呆然
どすん、と音を立ててザジが倒れる。
「ザッ、ザジ……⁉︎」
グリステルは自分の蹴りの及ぼした想像以上の効果に取り乱した。
まさか一撃で首が飛んで死ぬなんて。それとも闇の妖魔であるザジには、光の使徒たる自分の攻撃は普通の何倍もの効果があるのか……?
だが、彼女のその考えは全て間違っていた。彼女の蹴りは彼女の体格からすれば普通の威力の蹴りだったし、ザジの首は飛んではいなかったし、ザジは死んではいなかった。
「う……」
小さく唸って、よろよろと立ち上がるザジ。だが、その顔はブタではない。青白い肌の色をした、人間の男の顔だ。彼は痛みを振り払うように顔を二度振ると、
「何しやがる」
と文句を言った。立派な髭。シワの深く刻まれた顔。隠居した元戦士といった雰囲気の中年の男の顔だった。
男は床に落ちたブタの顔の被り物を拾い上げて被ると、グリステルに彼女の服を放り投げ、格子扉に鍵を掛けて、木の扉をがたがたと鳴らして出て行った。
「え…………?」
グリステルは固まって、ぽかんと口を開けて一部始終を見ていたが、それ以外の言葉を紡ぐことができなかった。
「え…………?」
ぽつんと一人残された牢屋の中で、彼女はもう一度そう言った。
***
「教えてくれザジ! きみは人間か? 人間が魔物の振りをして私を捕らえる理由はなんだ? 密偵か? 密偵として魔族に入り込んでいて、それでも私を助けようとしてくれているのか?」
次に食事を持ってきたザジが姿を現した瞬間、グリステルは彼女の中に渦巻く疑問をザジに捲し立てた。
ザジは鉄格子の間から椀を差し入れて床に置くと、ブタのマスクを脱いでランプの灯りに素顔を晒した。
「おお……」
グリステルは歓喜した。
少なくとも、自分が魔物と二人きり、という状況ではなかったことに。
「やはり人間じゃないか。なぜもっと早く教えてくれなかった。さっきは済まなかった。きみが、服を洗ってくれているとも知らずに……私はてっきり、きみが下賤な魔族だと……」
「魔族だよ」
「……?」
「俺は正真正銘、あんたらが『魔族』と呼んでる一族さ」
「……何を、言ってる」
「オーク、ゴブリン、オーガ、トロール……色んな名前を付けてくれてるらしいな、あんたたちは。だがみんな俺と同じ。俺と同じさ。動物の革を被っているだけ。被っているものを脱げば、あんたたちと大差ない。つまり人間だ」
「嘘だ……出鱈目だ」
「俺たちの一族は元々皮膚が弱くてね。太陽に当たっただけで火傷のようになっちまう。だから北の森や洞窟の陽の光の少ない場所に、動物の革で作った日除けを身に付けて暮らしてるんだ。あんたが見た通りにな」
「そんな……そんなこと」
「あんたたちの王国の先先代の王様は政治がからっきしダメでな。大規模な治水事業に失敗し、干ばつと飢饉を起こした。そしてそれを、俺たち影の民の呪いのせいだと言い出しやがった」
「黙れ……」
「それまで暗黙に不可侵とされて来た領域を越えて、武装した王国の軍団が俺たちの森に攻め入って来た。必死に抵抗したが大勢殺された。俺たちはバラバラだった部族をまとめて協力しあい、抵抗せざるを得なかった。生き残るために」
「黙れ……」
「女も、子供も、年寄りも、生まれたばかりの赤ん坊さえ……闇の魔物だと言って無残に殺され、火の中に投げ込まれた。俺の妻と、子供も。俺は……何もできなかった」
「黙れ……」
「春光の騎士とか言ってたな。華やかなお名前だ。だがその名前をどうやって得た? 魔物の首の数か? それは魔物の首だったか? 権力者の企みであらぬ汚名を着せられた辺境の民の首だったんじゃないのか?」
「黙れと言っている!!!」
「魔物はどっちだ」
ザジはそう言うと、扉をがたがたと鳴らして部屋を出て行った。
悲鳴が上がった。
それは絶叫に変わった。
その絶叫は長く長く尾を引いて、やがてとめどない嗚咽に変わり、その嗚咽は押しては返す波のように一晩中牢屋の中にこだましていた。
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