【仮題】3日目その2

「ヒイラギさん。わたし頑張ります」


 駅のホームで帰りの電車を待っていると、ミフユさんの呟くように静かな言葉が耳に届いた。


 ファンタジー小説の執筆というミフユさんにとっての重大な課題が控えているだけに、そんな短い言葉の端々にさえ、未だ緊張感が漂っていた。でも本当に、何をそんなに張りつめているのだろう。


「ヒイラギさん。頑張って書いた小説は、素敵でしょうか?」


「素敵だと思います。でもそれが必ずしも読者に伝わるとは限りません。読者が読みたいのは、頑張って書いた小説ではなく、面白い小説ですから」


 禅問答にも似た抽象的な質問に、俺は視線を線路に向けたまま当たり障りのない回答を返す。


「では、命がけで書く小説は、素敵でしょうか?」


「素敵だと思います。〝命がけ〟ということは、まあ〝頑張る〟ということに他ならないと思いますから」


 こういったミフユさんの唐突な話題の振り方にもすっかり慣れてしまった。


「では、何かの犠牲のもとに生まれた小説は、どのくらい素敵でしょうか?」


「…………? ミフユさん? 何が言いたいんです?」


 慣れたからといって、理解が及ぶかどうかは別問題。俺はようやくミフユさんの横顔を視界に入れる。もしかして彼女はファンタジー小説の執筆と引き換えに死ぬのだろうか?


「わたし、頑張ります……」


 ミフユさんは俺の質問には答えず、最後にそう呟いた。ちょうどその時、電車が到着した。


 電車がレールを駆けるけたたましい音の中で垣間見たミフユさんの横顔は、喧騒とは裏腹にどこか閑寂としていた。


 頑張る人間は、正直素晴らしいと思う。それは本心だ。だが同時に、俺は頑張る人間のことが好きにはなれなかった。頑張る人間を見るのは、何だか体力を使う。だから、あまり見ていたいとは思えない。


 頑張る人を真っすぐの角度から眺められるのは、恐らく同等の熱量を持っている人間だけなのだろう。


 大塚駅に電車が到着した時、不意に俺の右手が何か柔らかいものに包まれ、胸の辺りまで持ち上げられた。何事かと視線を遣ると、ミフユさんが両手で包み込むように俺の手を握っていた。


「ヒイラギさん。これまでお手伝い頂き、本当にありがとうございます。わたし、頑張りますから」


 本日三度目の「頑張ります」を口にすると、ミフユさんは一礼してそのまま電車を降りて行った。


 右手に残る感触。彼女の手はとても柔らかく、同じ人間の肌とは思えないくらいにすべすべで、それでいて少しひんやりとしていた。


 俺は遅れて顔を出し始めた面映ゆさから右手を胸の辺りに残したまま、辺りを見回してしまった。





 電車はさらに一駅進み、俺は自宅の最寄である茗荷谷駅で下車する。


 時間を確認すると、まだ夕食時には早い。


 駅内の一角にある小さな本屋が視界に入ったので、俺は気紛れに立ち寄ることにした。


 今はカクヨム内の作品を読む他は、主に電子書籍で済ませてしまうことが多いが、正直なところ紙の本の方が好みだ。


 カクヨムの作品を読む分には無料なので良いとして、どうしても現実の質量が存在しないものに金を払うのに抵抗がある。


 共感を求めて、そんなようなことを昔からの友人にも話したことがあるが、「ならゲームアプリの課金をやめろ」と一蹴された。言い方が腹立たしいが、ごもっともだ。


 何か面白そうな小説が出ていないか、新刊コーナーから順に眺める。


 やはり紙の本は良い。平積みにされた表紙のイラストデザインを見るだけで思わず手を伸ばしたくなるものがチラホラあった。


 気になってしまうのは、やはりライトノベルだ。何よりも表紙が煌びやかで、手に取るものどれもが面白そうに思えてくる。


 だが、このライトノベルというジャンルにおいてはいかに出版されている作品であろうと、そのレベルはまちまちだということをわかっているだけに無謀なジャケ買いには走らない。人気でありながら当たり外れの差が激しいのもこの手のジャンルの特徴だ。


 入口付近の新刊コーナーを一通り見終えた俺は、次いで奥の方の本棚へと足を進める。


 棚に収まった本の背表紙を順々に眺めながら気になったタイトルを手に取り、棚に収めを繰り返す。


 そして偶然一冊の本に行き当たる。


 『ひなげしと哭く空』。


 〝人気小説投稿サイトカクヨム「現代ドラマ」カテゴリーで月間一位! 期待の新人!〟という帯が付けられていたが、表記されている年は去年のものだった。作者名はもちろん『ミフユ』とある。


 俺は何と無しにその書籍版『ひなげしと哭く空』をパラパラと捲る。内容は何度もサイト内で読み返しているのでこの場で改めて読もうとは思わない。それに無警戒に読んでしまって人目を憚らず涙を流しでもしようものなら、俺は完全に不審者だ。


 そんな中途半端な読み方で例の症状が現れるという確証はなかったが、ミフユさん自身も自らが手掛けた小説を読んで同じようになると言っていたし、何よりも俺はミフユさんの小説を既に読んでしまっている。


 水族館での話題でミフユさんの主張した〝潜在的要素〟が既に俺の中に確立してしまっていて、ほんのワンシーンを読んだだけでも感情が呼び起こされてしまうことだって十分に考えられる。


 文字に意識を向けるでもなく、適当にページを進めていくと「あとがき」に行き当たった。


 「あとがき」はカクヨムの投稿にはなかったものだ。


 俺は警戒を緩めずに、しかし〝未読〟の誘惑に後押しされる形で恐る恐る読み進める。しかし、その内容は概して「書籍化して頂き光栄」や「素晴らしい表紙のデザインに感謝」だのといったよくありそうな当たり障りのない内容だった。


 俺は肩透かしと安堵の入り混じった溜息を一つ、最後のページを捲ってそのまま本を閉じようとした。が、とある記載情報に目を奪われる。


 俺がふと目を留めたのは、ミフユさんの小説を書籍として世に出した出版社の名。それを頭に入れてから今度こそ本を閉じ、元の棚に返した。


 本屋を出ると駅の出口へとは向かわず、俺はそのまま先程通ってきた改札を潜り、再度電車に乗り込む。そのまま池袋へと戻った。





 駅を降りるとすぐにスマホを取り出し、目当ての目的地を検索する。


 御影書房。池袋に本社を構える比較的若い出版社だ。


 他の有名な出版社程ではないが、最近はその出版社が出す文庫の広告をよく見かける。特にライトノベルをはじめとした若年層向けの多いレーベルで、異世界ファンタジーやMMORPGといった近年のわかりやすい人気ジャンルの小説をいくつも書籍化している。似たり寄ったりの設定も多いが、さすが流行やブームを押さえているだけあってそこそこの売り上げを勝ち取っているようだ。


 カクヨムや他の小説投稿サイトの人気作から毎年何作も書籍化しているが、まさかあのミフユさんの作品を書籍化したのが御影書房だったとは意外だ。


 だって、他の作品を見る限りではミフユさんの小説を選ぶとは考えにくい。現に今スマホに表示されている御影書房のHPのTOPページにはラノベキャラのイラストが所狭しとひしめき合っていて、その瞳の大きな二次元女性たちがキラキラとした眩い視線を向けている。


 本社の所在地は例の喫茶店やサンシャインビルがある東口側ではなく、反対の西口側。HPの会社概要ページにある所在地を地図アプリに連動させると、その表示に従って俺は慣れない道を歩き出した。


 もう前回のことがあってから、思い立った時の行動に一縷の迷いすらない。ミフユさん、彼女について何かわかる可能性があるとすれば、俺は行動を起こさずにはいられなかった。


 彼女の謎に対しての言い知れぬ魅力が全く薄れていないのは当然のこととして、今日ミフユさんが日記をチェックした時の、あのあまりにも呆気のない希薄な反応が、安堵と同時に俺の中である種の遣り切れなさを残していた。


 つまるところ、俺は委細構わない彼女の反応にどこか気持ちの悪さを感じていたのだ。普通はもっと拒絶するか、憤慨するか、焦りを見せるか、それがどんな反応なら納得できるかはわからないが、何か強い感情が表に出て然るべきだ。間違いなくあんな反応にはならない、それだけは確信を持って言える。


 普通なら何事もなく関係を続けられて良かったと喜ぶべきところなのだろうが、やはり腑に落ちない。無論、ミフユさんという逸材との関係が切れてしまうのは惜しい、が、当を得た何かがないまま頭に余計な靄を抱えながらでは、俺は自身の執筆活動に専念できそうもない。


 多少贅沢な悩みだろうか。それとも小説の腕では勝てない彼女に対して無意識に対抗意識が芽生えてしまっているだけなのだろうか。だとしたらお門違いもいいところだ。


 しかし当初憧れの人気作家が高校生だという事実に僅かばかりの嫉妬心が湧き上がったことは否めないながらも、今現在ではそういった感情は微塵もない。自覚がないだけでそう思い込んでいるだけなのだろうか。


 自問自答に耽りながら歩みを進めていると、目当ての建物が目に入った。


 事務所ビルのエントランスに掲示された札で御影書房が6階であることを確認し、エレベーターに乗り込む。


 そして愚かにもその時になってようやく自分が何の算段もなしにここまで来てしまったことに不安を感じ始めていた。来てしまったこと自体に後悔はない。だが、来てしまって、それから俺はどうしたら良いのだろう。それが問題だ。


 ただミフユさんを知る第三者から情報を得られると踏んでの行動だったが、馬鹿正直に「ミフユさんについての情報が知りたい」と切り出しても怪しまれるだけだ。そもそも、何の接点もない俺は出版社の誰にその要件を伝えれば良い。


 焦り始めたのも束の間、エレベーターは6階で停止し、扉を開いた。


 エレベーターの正面にすぐ、事務所への入口があり、中への扉は開いたままだった。時刻は17時過ぎ、外から窺う限りではまだ多くの社員が働いているようだ。


 考えも纏まらないまま取敢えずエレベーターを下り、不審者さながらにおずおずと辺りを見回していると、事務所内の男性社員の一人が気付いたようで、こちらに向かって来た。


「お約束でしょうか?」


「い、いえ……」


 さあ困った。間違えたと言って立ち去るべきだろうか。


「もしかして……持ち込み……とかですか?」


「え? …………ええ、そ、そうなんです」


 良い案の浮かばない俺は男性の勘違いに乗っかる形で肯定する。


「ああ、うち、そういうのやってないんだよねぇ」


 男性は事情がわかった瞬間あからさまに口調を崩して断ろうとする。


「そ、そうですよね……はは……」


 俺はこれまでかと早々に踏ん切りを付け、踵を返そうとした。いや、ただ早くこの状況から脱したかっただけかもしれない。本質的には小人の俺だ、あれだけ行動に躊躇いがなかったにも関わらず、当初の潔さは見る影もなかった。


「あら、お客様かしら?」


 振り返ると、先程俺が乗ってきたエレベーターから一人の女性が下りて来るところだった。


 黒のスーツにハイヒール、細いフレームの眼鏡を掛けた女性は、見るからにいかにもできるキャリアウーマンという風体だ。纏うシワひとつないスーツと背骨に鉄芯でも通っているかのようなピンとした姿勢が彼女の生真面目さを主張している。


「編集長、お疲れ様です」


「お疲れ加藤君、そちらは?」


 編集長と呼ばれた女性は俺へ向けて鋭い眼光を飛ばす。怒っているわけではないようだ。その妙に明瞭な口調、ただエレベーターからこちらに歩いたそれだけで滲み出る筋の通った所作から、性格的なものだと推察できる。


「小説原稿の持ち込みみたいです」


「ふぅん」


 女性は鋭い眼光をさらに鋭くして、俺を見つめる。彼女の値踏みするような威圧感に気圧されてしまうが、よくよく見ると編集長というにはかなり若く見える。


「良いじゃない。好きよ、気概のあるプロ志望は」


 その眼光で俺のどこをどう見抜いたのか、女性は勝手に的外れなことを言って軽く口角を上げる。


「どれ? 原稿、あるんでしょ?」


 そして組んでいた腕を解き、こちらにスッと手を差し出した。


 ああ、困った……。

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