第七幕 ダイヤモンドの輝き(上)

 彼女が必死に守り通した赤ちゃんは、海の底の宝物よりもずっと可愛かった。陽の光で透き通る水みたいな瞳の色、夜空に浮かぶ星を集めたような髪の色。できるならずっとそばで、大きくなってゆくのを見守りたかった。でも、もう限界だったの。彼女たちは大事な赤ちゃんをフェアリー・ゴッド・マザーに託して、海へ帰っていった。別れぎわに泣いた赤ちゃんの涙の一粒を小瓶に入れて、それだけを持って。海の魂を持つ人魚は涙が流せないの。彼女は我が子の、陸の魂をもつからこそこぼれる涙を何よりも貴く思った。

 あなたのお父さんとお母さんは、あなたに会うことはできないけれど、あなたをとても愛しているわ。あなたはとても美しい歌を歌う、人魚の声を受け継いで生まれたの。あなたは陸の魂を持つ、特別な人魚の子なんですよ。


 目を開けると、青い天井が見えた。ユキの部屋は壁紙も天井も、すべて深い青色をしている。床は薄い灰を含む白。海の底みたいでしょう。そう言っていた声が、目に映る色が、今日は忌々しい。

 海の色なんて知らない。まして、海の底の世界なんて。

 あるはずないじゃない。

 ユキは重い腕を持ち上げて目を覆った。何も見えないほうが心穏やかにいられると思ったのに、暗闇はますますユキをひとりぼっちにする。頭が沈む枕の横に充電器に繋ぎっぱなしの携帯端末があったので、普段は連絡とニュースのチェック以外にあまり扱わないそれを、苦し紛れに手に取った。カーテンも閉めたままの薄暗い部屋に、端末の画面だけが白く光って目に痛い。画面に表示された日付と時刻を見て、ようやく今が夕方なのだと知った。

 もう日曜の夕方だ、と思えばため息が出る。何もしていなくても勝手に時間は過ぎるのだ。ならば、ユキが何をしようと何をしまいと、なんにも変わらないのかもしれない。

 土日にはレッスンはないが稽古場は開いていて、いつものユキはそこで過ごしていた。けれど昨日と今日はなにひとつやる気が起こらず、家どころか部屋からさえも出ていない。身体がひたすら重怠いのはいつもの運動をしていないせいだろうか。心配するニコおばさんには軽い風邪だから休んでいれば大丈夫と言ってごまかした。この期におよんで、ニコおばさんにまだそんな嘘を言う自分も嫌だった。

 ニュースサイトを見ても、どれもこれもとりたてて面白くない。政治や経済関連はユキには重要性がわからないものもあるので別だけれど、ドリンクの新商品が発売されるとか芸能人の熱愛デート発覚とか、そんなことをトップニュースに表示して、本当にみんなはこんな情報を真っ先に知りたいと思っているのだろうか。

 思わず端末を放り出しそうになったが、そうしてもまた鬱々とした時間に引き戻されるだけだと思って、かろうじて手に留める。ぼんやり画面を眺めながら、ふと、検索欄が目に付いた。今時、ここに知りたいことを打ち込めば、たいていのことがわかるのだという。

 それならなんでわたしがダメだったのか、教えてくれないかなあ。

 理由がわかればさっぱり気分を切り替えられるかと言えばまったくそんなことはないと思いはすれど、とりあえず知りたいことなんて他にない。とはいえいくらユキでも、検索窓とそこから繋がるインターネットがそういうツールでないことくらいわかっていた。

 他に何か、検索できそうなものはないか。インターネットの使い道として正しい何か。

「あ」

 仰向けになった顔の真上に端末を掲げて、検索窓をタップする。画面の下半分に表示されたキーボードで、ユキは親指を滑らせた。思いついたままの検索ワードを入力したところ、サジェストに『本名』とか『恋人』とか『年齢』とか『大学』とか出てきて思わず半笑いになる。そうか、あの人ってみんなにこんなこと検索されているんだ。

 たぶん本名は知っているけれど、他はユキも知らない。

 とりあえずサジェストのどれも採用せず、入力したワードのみで虫眼鏡ボタンを押すと、検索結果にはずらりと文字や画像が並んだ。画像はほとんど宣伝広告に使われていた写真で、けっこうユキにも見覚えがある。顔も身体も美しいとしか言いようがない写真を眺めているのはそれなりに楽しく、つい画像検索に切り替えて堪能してしまった。いつも街中の広告やテレビ画面で見ていた顔が手の中にあるというのは、なんともなかなか気分がいい。

 それなのにしばらく経つと、気取ったポーズや澄ました表情ばかり並んでいるのがどうしても物足りなくなってきた。いつも朝に公園で会う彼の様子を思い浮かべて、詐欺みたいに別人だなあと笑う。でもユキは、ふんわりしてちょっと掴みどころのない彼のほうが、写真の賢そうで美しい彼よりも好きだと思った。

 会いたいなあ、とぼんやり思ってはたと気づく。そういえば今までユキは土日など関係なく稽古場へ通っていたから、当然のように土日も公園へ行っていたが、彼もまた毎朝そこに居なかったか?

 ということは、ユキが行かなかった昨日も今日も、彼は池の前に居たのだろうか。もしそうだとしたら、あの人気のない寒々しい池のところで独り待ちぼうけたのではなかろうか。

 いや、べつに、約束をしていたわけではなかったし。

 言い訳をしてみても、やってしまった、という後悔は消えない。

 せめて連絡のひとつでも入れたかったものの、出会ってから半月とちょっと経つというのに、ユキは彼の連絡先も知らないのだ。手に握った携帯端末が途端に役立たずの板切れに見えた。

 あの冬を映す冷たい池のところで冷ややかな風に吹かれて、彼がひとりぼっちで居たのかと思うと、なんだかとても切なくなる。

 ごめんなさい。

 届かないとわかっていて胸の中で呟きながら、板切れの中にいるたくさんの彼を見る。ユキの思いこみでしかないのに、どれもが寂しそうな顔に見えてくるから参ってしまう。画面越しの顔にユキの気持ちが伝わるはずもないのに、慰めたい思いで眺めているうち、規則正しく並ぶ画像のなかでふと、ひとつだけ雰囲気の違うものが目に留まった。タップして拡大する。時が止まって、目を奪われた。

 とりたてて派手なのでも、美しく微笑んでいるわけでもない。長い睫毛を伏せて視線を下にやっているから、藍の瞳はほぼ隠れてしまっている。やや俯きがちの頬に長めの黒髪が作る淡い陰が、頬の線のまろやかさを際だたせていた。唇は軽く結ばれ、ほとんど表情らしい表情のない彼はともすれば無機質にも見える。それも彼には珍しいものではなく、むしろよく見かける彼の写真はどちらかといえば冷淡な印象のものばかりだ。なのにその一枚だけは、わずかに彩度を落として全体にうっすらと灰色がかった色彩のためか、眠る幼子を映したかのような柔らかさがあった。

 人形のようで、それなのに唇に指を寄せるとあたたかな吐息が触れるような気がした。他になにも言うことが思いつかないくらい、彼は綺麗だった。そしてやさしくてあたたかい。もしこの人に触れたらきっと、まぶたを上げてそっと微笑んでくれるのだろう。春に、花が咲くように。

 腰から上を写したショットの真ん中、黒い衣装の胸のあたりに、白抜きで『Flor』と綴った文字が置かれている。この街の名を指しているのではない、とすぐにわかった。街の名を指すときは必ず、ふたりの女神を讃えて『Flor・Neige』と記される。何かの宣伝にしては、どこにもそれらしい小物も文字もないし、ブランド名さえ入っていない。サムネイル表示で画像を並べると、一枚だけ明らかに異質だった。

 一体、これは彼の何なのだろう。

 画像にはどこかのウェブサイトが関連づけられていた。情報欄を開いて、迷わずアクセスする。小さな出版社のサイトの出版情報ページに繋がった。『Flor』は本のタイトルなのだ。出版は三年前で、著者名の欄は『brother』となっていた。

 誰? と思って著者名と写真集をキーワードに検索すると、ブログや掲示板などの、公式なものではなくファンが運営していると思しきページで、いくつか「『brother』はかつてのフロルの専属カメラマン」という書き込みが見つかった。『Flor』はそのカメラマンの唯一の写真集で、収録されているのはすべてフロルを撮った写真なのだそうだ。この写真集の存在はフロルのファンの間で謎めいた作品としてけっこう有名らしく、「写っているのはまるで別人」という評をかなり多く見かけた。

 奇しくも、ユキがさっき彼に抱いたのと同じ感想だ。否、果たして本当に、奇しくも、なのだろうか。

 こんなときの強い味方、ユキがいつも使うターミナル駅近くにある大型書店の在庫検索にかけてみたところ、幸運にも、三年前の本なのに在庫有りの丸印がついていた。この書店はレッスンが終わったあとの時間帯にも開いているから、明日の帰りに寄っていこうと決める。

 昨日今日とあんなに憂うつで、レッスンに行きたくないなあと思っていたのが嘘のように、当たり前に明日行くことを前提にしている。ユキは携帯端末を枕の横に戻し、手足を大の字に伸ばして、それから勢いをつけて起きあがった。お腹が空いた気がする。

 明日は、朝には公園に行って、アレクシスと話をしよう。それに、連絡先を教えてもらおう。それからいつも通りレッスンに行く。なにはともあれ今のユキにはそれしかできることはないし、やることもない。

 なんだか妙に気持ちが軽くなったのを、ユキは『アレクシス効果』と名付けた。綺麗なものを見ると人は癒される。いいなあ、と今はすなおに思った。ユキも彼のように、人に夢を見せる存在になりたかった。

 幼い頃に憧れたのは、きらきらして、楽しくて、羽があるみたいに軽やかで、歌がとってもじょうずなお姉さんやお兄さんたち。ユキは客席から飛び出しそうになるほど夢中になって舞台を見つめていた。舞台の上ではどんな世界も本物だった。おとぎ話でも、魔法でも、本当はいない人の話でも。どんな困難も乗り越えられると語った。いつだって希望があると教えてくれた。それは幼いユキの勇気になった。

 あんな夢の世界を、見せてあげたかった。ずいぶん前、貝殻の中身と一緒に胸の底へ沈めた想いが、ユキをうかがうようにそろりと揺れる。

 夢を、見せたかった。

 いつの間にかすっかり忘れ去っていた、ユキのいちばん最初の願いが今、久しぶり、と胸の中から手を振っている。疑うことを知らない、無知で無垢でお馬鹿さんの小さなユキがそこにいて、満面の笑みで、大きくなったユキを抱きしめた。





 アレクシスは初めて彼を見たときと同じに、柵にもたれて池を眺めていた。ただ最初と違って藍の瞳は空っぽではなく愁いを含んで陰り、曇って灰色をした色彩の薄い空の下、何かを思い悩む様子でいるのが、なんだかたまらなく魅力的だ。彼の冷たい表情と、ふわふわした笑顔はもう見慣れたけれど、あれは貴重である。失われてしまうのがどうしても惜しくて、良心がとがめながらも、ユキはこっそり携帯端末のカメラを起動していた。ふだんカメラ機能なんてほとんど使わないユキの衝動もとってもレアで絶対にどこにも見せないので、どうか見逃してほしい。

 池の前に出る遊歩道のきわにいるため、アレクシスはちょっと遠い。ズームを使ってもなかなか難しく、ここにプロ仕様のカメラがあったら、と歯ぎしりしつつなんとか彼の横顔と池の絵を端末に収めた。

 シャッター音が聞こえてしまったのか、それまでじっと動かずにいたアレクシスがやや緩慢に顔を上げた。すぐユキに気づくかと思ったのだが、彼はそのまましばし池の向こうあたりに視線を向けたあと、首から上だけでゆっくりとユキのいるほうを振り向いた。浮かない顔で沈んだ色をしていた瞳がぱちりと瞬き、それかわいいな、とユキが思っていたところ、ふわっと火が灯ったように微笑む。ユキは近くまで駆け寄った。

「おはよう」

「おはよう、ユキ」

「あの、もしかして昨日と一昨日もここに来てたでしょう? ごめんなさい、わたし体調崩しちゃって、でも連絡もできなくて」

 近くで見上げると、アレクシスの顔色は少し青ざめているように見えた。まさかユキがここで寒い早朝に待ちぼうけを食らわせたせいで、彼こそ本当に調子を崩したのではないかと不安に思う。だがアレクシスは何事もなさげにユキを気遣ってくれた。

「そうだったんだ。大丈夫?」

「もう平気。あなたは? 風邪ひいてるんじゃない?」

「大丈夫だよ。でもちょっと寂しかったかな。きみがいないと、どんなに見ていてもお城は見えなかったから。きみこそ本当に大丈夫? いつもより元気がなさそうだよ」

 ごまかそうかどうしようか悩んで答えが出なくて、ユキは力無く笑った。あったことをそのまま口にする気力はない。でも、アレクシスには少しだけ、ユキの気持ちを知ってほしい。何と言えばいいか、考えながら口を開いた。

「……前ね、街で、わたしとあなたが似てるって言われていたのを聞いたの。その時はそんなわけないって思ったけれど、あなたに会ってからのこと、きのういろいろ考えていて、やっぱりちょっとだけ似ているのかもしれないって思うようになったのよ」

「それが嫌だった?」

「そういうわけじゃないわ。そんな話でもない」

「じゃあ、どういうこと?」

「街中にあった写真で見るあなたは本当に美しくて、他の人たちよりずっと輝いて見えて、きっと女神さまがあなたに天分を与えたのだと思っていたの。だけどその頃のわたしはどんなに頑張っても思ったようにはいかなかったから、女神さまに愛されてるあなたとは違うんだって思ったわ。でも本当のところ、あなたもメディアで外に出している顔と、そうじゃない顔が全然ちがう。それで……その、活動をお休みしてるでしょ? その上池に入ろうとするし、やっぱりあなたにはあなたの苦しいことはあるのねって。池に入ろうとするほど」

「池のことは解決しなかったっけ! 違うからね、いや違わないんだけど、池は違うからね。僕ときみが似てるっていうのは、僕も見たことあるよ。フロルとネージュが、だけど。確かにフロルとネージュは似てるところがあるよね。でも、僕ときみは、正反対だと思う」

 前から考えていたのだろうと思うほど、アレクシスははっきりと、確信を持って言ったように聞こえた。面食らったユキが意味を考えようとするより早く、その理由を彼がすぐに続けた。

「ネージュの歌は撮影現場でも流れていたから、僕もとても綺麗な声だなってくらいは思ったよ。でもそれだけ。フロルもそう。きみも思わない? あれはただお綺麗なだけだって。だけどここで歌って踊っているきみは、本当に輝いて見えた。見た瞬間に、こっちのきみが本当のきみなんだなってすぐにわかった。天分があるというならきみがそうだよ。でも僕はね、僕は、自分では何も持っていないんだ」

 ユキは、さっき思わず撮ってしまった写真を思い出して、そんなことはない、と言いかけた。ふだん写真を撮らないユキにさえどうしても撮りたいと思わせるほど、彼は綺麗な人だ。すがたかたちだけではなく、彼の存在が、彼のまわりに魅力的な世界を作る。

 けれどユキは声を呑んだ。アレクシスは言葉を吐く唇で微笑んでみせていても、藍の瞳に隠しきれない寂寥を滲ませていた。その無理な微笑みが痛々しい。持たないことを憂えているというよりは、持っている人を知っていて、その人をこそ希求しているように見えた。

 彼が求めているものを、ユキではきっと与えてあげられないのだ。なぜなら、アレクシスのまなざしは、ユキを通り越してずっと遠くに向けられていたから。

「きみがフロルに感じた、その才能は僕のものじゃない。本当は『フロル』も僕の名前ではないんだ。本名ではない、という意味ではなく」

 目の前でアレクシスが悲しそうにしていて、それなのにユキではその悲しみを癒してあげることができない。それがなによりつらかった。ユキが唇を引き結んで悔しさに耐えていると、アレクシスが今度はまっすぐにユキを見て、ほんのり諦念を感じさせる寂しい笑みをうかべた。

「きみも、こんな僕といたってつまらないかな」

「そんなことないわ! あなたがいると、今までと違うことを感じたり、違うものが見えたりするの。それだけじゃない、ただ一緒にいることが楽しい。きのうだって、ほとんど一日じゅう動く気もしなかったのに、あなたのことを思い浮かべたとたん、あなたに会いたくなったの。ネットに写真はいっぱいあるけれど、そうじゃなくて、わたしはあなたに……アレクシスに会いたくなったのよ」

 フロルの才能をうらやましく思っていたのも、フロルをこのうえなく美しい、存在だけで価値がある人だと思っていたのも事実だ。けれどユキは、フロルよりもアレクシスのほうが綺麗だと思う。フロルのように超然とした人には見えないけれども、ふんわり微笑んだり、格好悪く焦ったり、ちょっと夢見がちだったり、子どもみたいに驚いたり、ひっそりと悲しみをうかべたり、笑っていても寂しそうだったり、感じていることが素直に滲む表情の、どれもが愛おしく魅力的だった。フロルとアレクシス、もし並べて見る機会があったら、誰もがアレクシスのほうを眩しく眺めるだろう。フロルの輝きは、まちがいなくアレクシスが秘めているものだ。フロルの写真はアレクシスがもともと並外れて綺麗だからあれだけ目を惹くのであって、アレクシス本人を知った今となっては、その秘めた輝きのすべてを引き出せているわけではないと思える。

「きみがそんなふうに思ってくれているなんて知らなかった」

 アレクシスは目をまん丸にしてユキを見、かすれた声で呟いた。

「わたしもきのう気づいたばっかり」

 ユキの見上げる先で、アレクシスの表情が変わる。驚いた顔から、ほんのり頬が朱くなっていって、唇が緩んだかと思うと、今度はふと真顔に戻る。彼は何を考えたのだろう。彼の思い浮かべるものを、感じたことを、知りたいと強く思った。彼と一緒に、同じ世界を見たい。

 人間になりたいと願った人魚姫も、きっとそう思ったんだわ。王子様に自分を見てほしい、王子様とともに生きてゆきたい、その気持ちは本当だけれど、本当の本当のところで、同じ目で、同じ世界を見たかったんじゃないかしら。だから結末で人魚姫は……。

 人魚姫の気持ちを、ユキはよく理解していたつもりだった。理解した上で彼女の気持ちをそっくり自分の胸に写し取って、そうして演じてきた。だが今、ユキがユキとして人魚姫の気持ちを考え、思いついた彼女の想いは、胸につのる重さが全然違う。人魚姫になって人魚姫の気持ちを演じるよりも、ユキがユキのまま、人魚姫の気持ちを考えたときのほうが、感情がより強く胸に迫るのはどうしてなのだろう。

 今のわたしは、人魚姫じゃないのに。

「ユキ? 黙り込んで、どうしたの?」

「あっ、ごめんなさい。考え事に夢中になると他のことを置いてけぼりにしてしまうのはわたしの悪い癖だって、わかっているんだけれど。このあいだもそれであなたをここに置いていったわね」

「金曜日の朝のこと?」

「そう。わたし、演技の勉強をしていなかったと思いこんで、今までの十数年、なんて時間を無駄にしてきたんだろうって焦っていたの。結局早とちりだったんだけれど」

「あ、そういう……ことだったんだ」

 アレクシスは今までになく脱力したように見えた。やがて真顔だったのが微笑みに変わり、心なしかいつもの倍くらい微笑がふわふわしているようである。要するに浮ついている。

 変わってゆく表情のどれも、一瞬で失われてしまうのが惜しかった。すべてをカメラに収めたいほどだけれど、変わってゆくからこその魅力もある。プロの写真家だったら、彼をどうやって写真にするかと意気込み、腕が鳴るというものだろう。そしてもしアレクシスの綺麗なところを、余すことなく写真にすることのできる人がいたならば、その人はきっとアレクシスを撮るために生まれたのだ。

「ねえ、あなたに才能はないって、わたしは、そんなことないと思うの。わたしがフロルに興味を持てなかったのは、生まれつき顔が綺麗で、輝くものを持っていて、それだけの人だと思ったから。フロルが輝いて見えるのは、アレクシス、あなたにもともとそれがあるからだわ。でもあなたはフロルと違って、輝きがきらきらしてる。そう……まるでダイヤモンドみたい。知ってる? ダイヤモンドって、光を当てないと美しい透明な石なだけなんだけど、光が当たって、なおかつ当たる角度が変わるごとに、他のどんな石よりも抜群に輝くのよ。それに、これは素人だからぜんぜん当てにならないとは思うけれど、あなたを見ているとね、わたし、ふだん写真を撮ることになんて興味ないのに、とっても撮りたくなったりするの」

 実行済だとそこだけは言わずに、ユキは正直に白状した。アレクシスは照れるかと思ったら、目を見開いて、呼吸しているか、いっそ心臓が動いているのか疑いたくなるくらい凍りついていた。ユキがびっくりして彼を見つめていると、どこも動いていない彼のたったひとつ、綺麗な藍の双眸に、ゆるゆる水が溜まってゆく。藍が艶やかに色を濃くした。

 染み出るようにかさを増した水が、ついにふちから溢れてひとすじの流れを作る。凍っていた彼の頬がゆっくりとほころび、溶けて、やわらかな笑みになっていった。

 息を潜めてユキが見守る先、涙をこぼしながら、アレクシスは心地よさそうに目を細め、笑った。ユキはまるで、人知れず花が開いてゆくさまを、じっと眺めていたかのような心地だった。

「ど、どうしたの、大丈夫? どこか痛いの?」

 しばらく見とれていたユキは、彼の涙がほとほとと顎の先から落ちるに至って、大慌てで腰の鞄からハンドタオルを引っ張り出し、アレクシスの頬に押し当てた。

「うん。ごめん、びっくりさせたね。みっともないとこ、見せちゃったな」

「みっともなくはないわよ。アレクシスは泣いているのも綺麗ね」

 ハンドタオルを当てるユキの手に、大丈夫、自分で、と言ったアレクシスの指が掠める。自分とは違う温度を、ユキは少し驚いたくらい敏感に感じ取った。とっさに手を引こうとしたのに、アレクシスはユキの手を気に入ったのか、自分でと言ったくせに上から包み込むようにユキの手の甲ごとタオルを押さえた。

 嫌なわけではないけれど、こんな触れられかたをユキは知らないから落ち着かない。

「ねえ、ユキ。お願いがあるんだけれど、かなえてくれる?」

 ようやく涙を止めたあと、潤んだままの瞳で、目じりを朱く染めたアレクシスは、色香があるのに清らかさを感じさせる流し目を寄越した。たぶん意図したものではなく、ユキとアレクシスの身長差で自然とそうなったのだろう。でも、そんな目で見つめられたほうは、無条件で頷きそうになるからダメだ。ユキは腹に力を込めて踏みとどまった。

「その尋ねかたはずるいってわかって言ってるでしょう。内容によるわ」

「抱きしめていい?」

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