第2話

 橙色は、芒果マンゴーのような味がした。黄色は檸檬レモンで、その次に現れた緑色からは、爽やかな甜瓜メロンの香りが立った。その後に現れた青からは、肉桂にっきの匂いがして、それが舌に苦いような気がしたので、ギリスは一時挫けそうになったが、我慢して、神妙な顔をして、飴を舐め続けた。

 その眉間に皺のある、棒を喰らって歩く子供を、宮廷の通路を行くある者は、奇妙なものとしてちらりと見たが、おおよその者たちは、無視していた。

 ここでは誰もに役目があって、忙しかったし、暇があるのは休養をとるため、戦線から戻された英雄達ぐらいのもので、それにしたって派閥争いの、くだらぬ役目があった。ましてギリスが何者か、ようく知っている連中は、これには関わらぬのが一番賢いと、理解しているらしい。

 そこにいるなと、確かめる目で、さっと一瞥されはするが、ギリスに声をかける者は、ひとりもいなかった。

 その回廊を、飴を食いつつ、帳面と筆入れを脇に抱え、黙々とギリスは行った。

 もうすぐ飴を舐め終わる。イェズラムはどこに行ったろうかと、思案していた。

 養父デンは長老会にいることもあるし、古巣である派閥の部屋サロンにいることもある。もしも具合が良くなければ、自室で休んでいることもあるが、今朝はいつもよりずっと、顔色が良かった。だから、もしかすると、派閥の舎弟ジョットを引き連れて、うろうろ宮廷内の散歩でも、しているのではないかと思えた。

 そうなると、イェズを捕まえるのは、難しい。どこへ行くのか、決めずに歩いているらしいからだ。

 どこへ行くともなく、玉座のダロワージの周辺を彷徨う。そして、そこに漂う宮廷の空気を嗅いで、なにか途方もない問題はないか、警戒している。

 ただうろうろ散歩しているだけに見えるものの、養父デンはいつも、何かを探している。見つからぬほうがよいものを、魔物を探すお伽話の魔導師のように、宮廷を彷徨って追い回している。

 養父デンが出向かなくても、争乱の種や、用事のある者は、大抵、向こうの方からやってきた。

 養父デンは宮廷の重要人物で、大抵の物事には、どこかで関わり合いになっているせいだ。

 エル・イェズラム抜きにしては、進まぬ話が多いらしい。通りすがりに、偶然行き合ったような素振りで、養父デンに話しかけ、やがて素早く立ち去る者がいたら、それは何かしらの用件を、運んできた伝令なのだ。

 そのような者と、なにげない風に出会うためにも、養父デンは時々、用事もなく宮廷を彷徨っていなくてはならない。

 それともあれは、養父デンの散歩好きの性癖のために、自然と生まれたものなのか。

 歴史の博士は、エル・イェズラムが宮廷を散策するようになったのは、当代の族長が即位してからのことだと話していた。養父デンはまるで、族長の番犬いぬのように、常に辺りを彷徨っているのだと。

 そういう話をされて、ギリスはむっとした。養父デンは族長より偉いと信じていたからだった。

 もしも本当に、そういうつもりで養父デンが散歩をしているのなら、それは族長が、あまりに頼りないからだろう。玉座では、収まり返って、絵に描いたような主君の顔をしているが、あの族長は名君というような、そんな玉ではない。たまにこっそりイェズラムの部屋にきて、あれが嫌だ、これが嫌だ、あいつは腹に据えかねると、ぎゃあぎゃあ文句ばかり言っている。それをイェズが、よしよしと窘めてやって、それでやっと治世が保っているのだ。あの族長ひとりに任せておいては、玉座のダロワージが壊滅すると、心配だから、イェズラムはそれとなく、陰から助けてやっているに違いない。

 それが皆には分からないだけなのだ。あの耄碌もうろくした、歴史博士なんかには。

 うっすらと、腹に何か熱いものが溜まっているような不愉快さがあり、ギリスはもしや自分は、怒っているのではないかと思った。これが怒っているということではないのか。

 昔から、こんな気がすることはあったが、なんだか腹が変だ、胸もどきどきすると思っただけで、どうしていいやらぴんと来なかった。それでぼんやりしていたら、お前は馬鹿だと皆に笑われ、どうしていいやら、ますます困ったものだった。

 そんな時、やってもいいなら、今すぐ皆を殴り倒して、自慢の氷結魔法で、粉々に砕けるまで凍てつかせ、思い知らせてやりたいと、ふと考え至ったものだったが、そんなことをしてはいけないのだ。

 魔法は部族のために使うもので、英雄同士で傷つけ合ってはならない。たとえどんなに嫌なやつでも、それは部族の英雄で、いずれは英雄譚ダージに詠われる、民のための戦力となるのだ。同士討ちをして、部族に損失を与えてはならない。

 だから我慢するしかないなと、ぼんやり思って、いつもそれきりだった。

 他の者がするように、泣いたり喚いたり、そういった感情をどうやって持ったものか、ギリスには見当もつかなかったし、ぼんやり待っていても、そんな気分はやってこなかった。ただひたすら、頭がぼうっとする。吐き気がして、手足が痺れる。

 これは病気かと、思うだけ。

 だけど最近、ちょっと掴めてきた。俺は怒っているのではないか。俺にだって、怒ることぐらいは、あるんだと、ちょっと思う。ただそれを、どうやって外に出すのかが、よくわかんないだけで。

 そうこうしているうちに、ふと口中の味が変わったことに、ギリスは気付いた。

 甘酸っぱい、すももの味が、見る間に舌に拡がって、ギリスはにっこりとした。あとちょっとだなあと、満足して、口の中から飴を出してみると、それはすももの皮のような、深い色合いの青をしていた。これがたぶん藍色のつもりなんだろうから、次が最後の紫だ。

 講義の合間、あちこちの博士の部屋を彷徨う間に、ちびちび舐めて、とうとう次だ。

 早く葡萄の味にならないだろうかと、気が急いて、思わず噛みつきそうになるが、我慢我慢とギリスは自分に言い聞かせていた。

 我慢強さには、自信があった。生来、飽きっぽく、気は短いほうかもしれないが、我慢をしろと命じられれば、それを完遂できる自信はあった。

 実際この飴だって、噛まずにちゃんと舐めただろう。

 それに、にっこりとして、ギリスがまた飴玉を口に収めた時、ふと自分を射る視線があるのが、感じられた。

 ギリスはふと、そちらを見た。

 悪意のある目だった。

 通りかがりの、ギリスの知らぬ派閥の部屋サロンの、開け放たれた戸口から見える末席に、同じくらいの年格好の、少年が座っていた。

 額にはちょうど、今舐めている飴のような、暗い青の石を生やしており、目は金色がかった鳶色だった。

 それがあんまり、じっと恨むような顔で、こちらを見るので、ギリスはしばし足を止め、その目と見つめ合った。じっと合わせた凝視する視線を、自分のほうから逸らすのは、無礼でもあり、負けたような気もするからだ。

 あれは、誰だっけと、ギリスは考えた。

 誰だっけ。

 知っているような、気のする顔だ。

 そうしてしばらく考えて、ああ、と、ギリスは思わず呟いていた。

 知っている。

 ちょっと前まで、長老会の部屋にいた仲間だ。仲間と呼んでいいものかどうか。念動を使う。読心も少々やるとか。それで頭がいいとかで、射手としてどうかと、派閥の推薦で回されてきた奴で、そんなのはいくらでもいた。

 誠意がないといって、イェズラムが嫌い、先だって追いだしたのだ。

 その理由を養父デンに訊ねて、言いがかりではないかと、ギリスは思った。

 長老会の部屋で、イェズラムが皆にふんだんに菓子をやったとき、あいつはそれを政治に使った。まだまだ子供の、将来肩を並べるであろう、ほぼ同年代の小英雄たちのうち、自分の役に立ちそうな者にだけ、あいつは菓子を分けてやり、ぱっとしない連中には、やらずにおいた。

 その時はイェズラムは、それを褒めていたのだ。人脈の有用性や、賄賂の効果を理解している子だと言って、陰では褒めていた。だからギリスは、そっちが正解だったのかと、驚いたものだった。

 すでに自分は、派閥のみそっかすどもで、いつも飯やおやつにありつけず、飢えている、哀れなちびすけどもに、全部くれてやった後だったからだ。物欲しそうに菓子を見る連中が、可哀想に思えたからだし、人にくれてやると無くなるということに、あまり頭がいってなかった。

 イェズラムは、それを見て、政治を知らない馬鹿だと、思っただろうか。

 そう思って、肝を冷やしていたら、賄賂の上手い青い石のは、長老会の部屋サロンから、追い出されていた。

 そういう者は射手には向かないと、イェズラムは思ったらしい。

 それにあいつは、自分にとって都合が悪くなると、嘘をつく癖があるといって。どんなに優秀でも、嘘つきは、養父デンは嫌いなのだそうだ。本人には、悪気はなくても、それは心根の弱さだからだ。

 属する派閥で活躍し、部族の英雄になるがいいと言って、もう来なくてよいと釘をさしていた。

 その失態のせいで、あいつは末席まで落ちぶれたのだろう。なんとなく居づらくて、こんな戸口のあたりで、くすぶっている。

 それが俺のせいだっていうのか。

 なんでお前みたいな馬鹿がと、舐めていた薄ら馬鹿に、鈍色の絨毯の部屋で出し抜かれて、はらわたが煮えくりかえったのか。

 だからといって、同士討ちは禁じられている。それは英雄としての名を抹消される、死ぬより怖い掟のはずだ。かしこいあいつは、勿論それを、知っているだろう。

 しかし、腕っ節に任せて殴り合うことまでは、禁じられていない。特に子供のうちは。とっくみあいの喧嘩をしても、慎めと怒鳴られて引き分けられるだけで、相手を殴ることはできるのだ。それが死なない程度の、可愛い喧嘩であれば。

 一発殴ってやろうかと、そういう目で、向こうは見ていた。

 やんのか、こらと、ギリスは答えた。胸の内でだけ。向こうは読心術の、心得があるはずだからだ。相手が読む気で魔法の耳をそばだてていたら、聞こえたはずだ。心を鎧いもせず、相手に向かって呼びかける、この挑戦の声が。

 しかしそれは、他の者には聞こえないだろう。

 ギリスには何ら興味を抱いていない、派閥の大人たちには。

 飴を食いながら、薄笑いして、ギリスはまた呼びかけた。

 やんのか腰抜け。かかってこいよ。それとも自信ないのかよ。部屋を追い出された、負け犬だからな。お前の名前、なんだっけ。俺、忘れちゃったよ。馬鹿だからかな。それともお前の名前なんて、誰も憶えてないんじゃないの? 可哀想になあ。せいぜい、しっかり、派閥の部屋サロンで活躍してよ……。だけどさあ。そんな下座で、なにができんの。

 淡々と、そう挑発する内心の独白は、やはり相手に聞こえていたようだった。

 もはや我慢の限界と、すっくと立ち上がる向こうの、怒り狂った目が、じっとこちらを見ていた。

 ほんとに、なんだっけ。こいつの名前。あんまり興味がなさすぎて、ほんとに忘れちゃった。

 ぽかんと考えるギリスに向かって、殴りかかってくる相手の姿が見えた。

 どうしよう俺と、ギリスは飴を舐め舐め考えていた。どうしよう。喧嘩をしたら、怒られんのかな。もしイェズラムに見られたら、俺も怒られちゃうのかな。

 しかしもう、それを悩んでも今さらだった。相手の手が、すでに自分の襟首に、掴みかかっていたからだった。

 どうしようか。投げようか、それとも、殴ろうか。

 そんな一瞬の逡巡のせいだろうか。それとも、傷みがないせいで、殴られるのに構わないのが癖になっていて、それが災いしたのだろうか。

 ギリスは一発殴られた。頬を殴られる握り拳の感触がした。一瞬、くらりとくる衝撃が、頭骨を走り抜けたが、それは大した問題ではなかった。痛くないのだ。普段なら。

 しかしギリスは、その時受けた、予想していなかった衝撃に、自分が悲鳴をあげるのを聞いた。

 がりっと音がしたのだ。

 噛んじゃった。

 とっさに歯を食いしばったのと、殴られた衝撃で、飴を噛んじゃったのだ。しかも口の中に、血の味がした。

「やめろ! ちょっと待ってよ……」

 慌ててギリスは、相手の腕を振り払い、自分の口の中にあった飴玉の棒きれを、恐る恐る引っ張り出してみた。

 それにはくっきりと、真っ二つに割れそうなひびが入り、中にある紫色の核が見えていた。

 うわあ、どうしようと、ギリスは頭が真っ白になった。わざと噛んだんじゃないって言って、イェズは信じてくれるだろうか。一生懸命話せば、信じてくれるか。

 それを悩むと、さらに頭がくらくらして、胸がむかむかしてきた。ギリスは床に這いつくばって、自分が取り落とした筆入れを、慌てて拾い上げていた。

 相手が喧嘩をやめてくれるとは、到底思えなかったからだ。

 飴を口の中に入れたまま、殴り合ったら大変なことになる。落として踏まれでもしたら、飴なんてきっと粉々になってしまうだろうし、これは宮廷にはない飴なのだ。イェズが街から買ってきてくれたものだ。だから、宮廷のどこかで同じ物を手に入れて、それで誤魔化すわけにはいかない。子供は街にも出してもらえないし、代わりのを買いにもいけない。それにイェズラムは、嘘つきは嫌いなのだ。

 養父デンに嫌われて、放逐されたら、俺は生きていけない。

 そう思うと、ギリスの頭は、急に真っ白になり、耳の奥に早鐘を打つ熱い脈が感じられるだけで、まともなことは、なにも考えられなくなっていた。

「俺はエル・ハルマーンだ!」

 粟を食って飴を筆入れに仕舞っているギリスの前に立ちはだかって、青い石のが喚いていた。必死のようだった。なんでこいつは必死になってるんだろうと、ギリスはその理由を思い出せなかった。

 なんで俺はこいつと殴り合ってるんだっけ。びっくりして、忘れちゃったよ。

「おぼえとけ、薄ら馬鹿! お前なんかより、ずっとすごい英雄になってやるからな!!」

 ものすごい絶叫で、相手は宮廷人らしからぬ取り乱しぶりだった。小英雄の乱闘に、辺りの大人たちは、ぽかんとしていた。

「えっ……ごめん、なんの話?」

 床に這ったまま、ギリスは相手に問いただした。それにエル・ハルマーンは、真っ赤になって怒っていた。

「馬鹿にするな……この……」

 お互いまだ幼型の残る肌色で、相手の激怒は白蝋めいたはだを透かす紅潮になって見えた。

 どうしてそんなに怒れるんだろう。何かコツがあんのか。俺には未だかつて、そこまで腹が立ったことなんか、一度もないのに。

 あんぐりしたまま、ギリスは自分のすももの匂いのする息を嗅いで、相手の怒りのすごさに見ほれていた。それで、ぼんやりしていたせいだろうか。

 エル・ハルマーンなる英雄は、ギリスが握りしめていた筆入れを、宮廷風の絹の靴を履いた足で、思い切り蹴飛ばしてきた。組み木細工で精巧に組み立てられていたギリスの筆入れは、手をすり抜け、きりきりと舞いながら、螺鈿の装飾のある壁に激突して、ばらばらに砕けた。そして、中から転がり出てきた筆や、鉄筆とともに、真っ二つに割れた飴の半分が、ころころと転がっていくのを、ギリスは見つめた。

 頭が、くらっとした。

 あの筆入れも、もらったものだ。イェズラムのお土産だ。

 養父デンは買い物癖があるらしく、どこかへ行くと、必ず土産を買ってくる。それは宮廷では一般的な習慣であるが、わざわざ買ってきてくれたものを貰えると、ギリスは嬉しかった。養父デンにとって、自分も土産を買って帰ってやらねばならない頭数に入っているというのが。

 嬉しかったのに。

 俺の大事な宝物だったのに。

 イェズラムがくれた、お土産なのに。せっかく買ってきてくれた。俺のためにと、忙しいのに時間をとって、わざわざ選んでくれたのに。

 この野郎。

 そう思ったのが最後で、その次の瞬間には、ギリスは相手に飛びかかっていた。

 本格仕込みの、体術だった。こつさえ掴めば、相手が大の大人でも、腕の一本や二本は、へし折ってやれる。ギリスはそれに、熟練していた。筋がいいと、教える師父アザンも、舌を巻いていた。手加減のないギリスに、青あざだらけにされながら。

 しかし相手も伊達に長老会に招き入れられた顔ではなかった。難なくではないものの、ギリスの体術を逃れ、応戦してきた。

 おそらく、けだもののごとき大乱闘だった。悲鳴をあげる女官の声がして、おいこら、やめろと怒鳴る、石を持った兄貴分デンたちの声がした。

 それを無視して、ギリスはしたたかか殴り、相手も殴りかかってきた。

 まるで、これまで鈍色の絨毯の上で、積年溜まりに溜まっていた鬱憤や、軋轢が、今ここで突然の暴力になって、一気に噴出したかのようだった。

 殺す気かと、ギリスは内心、相手を罵った。相手もそう思っていたかもしれなかった。手加減なしに乱闘すると、さしもの兄貴分デンたちも、手がつけられないようで、割って入ろうとする者は誰もいなかった。

 たった一人を除いては。

「エル・ギリス」

 呆れたというか、怒っているというか、その中間の声だった。

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