第九幕 時は過ぎゆく

 壊れてしまったおとぎ話。だけど砕けた鏡に新しい景色が映るように、壊れた先に見えた真実がある。かけらをひとつひとつ集めて、大切な思い出にした。

 これからはおとぎ話を語り聞かせるほうになる。目を閉じて。さあ、魔法をかけよう。


 アレクシス。その名を呟いて、ユキはじっと写真に見入った。さまざまな瞬間に切り取られたアレクシスの姿はどれも透き通った光を纏うようだった。太陽の光に満ちた花畑でこちらを振り向く満面の笑み、木漏れ日の中眠そうに細められた瞳、画面の外にある何かに意識を奪われて目を見開く横顔。湖畔の手すりで重ねた腕にそっと頬を乗せ、ゆるく弧を描く藍の双眸に、唇を柔く結んだ淡い微笑みの後ろでは、アレクシスを包むように湖の水面がきらめいていた。

 夕陽を浴びながら暮れゆく街を眺める、倦んだところのない澄んだまなざし。風に吹かれて光を弾く黒髪がふくらんだ一瞬、海沿いのどこかをのびのび歩く横からのショットと後ろ姿。黒を基調としたシンプルなイタリアンカラーのシャツと同じく黒の細めのパンツがすらりと伸びた手足と背、首すじ、骨のかたち、全体のスタイルや何気ない仕草を引き立てる。

 海を見つめる横顔、その瞳の藍は夕陽を映してほんのり橙色に霞み、水平線の向こうへ夢見るような色をしていた。

 さらにページをめくると背景が街中から薄い灰一色になり、表紙に使われていたのと似たトーンで、白い釣鐘型の花を一輪、胸もとに当てた彼がいた。少し顔をそむけ、艶やかな黒髪、黒いまつげと紅い唇と白い頬で作られる顔の輪郭が神秘的な一枚が収められている。次のカットで写真の中の彼がまぶたを上げてまっすぐ前を見る。白い光が瞳に差し込み、藍の色が透き通って宝石のような美しさを宿す。次いでその視線がこちらを向き、唇を白い花弁で隠すようにして密やかに微笑む。仕草は色っぽく、だが微笑みは清廉で、どこまでもやさしげだった。

 どの写真からも、語りかける彼の穏やかな声が聞こえてきそうだ。彼はさまざまに表情を変え、そのたびこちらへ向かって何かを訴えるようで、聞こえない声をもどかしく思う。切り取られた一瞬一瞬、すべてがいのちの輝きを宿し、彼という人間がそこに存在し、心動かし、何かを思っているようすをあざやかに映し出していた。

 氷のように冷めた顔しか見せなかったフロルとこの写真の彼は、確かにまるで別人だ。

 ページをめくるのが惜しい、でも次の写真も早く見たい。ユキはほとんど息をするのも忘れて、というより綺麗な彼の世界を少しも壊してしまわないよう息を潜めてゆっくりとページを進めていった。

 写真集『Flor』。モデルのインタビューも、撮影者のコメントもプロフィールの記載さえもない、最初から最後までアレクシスの写真だけが収められた一冊。まるでどこかの別世界を写したかのように、あまりにも綺麗な写真たち。奥付に並ぶ文字だけが現実感を持っている。

 奥付にモデルの名は書かれていなかった。カメラマンの名は『brother』、名前はわかっても、彼が誰なのかまではわからない。謎に満ちた写真集である。

 ただひとつわかることは、アレクシスには運命の相手がいたのだ。きっとアレクシスを撮るために生まれて、アレクシスが心を寄せた人。アレクシスが彼を撮った相手を信頼しきっているのは、レンズ越しの彼の表情からもありありと感じ取れた。何より、レンズを見つめる藍の瞳にはいつも愛情が溢れている。

 誰なのだろう。そしてどうして、その人はもうアレクシスの写真を撮らないのだろう。

『フロルも僕の名前ではない』

 アレクシスはそう言っていた。ならば、彼がフロルを名乗っていたのはなぜなのか。

 アレクシスがフロルであることをやめた理由には、この写真集、突き詰めるならおそらく『brother』が関係している。ユキはちらりと枕もとの携帯端末を見た。先ほど、メッセージアプリを通じて今日のレッスンで褒められたことをアレクシスに報告して、彼からも喜びの言葉をもらって、おやすみを交わしたところだ。黒いスリープ画面を親指でなぞる。

『世界が違って見えた』

『きみの世界は、あの人の見せてくれた景色とは違う』

 出会ったばかりのころのアレクシスの言葉を憶えている。彼の言っていた『あの人』はきっと『brother』だ。その人のことを口にしたときの、彼の寂しげな微笑み。

『僕の目が、そうやって世界を見ることができるなんて知らなかった』

『あの人の言葉もないのに――』

 今になってアレクシスの痛みが伝わってくるような気がした。もちろんユキの想像でしかない。でももし、彼が寂しさや苦しみや痛みを感じているのなら、自分にそれを和らげることができたら、と願った。

 彼にその気はなかったのかもしれないけれど、アレクシスはユキを暗闇から救ってくれた。暗いところでうずくまろうとしていたユキに光を灯し、こっちだよと導いたのは彼だ。

 だから、否、そうでなくてもユキにとってアレクシスは大切な――友人、なのだ。自分と彼の関係を表す言葉を当てはめようとして、ユキは少しだけ戸惑った。フロルとは直接面識もなく、仕事仲間というほどではなかったし、とはいえアレクシスを知人と言うのは侘びしい。しあわせに笑っていてほしい、もしも涙を流すのならそばにいさせてほしい、とても大切な人。それを何ていう言葉で表せばいいんだろう。

 今までのユキは自分のことに手一杯で、他は何も見えていなかった。だからこそ今さら、出会ってからのアレクシスの言葉や表情、まなざし、仕草を思い返しては、だんだん胸が苦しくなってゆく。

 ねえアレクシス。今からでも許されるなら、あなたの心の内側に触れたい。何度も励まし、勇気をくれたあなたに、わたしは何を返せるだろう。

 黒いスリープ画面は何も映していないけれど、ここはアレクシスと繋がっている。でもただ繋がっているだけでは意味がないのだ、舞台の上でするお芝居がそうであるように、相手の言葉、しぐさ、表情に耳を傾け、注目して、相手が表したい気持ちを感じ取ることで、その人との世界ができあがってゆく。演じるときには当たり前にやってきたことを、どうして現実ではうまくできなかったんだろう。もっとアレクシスの声や、言葉や、表情、まなざしのすべてに、心を傾けてみていたらよかった。彼がフロルをやめた意味を、もっとよく考えて、彼から感じていればよかった。彼が苦しんでいることをわかっていたのに、どうして寄り添おうとしなかったんだろう。

 ベッドに仰向けになって目を閉じると、アレクシスのいろんな表情が浮かんでくる。綺麗な人。心優しい、すてきな人。

 朝の公園で見せてくれるような、あの写真集のレンズに向けているような、柔らかく、美しく、可憐で、しなやかな花のような表情たちを、また見せてほしい。フロルとしても、アレクシスとしても、いつもそうして笑っていて。

 薄っぺらな板切れ一枚の先に繋がっているだけじゃ足りない。彼のことをもっと深く知って、感じて、彼との世界を造り上げてゆきたい。

 願って、ユキは心許なさに胸を締め付けられた。

 その世界は独りでは造れない。ユキが望んだとして、アレクシスは同じ舞台に立ってくれるだろうか。

 何も映さない黒い画面をぼんやり見つめながら、ユキはその日、いつまでも寝付けなかった。




 その夜、人魚姫は王宮の広間から風に乗って流れてくる華やかな舞踏会の音楽を聞きながら、今ごろそこでたくさんの姫君たちと踊っているだろう王子様を思い浮かべ、誰もいないバルコニーで、覚えたてのステップを踏んだ。舞踏会があるのだと言って、王子様が戯れに教えてくれたダンス。人魚姫の小さな足は固い床に触れると痛む。それでも王子様と踊ったときのことを思いながら音楽に乗っている時間は、人魚姫にとって幸せだった。


 きみは誰? どこから来たの? あなたの問いに、わたしは答えられない。この足と引き換えた、わたしの声はもうあなたに届かない。

 それでもいいの。あなたがわたしを見つめて微笑みかけてくれるだけで、わたしはとてつもなく幸せになれるのよ。

 本当は、わたしがあなたのそばにいるために、声を捨てたのだと知ってほしい。どうかわたしを愛して、ずっとそばにいると誓って。そうしたらわたしは本物の人間になれる。永遠の魂を得て、ずうっとあなたのそばにいられるのに。


 どんなに嘆き悲しんでも、人魚姫は陸の魂を持たないから、涙を流すことができない。心で泣きながら、人魚姫は星空の下、海を望むひとりぼっちのバルコニーで踊り続けた。

 その時、ふいに人魚姫の空っぽだった腕を誰かが引いた。たたらを踏んでよろけた彼女をあたたかな胸に抱き留め、驚いて見上げてくる薄い空色の瞳を微笑んで見下ろす。彼はびっくりしている彼女の手に手を重ね、左手を自分の肩にかけさせて、細い腰を抱いた。

「ワルツは、こうやって踊るんだよ」

「……!」

 息を呑む彼女の身体をそっと揺らし、すらりと伸びる足でワルツのステップを踏む。最初は戸惑うようになんとかステップについていっていた彼女が、迷いのない彼の足取りにつられて次第に自ら足を踏み出し始めた。ふたりの呼吸が揃い、くるり、くるりとゆるやかに輪を描きながらふたりきりの夜を優雅に踊る。互いを見つめるまなざしがどちらもやさしく緩み、言葉もなく、それでも確かな愛情が通う。

 風が吹いて、水の音が立つ。そのほかには音楽もなく、あたりは静かだった。やがてどちらともなく足を止め、頬を上気させて見つめあったまま、ゆっくりと身体を離してゆく。夜空の星々が消えてどんよりした灰色の曇り空に変わる。

「……人魚姫に、こんなシナリオはないわよ」

 余韻が惜しかったから、たっぷりと間を置いて一応の抗議をした。ほとんど中身がないことは言ったユキ自身こそよくわかっていた。

 本来の人魚姫には無い展開、ユキはとっさに『人魚姫』としてどんな反応をすべきか、ひとりで踊っているつもりが王子様に手を取られたときの人魚姫の心境を想像した。歓喜したのは人魚姫、戸惑ったのはユキ。だが無邪気に大喜びする人魚姫をユキは止めた。人魚姫の手を取ったのは本当に王子だろうか? 否、王子じゃない、彼はアレクシス。王子とは心のありようが違う人。そう感じた瞬間、ユキは人魚姫であることをやめ、アレクシスの作ろうとする世界に身を委ねた。

 それで正解だったと思う。アレクシスとの間にあったのは、人魚姫の物語ではなかった。

「ふふ、だってここはきみと僕の舞台だもの。いいじゃない、こんな物語があったって。物語はひとつではないんだ、きっと」

 祈るように目を閉じて、アレクシスがそうっとユキの額に彼の額を重ね合わせた。ユキは小さくささやいた。

「あなたはあの王子様じゃないわね」

「きみもあの王子を助けた人魚姫じゃない」

 もし、人魚姫の助けた人が人魚の存在を知っている王子様だったら。あるいは海辺で口のきけない娘を見つけたのが身分など気にせず人を愛することのできる男性だったら、違う物語が生まれたろう。

『もしも』の積み重ねが物語をかたちづくってゆく。どんな『もしも』でさえ存在しうるうちの、自分たちが知っているのはその一部なのだ。

 舞台の上では、いくつもある可能性のうちのひとつだけを演じている。現実の世界も、もしかしたら同じなのかもしれない。

 もしもあのとき、この人に出会っていなかったら。

「でも舞台の上では、わたしがあの人魚姫だわ」

「王子が放っておくのが腹立たしいほどだ。どうしてだろう、このあいだディスクで見た舞台の人魚姫はもっと、王子様に愛されようとしていたように見えたのに、きみはなんだか諦めているように見えるよ。それが健気で、もどかしくて、胸が痛くなる。物語を破ってきみを助けたいと思うほど」

「それは、役者が違うからかしらね」

「同じように表現しようとするのではないの?」

「でも、人はひとりひとり違うから……」

 完全に他者になりきることは、誰にもできやしない。他人の心の内を知ろうとするには、想像するしかない。

 だからこそどんな役も、ユキと切り離された他者としてではなく、ユキ自身の人生や感性、情動の上に成り立つ。衣装を着てメイクを施されても、ユキ自身が消えてしまうわけではない。

 ユキが演じる人魚姫は、ユキの持つ可能性のひとつとして、舞台の上に現れるのだ。

「どんな役でも、役者が違えばその違いを完全に消してしまうことはできないわ。だって誰も、完全に他の人間になってしまうことはできないのだから。でもそれでいいのよ。だからこそ役者にそれぞれの輝きがあるのだもの。アレクシス、来年はわたしが演じる人魚姫を見て。わたしね、今度の人魚姫のオーディション、エントリーしたの。来年の公演の分」

「オーディションはいつ?」

「一ヶ月後。わたしの誕生日のちょうど次の日」

「えっ、じゃあユキの誕生日ももうすぐじゃない。ユキって今いくつ?」

「十六。だから来月には十七になるわ」

「わあ……それはぜひお祝いをしよう。ユキの改めてのデビューの年になるのかもしれないし。オーディションが近くて忙しいかもしれないけれど、プレゼントは何がいい?」

「え、でも」

「僕がお祝いしたいんだ。何か欲しいものはないの?」

「ほしいもの……」

 これは絶好のチャンスだ、と思った。アレクシスに付き合ってほしい、彼にしか叶えられないユキのわがままがある。お願いするなら今がいい。

 そうは思っても、軽々しく言えることではなかった。どうしたらいいだろう。

 切り出しかたに悩むユキの脳裏に空のフォトフレームが過ぎる。

「……。ねえ、ものじゃなくてもいい?」

 口に出したら後戻りはできない。ユキは自分の心にも選択が間違っていないか確かめながら、慎重にアレクシスをうかがった。

「僕にできることなら」

「あのね、海に、連れて行ってほしいの」

 フロル・ネージュの街から海は遠い。十六のユキがひとりで行けないというほどでもないが、ひとりで行くのは寂しい距離だ。

 冬の海など、明らかに季節はずれだからだろう、アレクシスはやや驚いたように「海?」と聞き返してきた。次いで「サフィール?」とフロル・ネージュから一番近い港町の名を挙げる。

「海が見られるならどこでもいいわ。わたし、海を見たことがないの。だから、人魚姫をやる前に、本物の海を見てみたいのよ」

「いいよ」

 ユキのいやに熱心な口ぶりをどう思ったか、アレクシスは勢いに押されたようすながらも頷いた。ポケットから携帯端末を取り出し、何かを検索してユキに画面を見せる。

「電車を乗り継いでいくから、けっこう時間がかかるけれど、日帰りで?」

「難しい?」

「ううん、朝早くに行けば大丈夫だと思う。帰ってくるのは夜遅い時間にはなるけれど。電車だと人里沿いに山を迂回するルートだからね」

「そう、ね」

 ユキは免許を持っていないから、車で行く提案はできなかった。ただ、アレクシスは、最初の入水自殺未遂疑い不審者事件のときに免許証を見せてもらった限り、車の運転ができるはずだ。見た目がフロルそのままなのに、公共交通機関でよいのだろうか。尋ねてみたいが、車で行くことをねだるようで気が引ける。ユキが気難しい顔をして端末に表示された乗り換え路線と所要時間を睨んでいると、何か勘違いしたのか、アレクシスが別の画面でサフィールの街の冬の様子を示して見せた。

「サフィールは海水浴場のある港町だから夏のほうが賑わうけれど、この時期は冬祭りでマーケットが開かれていて、わりとにぎやかだと思うよ」

 ユキは海さえ見られればそれでいい。でもライトアップされ、画面上で夜闇にきらきら浮かび上がるマーケットをアレクシスと歩くのは楽しそうだと思った。問題は、アレクシスの顔だけである。

「あの、電車に乗ったり、にぎやかなところへ行って、あなたは大丈夫?」

「うん? ああ、フロルのこと? 大丈夫、列車はコンパートメントを予約するし、人混みの中では案外他人のことなんて誰も気にしないよ」

 アレクシスほど綺麗な人がいて、果たしてそうだろうか、とユキはいぶかしんだが、本人が言うならそうなのだろう。思い返せばユキ自身も、フロル・ネージュの街の人ごみの誰も、いちいち他人の顔を見ていない。だからこそ誰でもない人びとのなかから、出会えたひとりが特別になる。

「いつがいい? 僕はいつでも暇だから、いつでもいいよ」

「ええと、じゃあ、今度の土曜日でもいい?」

「わかった。じゃあ列車を予約してしまおう。フロル・ネージュからシリオまで出て、乗り換えてサフィールへ行けるよ。朝八時くらいにセントラル駅を出るのでいい? サフィールに到着するのが昼過ぎになる。帰りは、そうだな。五時前くらいに向こうを出れば、十時には帰り着くと思う」

「うん」

 アレクシスの端末を一緒に見ながら頷いたユキの目の前で、操作するアレクシスの親指の爪に白いものがふわりと舞い降りた。ほんの一瞬透き通る結晶を見せたそれは、すぐに溶けて小さな水滴になる。ユキとアレクシスは揃って空を見上げた。

「雪だ」

「今年は少し遅かったかしら。わたしね、雪が降ってやっと、冬が来たなあって思うのよ。おかしいよね、冬はとっくに来ているのに」

「僕も同じように感じるよ」

 最初に一粒だけアレクシスに落ちてきた雪は、みるみる量を増して、次々と空から降ってきた。まだ今は積もるほどではないが、フロル・ネージュの街が白く彩られるまで、もうまもなくだろう。

「聖夜祭が近くなってきたから、もうそろそろ、フロル・ネージュの街にもランプが吊るされるね」

「女神を讃えて枯れ木も美しく彩る、っていうけれど、枯れ木にランプを吊るして美しいかしら。昔は電飾だったわよね。わたしは、冬は冬らしく、雪を被った木の枝もすてきだと思うわ」

 ユキはここぞとばかりに長年の疑問を素直に言い放った。アレクシスがくすりと笑う。

「女神さまは美しいものがお好きだけれど、どんなものが美しいかは示されなかった。だから僕たちはずっと探しているんだ。僕は見つけたと思うよ。僕にとってもっともうつくしいもの。かけがえのない僕の光」

「…………」

 アレクシスの少し鈍い藍色をしたやさしげなまなざしが、ユキにまっすぐ向けられている。舞台の上であったら、いくらでも受け止められた。けれど今は他の何者でもないユキの心臓を、アレクシスの視線が深く貫く。手足の先まで痺れが駆け抜けた。

「わたし……」

 ああだめだ、口が乾いている。このままだと喉が乾燥してしまう。少しずつ勢いを増す白い雪に遮られがちな視界の中、ユキはじっとアレクシスを見つめ返した。

「わたしに、火をつけたのはあなたよ」

 アレクシスの目はユキひとりをとらえている。いつかのように、通り越して誰かを見ているということもない。だからこそ、伝えられる熱量がそのままユキにすべて沈み込んでゆく。

「あなたにとって、わたしが、ほんのすこしでも」

 乾きがちな喉をなんとかしようと、ユキは何度も唾液を飲み込みながら声を出した。緊張しても、舞台の上だったらもっと流暢に台詞を言えるのに。他の何者でもない自分が、こんなに柔いなんて知らなかった。この感情をどう発声したら表現できるかなんて、今は考えられない。

 今、この場に、稽古なんてないんだ。それでも伝えたい。彼の心まで、どうしたら届くのだろう?

「少しでも……わたしは自分のことで悩んでばかりで、あなたに励まされてばかりだったけれど、アレクシスにとっても、少しでもわたしの何かが支えになっていたら、嬉しい」

「あのね、情けない話、僕だってきみの悩みを受け止めていたわけじゃないよ。きみが悩んで苦しんでいることさえ最初は気づいていなかった。僕がただ身勝手にきみに夢を見ていただけだ。そうして僕は十分すぎるくらい、夢を見せてもらった」

 アレクシスは瞳の奥に、夢から醒める瞬間のような、名残惜しげに滲んでたゆたう藍の色を覗かせた。

 だからもういい、そう言われるのではないかと恐れて、ユキはとっさにアレクシスの袖口を掴んだ。アレクシスはコートの袖に引っかかるユキの指を見て目を細め、軽く手首を返して袖から外したユキの手に自分の指を掴ませる。

「土曜日が楽しみだな。きみと一日じゅう一緒にいられるんだ」

 心からうれしそうにアレクシスが言う。たったそれだけのことをひどくよろこぶ彼の口ぶりが、ユキに終わりの予感をもたらした。

 フロル・ネージュに雪が積もって、溶けたら春がやってくる。

 ひとつの季節がゆるやかに、けれど確かな歩みで過ぎ去ろうとしていた。

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