4章 失うもの⑤

 倒れこんだまま女の方に手を向ける。

 雲に隠れていた月は風の流れによって、ようやくその輝きを屋上にもたらしてくれた。

「……えっ?」

 俺の能力を受けた女は、先刻の俺みたいに石のように動かなくなった。

「へへっ、作戦成功だな……。影の中ばっかりにいるから周りをよく見ていなかったな」

「……アンタ、まさか……!?」

 全身を覆っている過重力は相当なもののはずなのに、きつく睨んでくる。

「俺の思ったとおりだよ。俺がさっきまで立っていた場所じゃこの月明りが届かない。だから俺の体ごと突っ込むことで――」

「あたしを光の下まで移動させたってわけね!?」

「そういうことだな」

 まさに攻守逆転だった。俺は片手にナイフを握りしめたまま、そしてもう片方を女に向けたまま、ゆっくりと彼女に近づいた。

「過重力で君を拘束するのは、正直できるかどうか不安だったけど、こうして上手くいってよかったよ」

 ターゲットの周囲の重力を極端に大きなものにすれば、それは十分拘束の手段になる。重力の操作も応用すればこういう使い方ができると、今まさに証明されたのだ。

「君の傍に影はない。これで俺の勝ちだ」

 女の目の前までやってくると、彼女は相変わらず敵意を剥き出しにして、

「それで何? そのナイフであたしを殺すっていうの? それともCIPに送還する? あたしが異端能力者だってアンタはわかってるんでしょ?」

「……そんなことはしないよ」

 その意味を込めて、俺はナイフを放り投げた。

「俺は別に君を殺したいわけじゃないし、CIPの人間でもないからそんなことはしない。ただ、救いたいんだよ」

「何回何回ももうやめてよ。これ以上あの男を引き合いに出さないで!」

「そうじゃないんだって!」

 俺はいつの間にか、能力の発動をやめていた。


「俺が救いたいのは君なんだよ!」


「……え?」

 俺はしっかりと彼女の目を正面から見据えた。

「だって、彼氏さんの復讐で君が人を殺すだなんて、そんなの悲しすぎるじゃないか……。殺しが生むのは殺しだけ。負のスパイラルが続いていくだけだ……!」

「……」

 彼女はいつでも逃げることができたはずなのに、それをしなかったということは、きっと心境の変化があったのだろうと、あとになって思う。

「サトルさんは少なくともそんなことは望んでいないはずだ」

「やめてよ……。なんでアンタが、そうやってサトルをわかったように言うの? アンタにサトルの何がわかるっていうのよ」

 そう言って彼女は涙を零した。それは、まだ救いの余地があることを示している。

「それでも、推理ならできる」

「どういうこと?」

「先生は言ってた。『家族や彼女を押し切って、一存で手術を行うことにした』って。けどそれって、逆に言うならサトルさんは賛成していたってことだろ?」

「サトルが手術されることを望んだっていうの……?」

「まあ先生の説明が不十分だったっていう可能性もあるけどさ、そう考えることもできる」

 ようやくまともに話し合えている気がする。この子も錯乱していただけなんだろう。

「きっと、サトルさんはどうしても生きたかったんだ。まだ君と一緒にいたかったんだよ。だからその思いを先生に託して、無茶と言われる手術を受けたんじゃないかな?」

「そこにいたわけでもないくせに、わかったようなこと言わないでよ」

「わかっていないのは君の方だ」

 俺の言葉に彼女の呼吸が一瞬止まった。

「君の愛していたサトルさんは、自分の復讐を望むような人だったのか?」

 そうして彼女を動揺させすぎないように、俺もできるだけ落ち着いた態度でいるようにする。

「君がする復讐を喜ぶような、最低な奴だったって言いたいのかよ」

「……」

「あの、こっから先はありきたりなんだけどさ……。俺はもし死んだら、残された家族や友達――まあ今はいないけど好きな人とか、そういう人たちには、自分の分まで幸せな人生を送ってほしいって思うんだ。それはサトルさんも同じだったと思うんだよ」

 言っていてあいつの顔が脳裏をよぎる。できれば思い出したくはなかった。

「きっと彼は君にこんなことしてほしくないって思っているはず。君にはもっと幸せでいてほしいって思っているはず。だからこそ俺はそんな君を助けたいんだ」

「……」

「復讐なんてダメだ。このままじゃ誰も救われない。……ねっ?」

 だんまりの彼女の肩を優しく掴む。

「でもあたしには……そうするしかないじゃん……」

 彼女は俺の手を力なくハタいた。

「あたしがアスカ高校に来たのは、サトルが生前に通っていた学校がここだったから……。サトルの生きていた場所に来れば、少しは考え方も変わると思ってた……」

 濡れた顔が、今の心境を物語ってくる。

「たしかに……アンタの言うこともわかるよ。……だけどもう、あたしは引き下がれないところまで来ちゃったんだよ。二度も人殺しに手をかけようとしたんだ……あたしにはそれしかないんだよ」

「まだそんなことを言うのかよ……」

 彼女はそこで初めて俺にすがってきた。

「だったら教えて! あたしはどうすればいいの? 人を殺そうとしたあたしがどうやってサトルに顔向けすればいいっていうのよ!?」

「それは……」

 唐突な問いに言葉が詰まってしまう。俺はなんて言い返したらいいかわからなくなってしまった。

 彼女がこの先どうすればいいのか? 彼女が幸せになれる方法なんてあるのか?

 悔しいことにその答えが出てこない。

「――ほら、やっぱり答えられない。もう無理なんだよ。一度手を染めた人間が幸せになんかなれっこないんだよ……」

 泣いたまま、彼女はこの現実から逃げるように俺の脇をすり抜けた。

 抵抗する様子がないことはわかるが、どうも様子がおかしい。

「待てよ。どうするつもりだ?」

「どうするって……今からサトルに会いに行くんだ……」

 俺の呼び止めもむなしく、彼女は影になっている部分の柵を自身の力ですり抜け、屋上の端に立ってこちらに振り向いた。

 そこにあるのは最低限の作り笑いだけ。

「そんな……よせ、やめるんだ!」

「まあ、でも感謝しておくよ。アンタのおかげで、最後に大切なことを思い出せた気がする……」

「やめてくれ! なんで、そうなるんだよ!」

「そうだよ……初めっからこうすればよかったんだ。ずっと独りにしてごめんね……」

 最後まで俺の言葉が届くことはなく、すべてを投げ打った彼女は両手を大きく広げて背中に身を任せ、

「今から行くね。サトル――」

 屋上から飛び降りた。

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