【仮題】2日目その2

 ミフユさんが御手洗いに立ってから30分が経とうとしていた。


 女子トイレが男子トイレよりも混むのは知っている。が、それにしても長すぎる。


 テーブルにはミフユさんが注文したバナナミックスシェイク。もしかしてお腹でも冷やしてしまったのだろうか。


 理由はどうあれ体調不良で動けないのなら助けに行くべきではないかとも考えたが、女子トイレに踏み入る判断をするには30分の経過はまだ心許ない。せめてもう少し様子を見てから、そう、店員にでも助けを求めれば良い。気弱で臆病な俺はそう結論を付けた。


 スマホで連絡が取れれば一番なのだが、まだ俺は彼女の連絡先を知らないばかりか、肝心の彼女のスマホはテーブルに置きっぱなしのままだ。


 息抜きにと流し読みしていた小説、『フラれたショック死で異世界転生。女神から授かったチートがモテ能力だったからとりあえず女神から落としてみる』は既に5話目に突入していた。だが、3話目あたりから既に頭に入らなくなっていた。


 もう一度時間を確認する。45分経過……。


 もう限界だろう。


 俺は店員に助けを求めようと腰を浮かし掛ける。


 そして顔を上げるとそこにはミフユさんが普通に立っていた。


「わっ!」


 俺は驚いて一度中途半端に浮かし掛けた腰をドスンと椅子に収めた。


「あああ、あの…………、大変お待たせをしましてすみませんでした……」


 ミフユさんは風呂にでも入って来たのかと思うくらいに顔を上気させながら深々と頭を下げた。彼女の長い黒髪が重力に従ってはらりと肩から流れ落ちる。


「ああ、いえ。少し長かったので心配しましたが、大丈夫なら別に良いですよ」


 45分は〝少し〟どころではないのだが、申し訳なさそうに頭を下げるミフユさん

に、逆にこちらが申し訳なく思ってきてしまった。


「でも、どうしたんです? お腹でも壊しましたか?」


 言ってしまってからデリカシー的にあまり女性に尋ねることではなかったと後悔した。だが、ミフユさんはふるふると頭を振りながら、


「いえ、そうではなく……その……少し考えてしまいまして……」


「えっと、何を……です?」


「〝わたしが書きたいファンタジーとは何か〟です」


「…………。もしかして、さっき僕が言った世界感とか、設定とか、そんな内容ですか?」


「ええ、そうです。本当は先程作者名を決める作業のあいだにと思ったのですが、なかなか集中できなくて……その、ヒイラギさんにはお待たせしてしまったことだけでなく色々と謝らないといけないことが…………ああ……、もう……、なんと言って良いか……本当に……本当にこの度は……」


 ミフユさんは一層顔を赤く染めて、拳を握りながら身体を震わせていた。見間違いでなければ目元には薄っすらと涙が浮かんでいる。


 俺はミフユさんの只ならぬ様子にしばし言葉を失ってしまったが、彼女の言葉を冷静に思い返し、「ああそうか」と合点がいく。


をしていたんですね」


 ミフユさんはその言葉に一瞬びくりと身体を震わせると、おずおずとした様子で一度だけコクリと頷く。


 そう、彼女が作者名決めを提案した本当の狙いは彼女自身が〝書きたい異世界ファンタジー〟を考える為の時間を得ることだったのだ。


「でもこれだけは信じて下さい! 嘘ではないんですよ? 作者名をどうするかというのもわたしの中では重要なことであるのに変わりはありませんし、その……つまりは〝優先度〟がそこまで高くなかったというだけのことでして……」


 今日の初めに「やり取りに嘘はなし」という約束をしたばかりだったからか、特に指摘もしていないのにミフユさんは慌てた様子でそう取り繕った。


「別に良いですよ、そんなこと。嘘だなんて思っていませんし」


 俺は未だ立ちっぱなしのミフユさんを席に促して座らせる。


「でもそれならそうと言って下さいよ。そこがまだ決まっていないんでしたら一緒に考えることだってできたわけですし」


「確かにそうですね……すみませんでした。でもわたし、あの時ヒイラギさんの言葉で気付かされたんです。わたしは〝ファンタジー小説が書きたい〟のに、〝どんなファンタジー小説が書きたい〟か、それがわかっていませんでした。今まで考えてすらなかったんです」


「それで、何か結論はでましたか?」


「ええ、一応は……」


 落ち着きを取り戻したかと思われたミフユさんは、再び頬を染めた。


 では聞かせて貰おう。時間にして2時間弱掛けて出した天才女子高生作家、ミフユ先生の書きたいファンタジー小説、その結論とは?


「…………ほう……です……」


「はい?」


 声が小さくて全然聞き取れない。


「ですから……ま……」


「ま?」


 ミフユさんはコホンと咳ばらいを一つ、喉の調子を整える素振りをした。


「魔法です!」


「魔法……」


 その後の言葉を待つが、ミフユさんの口から続きが出て来る気配はないようだ。


「えっと、それだけですか?」


「ええ、今のところは」


 テーマは〝魔法〟。正直俺からするとほぼ何も決めていないに等しいが、それは言わずにおいた。それに何かとっかかりさえあればそこからあれこれ派生させて設定を広げてやることくらいはできる。


「なるほど、魔法というからには舞台は魔法が存在する異世界なんてどうでしょう? 現代が舞台でも良いですが、せっかくですからミフユさんの今までの作品とは毛色の違ったものが良いでしょうし」


「え? ちょ、ちょっと、ヒイラギさん?」


「異世界となるとローファンタジーかハイファンタジーに分かれますね。まったく新しい世界感を作り上げるハイファンタジーなんか創作の醍醐味ですが、ミフユさんはまだそういった世界感を創るのは苦手のようですし、現実の要素を残したローファンタジーが無難でしょうか」


「え? そんな、待ってください」


「そうだ、人気ジャンルではありますが〝異世界転移モノ〟なんていかがです? 現実の人間が主人公ですからこれまでの作品のようにミフユさん本来の描写の良さを残しつつ、色々なファンタジー要素を織り交ぜていけると思うんです」


「あ、あの! ヒイラギさん!」


「主人公の性別ですが――」


 しばし夢中になってしまった俺の意識は、ミフユさんがテーブルを叩いた音で我に返った。


「大切な内容をそんなに急に進めないで下さい! わたし怒りますよ!」


「あ、あの……すみませんでした……」


 ミフユ先生から思わぬお叱りを受けてしまった。


 俺たちは互いに飲み物を口にし、気持ちを落ち着ける。そして気を取り直して再開した。


「では順を追って決めていきましょう。ミフユさん、主人公はどんなのが良いですか?」


 俺は先程自分勝手に捲し立ててしまった諸々を一度チャラにし、改めてそこから訊くことにする。


「主人公の設定ですか? わたしにはまだ早い気がします」


「早いも何も、主人公の設定くらい決めないと何も始まらないですよ。僕も何も教えようがありません」


 「教えようがない」という言葉が効いたのか、ミフユさんは見ているこちらが心配になるくらいに恐ろしく厳粛した顔で悩み始めた。そして徐に口を開く。


「そうですね……では魔術師にします」


「おお、良いですね。王道ですね。まあ、そもそも魔法がテーマですから普通ですけど、普通なところから始めるのが良いと思います。それでその主人公である魔術師はどんな特徴がありますか?」


「魔法を……使えます……」


「まあ、魔術師ですからね。当然ですね。どんな魔法ですか?」


「魔法の杖の先から……」


「先から?」


「杖の先から……」


「先から?」


「炎が出ます」


 ミフユさんは先程作者名を考える時に使用したボールペンを魔法の杖に見立て、「こう、ぼうっと」と安っぽい擬音を口にしながら杖から炎が出るような手ぶりをした。


 頃合いだろう。黙ってミフユさんの言葉を受け入れていた俺は一度嘆息する。


「あの、普通過ぎないでしょうか? もっと、その、もう少し意外性を狙ってみないと。ただでさえ〝魔法〟という設定はありふれているんですから」


「ですが、魔法を使えるという時点でわたしにとっては最早普通のことではありません」


「まあ、大抵の人間にとっても普通ではありませんが」


「確かにそうです。なぜ皆さんはああも堂々と未知の領域に手を出せるんでしょうか」


「良いんですよ、別に。ファンタジーを書く人間はそこまで気負ってはいないと思います。もう少し肩の力を抜いて気軽にいきましょう。気軽に書いてみてもし失敗なら、失敗でも良いじゃないですか。悩むことは大事ですが、その、せっかく創作をやるんです、堅く考えるよりもっと楽しんでみてはいかがです?」


「でも失敗は……できればしたくないです……」


「誰だってそうですよ。でも失敗しながら成長して最終的にミフユさんが目指すファンタジー小説に行き付ければ、それは喜ばしいことではないですか? 達成感だって一入ひとしおです。それともミフユさんはこれまでの執筆活動で失敗したことはないんですか?」


「失敗とか、ですから」


「失敗したことがないと?」


「いえ、したことの有無ではなく、〝失敗〟という概念自体があり得ないんです」


 そこでミフユさんの〝自身の小説は自分自身〟という主張を思い出した。


「ああそうでした」


「驕るつもりはありません。性質の違いです」


 得心がいったことを察したミフユさんはそう言って、テーブルに広げっぱなしにしていたルーズリーフに目を落とす。そこには先程一緒に考えた作者名が所狭しと書き込まれている。


「ヒイラギさんは小説に〝正解〟があると思いますか?」


 その議題は最初に出会った時に話したものと似ている。だがあの時の「面白い小説か否か」という内容とは全く違う意図でのことだろう。


「わたしの書いていた小説には明確な〝正解〟があります」


 俺の回答を待たずにミフユさんは続ける。


 そう、彼女の書く小説には〝失敗〟がない。裏を返せば、これまで書いたもの全てが〝正解〟というわけだ。もし仮にそれが正解ではないとすれば、彼女は自分で自分に嘘を吐いたことになる。〝失敗〟ではなく、〝嘘〟に。


「まったく、雲を掴むような話です」


 常に何かを見つめていた彼女の瞳は、この時だけは虚空を透かしたように朧げだった。

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