【仮題】4日目その5

 それから少ししてミフユさんは席に戻った。


 だが、結局俺は今回もミフユさんによる執筆に関する講義を見送ることにした。


 連続でのことでやや困惑するミフユさんに、急用が入ったとありきたりな言い訳を添え、俺は彼女と別れた。


 別に録音のことが気になった所為ではない。


 むしろそのような新たな彼女に関する何某は吹っ切れた俺にとって、今や好奇心を助長させるものでしかない。


 それにこれまでのことと比べても、音声を録音されていたこと自体は別にそこまで奇妙という程のことでもない。


 先程見てしまった瞬間は「何の為に?」だなんて完全に穿った方向での思考しかできなかったが、冷静に考えてもみれば、まあ、普通にあり得ることだろう。


 ミフユさんも一応俺から教えを乞う立場なのだし、そして何よりも彼女は見た目通りの真面目だ。ならば会話の内容を忘れないように録音だってするだろう。現に高校受験時代に塾に通っていた時、講義の内容を録音している受講生を目にしたことだってある。むしろしない方がおかしいとさえ思えてきた。


 ただこれまでのことがこれまでのことだけに、俺の目は無意識のうちに一種のオオカミ少年的な色眼鏡を通して彼女を見てしまっていた。彼女のやることだからきっと俺の理解が及ばない〝何か〟だろうと。いくら彼女に奇妙な点が多いからといって、これはあまり良いことではない。


 とは考えつつも一点、隠すようにして行っていたことは気にはなるが。


 まあ、俺の意欲を削いだ大方の原因はやはりミフユさんが小説を削除したことだろう。仮に思考力にあのような重大かつ深刻な後遺症を残したままミフユさんの話を聞いたところで、まともに理解できる自信は俺にはない。


 元より回を重ねるごとに難解極まっていく彼女の講義だ。最高のコンディションだったとしても理解が及ぶか怪しいだけに堅実な判断だったと後悔はしていない。


 それに俺は今回の件で、いつミフユさんとのこうした講義が終わってしまうのか危殆を抱いていた心に、少しばかりの余裕が生まれた。そのことも要因にあるだろう。


 今回の日記内容であの反応なら、仏の顔も三度までの三度目も無事スルーされたことだし、この先ミフユさんから三行半を突きつけられることはそうないだろう。そう根拠もなく確信したのだ。


 それよりも何よりも、やはりあの小説だ。俺が殺してしまった、あの……。


 この絶望感だけは一朝一夕で拭い去れるものではない。


 自宅に着くなり、俺はベッドに倒れ込む。


 いつもならここでうとうとと瞼を落としてしまいそうなところだが、心的な疲労とは裏腹に俺の頭は弾ける花火のように覚醒しきっていた。とは言え、それは心地良い感覚では決してない。考えまいとしても、どうにも頭だけが休んではくれない。ありていに言えば、酷く落ち着かなかった。


 それでも掛布団代わりのタオルケットを被り、瞼を固く結んで心の鎮静化を待つ。


 だが瞼の裏に映る薄い残光がもやもやと揺らめいたかと思うと、ミフユさんのファンタジーを読んだ時に頭に投影された景色の外形を形作っていくように錯覚する。


 一時間程経って、俺はとうとう耐え切れずタオルケットを跳ね除けた。そして机に向かうとジュースの空き缶やら中身が少し残っているスナック菓子の袋やらと一緒に広げてあった自作の原稿用紙を除ける。


 書き切ることなく、幾度となく隅に追いやられ続けた俺の書き掛けファンタジーの原稿用紙は、気が付けばシワや良くわからないシミが所々にあって、目にするのも哀れな程、みすぼらしく変わり果てていた。


 しかし俺は真新しい原稿用紙を広げると、勢いに任せて筆を走らせる。


 今日の分の日記ではない。書こうとしているのは、ミフユさんが書いたあのファンタジー小説。


 筆を休めることなく動かしながら、頭では必死に記憶をまさぐる。


 だが次第に筆の速度は弱まり、そして力尽きるようについには止まってしまう。数分間フリーズしてからまだシワひとつないその原稿用紙をくしゃくしゃに丸めてゴミ箱へ投げ入れた。


 諦めが付くのは早かった。


「ダメだ……」


 それは自作の執筆中にも幾度となく口にした言葉。最近はまともに執筆を行ってすらいなかったので久しぶりに出た。


 大まかなストーリーや設定は頭に入っている。でも、それじゃあ、それだけじゃあダメなんだ。ミフユさんの書く、あの言葉じゃなきゃ、あの語り口じゃなきゃ、あの表現じゃなきゃ、あのミフユさんの感情がそのまま詰め込まれたあの文章じゃなきゃ、ダメなんだ。


 うわべだけ真似るのは容易だ。それっぽい似たような物語ならいくらでも書ける。でもそれじゃあ意味がない。


 足りないんだ。


 小説は料理とは違う。それでも例えるならば、俺はその料理の見た目だけを真似ているに過ぎないのだろう。


 見た目が赤ければケチャップを入れれば良い。


 だけど、その味の決め手となるスパイスの正体がどれだけ考えてもわからない。上辺だけ取り繕っても、肝心のあの味が出せない。


 スパイス。そうだ。スパイスだ。味の決め手となる、まさに魔法のスパイス。要素という名の。それが足りない。


 見た目だけで満足な人間がいるなら、食品サンプルでも食っていれば良い。俺はあの味を、ミフユさんの出すあの珠玉の、唯一無二のあの味を、心の底から欲っしている。


 居ても立ってもいられず、できもしない愚行に走ってしまった。


 できもしないなんてやる前から薄々わかってはいたが、しかし、まあ、どんなに無謀なことでもやらずにベッドの上で延々悶々としているよりも、こうしてはっきりと無理だと思い知らされる方が精神衛生上はまだ健康的だ。


 俺は再びベッドに横になる。


 暗澹とするこの気分は依然とし晴れてはくれないが、諦めが付いた分、先程よりはマシな気がした。


 今日はこのまま眠ってしまおう、何もやる気にならない俺はそのまま瞼を閉じた…………丁度その時である。枕元に置いたスマホが電話の着信音を鳴らした。


 一瞬、母がうるさい小言を捲し立てるだけの電話かと警戒したが、スマホに表示された登録名を見て緊張を解く。


 電話の主は小学校からの幼馴染だった。中学を卒業してからその友人が地方へ移ってしまった為今ではほとんど会うこともないが、別段共通の趣味があるわけでもないのに腐れ縁というか、妙に馬が合う奴ではあった。


 こうして離れた今でもたまに連絡を取り合っているし、そいつが東京へ出向いた際には俺の家によく遊びに来たりもする。それくらいには親しい仲だ。


 俺はベッドに寝そべってから着信に応じる。


『おはこんばんちわー!』


 寝ぼけ頭には嫌に響く声量だ。


『あれぇ? おはこんばんちわー!!』


「…………。聞こえてる。youtuberみたいな挨拶やめろ」


『だってお前、いつ寝てるか起きてるかわかんねーんだもん。ってか元ネタ、アラレちゃんの方だし』


「うるせー、どっちでも良いそんなの。それに俺はな、今本能に任せて生きてんだ」


『なに? まだニートやってんの?』


「まあな。そっちはどーだ?」


『こっちも相変わらずだ、変わんねーよ』


 特に要件があっての電話ではないらしい。


 こいつのこんな感じの連絡は珍しくない。


 俺自身、あまり積極的に知り合いと連絡を取ろうとしない性質なのだが、別にこうして連絡をされる分には抵抗はない。


 ニート生活になってからは連絡の頻度が増えている気がするので、もしかしたらこいつなりの〝生存確認〟のような意味合いを含んでいるのかもしれない。


「ああ、そうそう、ちょうど良かった」


『は? 何が?』


 特に要件がないことを察した俺は、話題としてミフユさんのことをこの友人に話すことにした。


 俺の執筆の趣味のことを周囲に知らせていないのはこの親しい友人においても例外ではなく、そのあたりに関しては伏せ、単にweb小説に嵌っていて偶然俺が読んだ小説の作者であるミフユさんに出会ったというところから話し始める。


 ミフユさんのとの出来事は逐一日記に書き起こしているので、難なくスラスラとストーリーを話すことができた。そして今日までのことを話し終えた段階で友人に問う。


「どう思う?」


『変態だと思う』


「は? ミフユさんが?」


『なんでだよ。お前だよ、お前。今の話聞いてる限りじゃあお前の方が断然変だわ。下手すりゃストーカーじゃねーか』


「それは……まあ、そうか」


 その点に関しては釈明の余地はない。これまでの俺の行動や彼女に対しての執着度合いからすると、傍から見れば大体がそんな評価になるだろう。


 でも一つ反論と言うか、言いたいのは、俺でなくともミフユさんの作品やミフユさん自身と直に接すれば、俺の気持ちがわかるに違いないということだ。ミフユさんの作品、ミフユさん自身には、そういった魔力がある。


『へんたーい、へんたーい。ちょーへんたーい』


 友人はからかうように変態を連呼する。昔からこういう子供っぽいところがある。


「…………。お前は語彙力どこに置いてきた?」


『うーん……、母ちゃんの腹の中?』


「生まれつきじゃねーか」


 あの倉敷さんならもっと気の利いた言葉で罵倒してくれるのだろう。それはそれで嫌だが。


『まあ、お前は昔からちょっと変わったとこあったからなー』


「それはお互い様だろ」


『まあな、今でもお前とつるんでんのが良い証拠だ』


「…………」


 まあ、ここで俺が必死に彼女が待つ魔力の説明をしたところで徒労に終わることは明白だ。こいつがミフユさんと会う機会はないだろうし、カクヨム上のミフユさんの作品を勧めようにも、こいつが俺と違って大の読書嫌いであることは旧知の仲ながら良く知っている。


「いや、良い。お前にはわかんねーだろうし。この話は終わりだ、終わり」


 元よりこの友人に何かを期待したわけでもない。


 でも気が紛れるのも確かだったので、このタイミングでの連絡は正直有り難くもあった。

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