やっぱりアンタが持ってたのね……。とにかくこれで何か買って来るから、ちょっと待ってなさい」


 一万円を握りしめたおばさんが、髪を振り乱しつつ外へ出て行った。

 その三十分後――。

 一万円の代わりにおばさんが持ち帰ったのは、コンビニのおにぎり二つと、ペットボトルに入ったジュースが三本だけだった。


「たった一万円だし、買えるのもこんなものよね……。あとは自分で何とかしなさいな。じゃあね!」


 玄関に荷物の入った袋を投げ捨てるように置いたおばさんは、そう言って何処かへ行ってしまった。

 あっけにとられつつ、僕は思った。


 ――世の中、捨てたもんじゃないと思ったのは間違いだった。その考えを捨てなくちゃ。


 涙味のしょっぱいおにぎりを立ったまま玄関先で頬張っていた、そのときだ。

 キイィという軋み音とともに、玄関の扉が開いたのだ。

 そこにはなんと、髪の毛ぼさぼさ、服はボロボロ、顔は真っ黒の母さんがいた。その後ろには、薄汚れた格好でニヤニヤと笑う高木もいる。


「か、母さん……!」


 待ち望んでいた場面のはずなのに、僕の口から出た言葉はそれだけ。

 だってそうでしょう? 自分を捨てて何処かに行ってしまった親を、誰がいきなり信じられるというの!?

 そんな僕の思いとは裏腹に、母さんが、あの懐かしい優しい笑顔を見せた。


「よく頑張ったね、エス。でも、もう大丈夫だから」

「大丈夫って、何がだよ!」


 不意に、体の中から湧いて来た怒り。

 母さんに抱き着いた僕は、両手でかわるがわる、その肩を叩いた。母さんは、痛がることもなく「ごめんごめん」と謝りながら僕を抱きしめ続ける。

 

「大丈夫ってのはね、もうお金に困らなくなったってこと」

「お金?」


 まるで結び目を解くように、僕を体から離した母さんが言う。


「噂どおり、お隣の奥さんはお金にガメツかったわ。アタシが家を出るところを見せ、お金をエスに残せば、何やかんやと言ってそれをちょろまかしに来ると思ったのよ。で、あの人が小金に目が眩んでいる隙を狙って――」

「そんな話、聞きたくない。淋しくて死ぬかと思ったんだからな!」

「ごめんごめん。でもね、アタシたちの格好を見て。――今までトンネルを掘ってたんだよ」

「ト、トンネルを……堀ってた?」


 何が何だかわからない僕に、母さんが自慢げな顔をする。

 母さんの後ろで、高木が右手で勝利のサムアップをした。


「知ってた? あの奥さん、税金払うのが嫌で庭にたくさんのお金を埋めてるって噂があるのを」

「知らない。でも、それってもしかして……」

「そう。そのとおりよ。アタシたち、それを見つけるために穴を掘ってたの」

「……」

「そして昨日の晩、ついにお隣の広い庭でお金の詰まったアタッシュケースを掘り当てたの。あの奥さん、噂どおりがっつりとお金を貯め込んでたわ……。でもお陰で、しばらくお金に困ることはないと思う。すぐにどこか遠いところへ引っ越しよ!」


 ――この世の中、まだまだ捨てたもんじゃないな。やっぱり。


 もう一度母さんを抱きしめた僕は、自分の部屋の荷物をまとめると、すぐに黒い車の後部座席に乗り込んだのだった。






今の私は馬鹿で人に騙されるか、あるいは疑い深くて人を容れる事が出来ないか、この両方だけしかないような気がする。不安で、不透明で、不愉快に満ちている。もしそれが生涯つづくとするならば、人間とはどんなに不幸なものだろう。(夏目漱石)

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