お偉いさんが来ると面倒くさい 後編

「上重所長、園部さんに教えたのか?」

「いいえ? まだ教えていませんよ?」

「そうか……。ふふ、園部さんは、社員にしか教えていないことを、ちゃんとわかっているんだな。それが嬉しいよ」

「あの……?」


 三人が何で嬉しそうなのかさっぱりわからないんですけど⁉ 説明プリーズ!


「我が社の社内における基本理念のひとつにね、社員や従業員がリラックスできるように、『アットホームな雰囲気で仕事をする』というものがあるんだ。リラックスして仕事をすることによって取引先にもそれが伝わり、円満に取引できるようにって気持ちと願いが込められているんだよ。うちは業務用食品を扱う関係上、他の会社とは違い、我が社独自の理念が結構ある。もちろん、他の会社と同様に一般常識的なものもあるがね」

「へえ……」

「だから、我が社の基本理念を教えていないのに、園部さんが『和気藹々とした雰囲気が好きだ』『仕事が楽しくて仕方がない』と言ってくれたことが嬉しいんだ」


 本当に嬉しそうに話す下川さんに、西村さんや所長まで笑顔で頷いている。


「それに、厳しくするのは社内におけるものや一般常識的なもの、あの三人の社員教育であって、基本理念は変わらないよ。だから、ここだけではなく、他の事業所や支社でのアットホームな和気藹々とした雰囲気は変わらないから、そこは安心して」

「……はいっ!」

「……うん、いい返事だし、素敵な笑顔だね、園部さんは。頑固でもあるが、素直で一生懸命でもある。どうりであの寺坂が気に入るはずだよ」

「いや、えと、その……」


 下川さんにそんな評価をされるとは思ってもいなかったし、いきなり良裕さんの名前を出されてちょっと焦る。


「まあ、どうして寺坂と婚約するに至ったのかは宴会の時に詳しく聞くとして……」

「うぅ……お手柔らかにお願いします……」

「約束はできないかな。ちょっと話が逸れてしまったが、本題だ」


 和やかだった雰囲気を消して、手元にあったクリアファイルから二枚綴りになっているA4サイズの紙を出すと、それを私によこした。そこには治療費と慰謝料に関する文章と、その明細が書かれている。

 その金額をみて焦る。

 所長ってば、本当にぶんどって来たんかい。


「その文書は、園部さんが治療をした際にかかった医療費と、慰謝料を払うという内容の文書だ。支払いは給料日と同じ日になる。内容を確認したら、フルネームでサインして」

「……内容は確認いたしました。ですが、あの……金額が多くないですか? こんな金額いただけません!」


 この金額だとさすがにサインしづらい。病院で支払ったのは、診断書もあったから薬代込みで約五千円くらい。

 診断書は病院によって違うみたいだけど、次兄が働いているところは軽いもの(私の場合、怪我や捻挫)だと三千円、重い症状の人や詳しいものがつくと五~六千円らしい。

 だから、私としては病院で支払った分だけもらえればよかったんだけど、書類に載ってる金額は三十万円だった。なんでこんな金額になったのかは知らないし知りたくもないけど、ちょっと所長、ぶんどりすぎでしょ!


「文書にも書いてあるが、医療費と慰謝料込みの金額だよ。そして、当時この騒動の発端と被害にあってしまった者たちにも園部さんほどではないにしろ、慰謝料が支払われることになっているから安心して」

「安心なんかできません! それに、こんな金額はいただけませんから、サインもしません。……構いませんよね?」


 すごく失礼なことだけど、受け取った種類をひっくり返してから下川さんに向けて文書を滑らせると立ち上がる。下川さんと西村さんを見ると驚いた顔をしているし、所長に至っては顔を引きつらせている。


「お話が以上でしたら、宴会のための料理の続きをしたいので、これで失礼します」

「ちょっ、雀さん待って!」

「嫌ですよ。あの時、所長に任せるとも言いましたし従いますとも言いましたけど、さすがにこれはもらいすぎです。たとえ何度お給料と一緒に勝手に支払われようとも、何度でも所長に返金しますよ? それに、私がお金が欲しくてあんなことを言ったんじゃないことくらい、所長もわかっていますよね?」


 所長が本気で怒っていたのは知っているけど、たとえ慰謝料込みだとしても、いくらなんでもこの金額はもらいすぎ。この会社の従業員である以上従わないわけにはいかないが、仕事のことならいざ知らず、入院したわけでも裁判を起こしたわけでもないのに、たかが頬の怪我で、これはない。


「それに、病院の支払いをしたのは寺坂さんですし、最終的にこの事業所からそのお金を出していますよね? どうしてもというのであれば、その分は寺坂さんに渡すか、仕事を邪魔されたこの事業所の皆さんに渡してください。私は必要ありません」

「雀さん!」

「ぶふっ!」

「あははははっ!」


 所長のやり方に微妙に不機嫌になりながら自分の気持ちを伝えれば、私がそんなことを言うとは思ってもいなかったのか所長は焦り、西村さんと下川さんはなぜか爆笑し始める始末。……すみません、爆笑される意味がわかりません。


「だから言ったじゃないか。『上重所長の話とボイスレコーダーから聞いた限り、彼女の性格ならこの金額だと絶対に受け取らない』って」

「いや、その……」


 西村さんが笑いながら所長をなじる。いや、詰るっていうか、いじるって感じの言い方だった。


「あの……?」

「ああ、申し訳ないね、園部さん。私達も止めたんだが、どうしてもって上重所長が言うからこの金額にしたんだが……」

「ちょっ、所長! なにやってんですか! 私の怪我からすれば、これは多くても十分の一以下ですよね⁉」

「……」

「自覚ありですか⁉ 目を逸らさないでくださいよ!」


 所長、思いっきり顔を明後日の方向に向けないでくださいよ。

 確かにあのクソ女にイラついたし頬に怪我したけど、こんな金額を請求するとかどうかしてるって。


「もう……。とにかく、この金額はいただけません。申し訳ありませんが、宴会の準備がありますので、このまま失礼します」


 クビになったらなったでいいや、なんて半分やけっぱちで三人にそう話すと、頭を下げてからその部屋から出る。そして閉めたその扉の奥からは、再び笑いはじめたらしい西村さんと下川さんの笑い声が響いていた。


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