第5話 肉塊

「ごらん、あれが『女』だよ」

指をさした先には巨大な肉塊。手も脚もないそれはそこから微動だにしないが、息はしているようだった。

地球上に存在する生物のひとつ、人間に性別はないが、大昔で言うところの『男』に分類されるらしい。

他の生物には『オス』や『メス』といった性別があるのだが、人間にはそういったものはない。何百年もの月日が経て、『女』はほぼ絶滅した。ほぼ、というのは、今目の前にある肉塊が『女』であるからだ。

「これも人間なんですか?」

私は肉塊を指さし尋ねる。先輩は頷き、その肉塊に触れた。肉塊は一瞬びくりとし、またただの呼吸を繰り返す。

「僕達はこの『女』から生まれる。命の源みたいなものさ」

「生きているんですか?」

先輩は、ああ、と答える。

先程から先輩は心ここに在らずといったような表情で、私の問いにも短くしか答えない。

その表情はまるで

「さあ、もう帰ろう」

先輩は踵を返し、来た道を戻る。

私は先輩を追いかけ、一瞬立ちどまり……

(あれ?)

「どうした?」

先輩が私を振り返る。私はなぜか止まった自分の足に疑問を抱きながら、いえ、と言い再度歩き始めた。

「先輩」

私は先輩の後ろを歩きながら、ずっと考えていたことを口にした。

「どうして『女』は、あの姿になることを望んだのですか?」

学校で読んだ本にはこう書いてあった。『女』はかつて自分たちと同じ姿であったと。しなやかな手も脚もあり、大きな瞳、艶やかな髪、美しい音色を放つ口があったと。

先輩は答えた。

「わからない」

一瞬はぐらかされたのかと思ったが、先輩は本当に知らないと言った。

「本にも、なににも書いてない。書いてないものは知りようがない。僕達は一生知ることは無いだろう、彼女がなぜあの姿になったのかを」

足が重い。私は先輩の話を聞きながらも、ずっと振り返りたい欲求に駆られていた。

振り返って、あの肉塊の元へ走っていきたい。あの肉塊のそばに居たい。どこか懐かしいような、落ち着くようなあの場所。

これでは、これではまるで私はあの肉塊に……

「みーんな、恋してしまうんだ」

それは先輩の言葉だった。

「恋、ですか?」

「正確には違うかもしれないが、私はそれを恋と呼んでいる。『男』は『女』がいないと生きていけない。生殖には両方の性が必要だからね。本能、と言われればそれまでだが、恋と呼ぶ方がロマンチックだろう?」

ふは、と吹き出してしまう。あの先輩の口から、ロマンチックという単語が聞けるとは。

しかし、それと同時に新しい疑問が浮かんだ。

「それなら、『女』も『男』がいないと生きていけないはず。どうして昔は何億人もいたはずの種類が、たったひとつの肉塊に……」

私は先程の先輩の答えを思い出し、すみませんと謝る。先輩は短く笑い、気にするなと言った。

「もう何百年も昔の話だ。誰も何があったのかは知らないさ。でも僕は」

先輩は言葉をとぎる。迷っているようだ。

少し口をもごもごと動かし、思い切ったように口を開いた。

「僕は、なにか嫌なことがあったんじゃないかと思うんだ」

「嫌なこと?」

先輩が何をそんなに躊躇っているのかわからないが、私は先輩の言葉を最後まで聞くことにした。

「この世界から目を背けたいと思うほどの嫌なこと。何も言いたくないと思うほどの嫌なこと。どこにも行きたくないと思うほどの嫌なこと。何にも触れたくないと思うほどの嫌なこと。それから、自分を我々『男』と同じ姿でいたくないと思うほどの嫌なことがあったのかもしれない。僕の個人的な考えでしか過ぎないよ。だけど、彼女からはいつも負の感情を感じるんだ。僕が彼女に触れるたび、彼女は僕を拒絶する。やめてくれと叫ぶ。

僕は悲しくなるよ。こんなにも彼女が好きなのに、彼女は心を開いてくれないんだ」

なんの話しだったろうか。先輩は笑う。

私は尋ねる。

「一体『女』は、何がそんなに嫌だったのでしょうか?」

「さあ」

先輩はたった一言そう答える。私は先輩にもっと尋ねたく、でもこれ以上なにを聞けばいいのか分からずにいると、先輩はこう言った。

「『女』に『男』の苦労は分からないし、『男』にも『女』の苦悩はわからないだろうよ。

この話は終わりにしよう。帰って晩御飯を作らなけりゃあ」

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