第9話

 月並みな表現になるのだけれど、哀川明子は僕の救世主であった。


 その当時、僕はここの隣町である神崎市の公園で独りぽつんと座っていた。別に何か目的を持ってそこに座っていたのではない。強いて言えば親から大学から、そして現実から逃げていた。と言っても、親の住む町と大学のあったここの丁度間にある神崎市に逃げ込んだのだから、それもどこまで本気なのか図りかねる。

 しかし、それは今から見ればの話であって、当時は確かに自分は自由になりたいと思って住んでいた格安の下宿先を飛び出してきたのである。

 財布と家の鍵だけ持って飛び出した僕を待っている当然の帰結として、個人では到底消費することが困難であるような暇をもてあます羽目になった。それ故、僕はかなりいろいろなことに対して思惑を巡らすことができた。

 いや、思考してしまったのである。


 例えば、将来のこととか。小中高、それから大学の二年間までも無為に過ごしてしまった僕には、何をして生計を立てればよいのか皆目見当もつかない。選択肢がいろいろあるはずなのに、その全てがモノクロで色を無くした物に見えた。

 生涯の伴侶にいたっては、正直諦めていた。こんな何もない、死んだ魚どころか死んだ人のような目をしたやつのことなど好いてくれる人はいないように思われた。もし居たとしたら会ってみたいものである。絶対に結婚するから。

 可能性というものがあるらしい。それこそ若者には無限にも等しいそれがあるらしい。しかし、例えそれが僕にも当てはまったとして、その多岐にも及ぶ道のその全てが、巡り巡って複雑に絡み合って、でも、結局は闇の中へと誘う一本道のように思われて仕方が無かった。到達点がそんなものだと思えては、やる気などすぐに枯渇してしまう。

 ずぶずぶと思考の泥の中にはまっていった。どう頑張って将来の展望を明るいものと仮定しようともがいてみても、無為に生きた過去は足場にはならず、もがけばもがくほど僕は闇の中に呑まれていく。


 僕自身、この思考はやばいと気づいていた。今すぐにでも止めなければ、僕は自分自身の中核をなしているアイデンティティが破壊されてしまうような気がしたのだ。

 そんな折りであった、明子が僕の目の前に現れたのは。


「久しぶりだね、金腐川くん。……って、どうしたのその腐った人のような目は!?」


 出てきた瞬間からさんざんな言葉を浴びせてきた。死んだ人の目というのは言われたことがあったが、よもやそれを超えてくる形容が出てくるとは思わなかった。どうやら、この時間は死んでいた僕を腐敗させるに足るものであったらしい。


「……腐った人の目とは、言い得て妙な表現ですね、先輩」


 はははと先輩を真似て笑ってみたけれど、出てきた声は絞り出したかのような乾いた笑いだった。彼女はそんな僕の横に座った。あまり大きなベンチではないため、かなり近くに彼女を感じた。


「本当にどうしたの? 何か悩み事? 私でよかったら何でも聞くよ?」


 勿論、聞くだけだけどね。と彼女は釘をさした。仮に彼女が他の誰かであったら、僕はこの悩みを誰かに打ち明けていただろうか? 僕はその質問に対して絶対にそれはないと断言できる。彼女と話してからの四ヶ月間というわずかな期間で、僕の中で彼女は特別な地位にいたのだ。

 今思えば、これこそが恋心と言われる物であるが、当時の僕は、誰とも付き合ったことはなく、もっと言えば、好きになったとしても同学年の子だったから、年上に対して抱くこの感情をもてあますばかりで、名前をつけることができなかった。

 しかし、なにぶんこのことを包み隠さず話すというのは、どうにも恥ずかしい。明確な意思を持たず生きていた僕が、ふとそのことに気づいて絶望しているだけなのだ。劇的な何かがあったというわけではないのだ。それ故、言葉にすることは困難を極めた。


「先輩は何のために生きているんですか……?」


 ようやく、出た一言はそんなものであった。要約し、簡略にまとめてしまったせいで、かなり啓蒙的で自由度の高い難しい質問をしてしまった。それは大学生という、まだまだ人生始まったばかりの若い人に訊いていいものではない。

 しかし、彼女はいともたやすくこう言ったのである。


「そんなの、好きなもののためだよ。……それ以外にない」


 恥ずかしかったのだろうか、僕を視界に入れないようにして彼女は言った。僕はそんな彼女につられて同じようにその虚空を見た。鈍色の空に、一瞬だけ陽の光が漏れた。その光が僕達を照らしたかどうか分からないうちに、かなり傾いていた太陽は再び雲に呑まれてしまった。

 しばらく、僕達は無言で雲の流れを見ていた。どんよりと重たそうなそれは、その見た目に反してかなり速く移動していた。


「あと、遠慮しているようだけど、この先輩を頼っていいからね? お前が何かを耐えしのいでることなんて一目瞭然なんだから」


 彼女は空から視線を外して、僕の方を見た。僕もそれにつられて、見つめ合うような体勢になる。視線の先の彼女の黒い瞳から目を離せない。艶々と輝き、僕なんかの中途半端な嘘などすぐさま見透かしてしまいそうな瞳。その奥に映る僕ははたして、情けなく涙を流した。

 それと供に、僕を今まで支えていた枷が外れる。堰を切ったように言葉がつらつらと出てきた。僕が自分自身の悪口を言う度、彼女は諭すか怒った。思考の泥の中でもがき続けていたことが馬鹿みたいに、みるみるうちに僕は彼女に引き上げられていった。永遠に溢れて枯渇することなど無いと思われた不安や絶望が、気がついた時には全て消えていた。

 やがて、僕の口が閉じ、ただただ涙だけが溢れた。それは、彼女に会えばすぐに氷解してしまうようなものに必死になっていた僕の最後の抵抗であった。自分の悩みはそんなに浅くはなく、もっと高尚なものなのだと醜い主張をしているに過ぎない。

 要するに、悔しかったのだ。男として自分の器のでかさを示すどころか、彼女にとっては自分の器などかなり浅はかなものに過ぎないとまじまじと見せられたことが、ひたすら悔しかった。

 そこまでしてから、どうしてこんな思いをしているのだろうと、僕は思った。僕と彼女の関係は言ってしまえば、先輩後輩の関係である。だから、一年人生経験の少ない僕が、格好はさておき、悩みを打ち明けるくらいならこんな思いはしないはずである。恥ずかしいとは思っても、悔しいだなんて。

 これじゃまるで、僕が彼女と対等な立場にいたいみたいじゃないか。そこまで考えてから、僕は降って湧いたみたいに出てきたそれを慌てて否定した。そんなのは、一時の気の迷いだと思いこもうとした。けれども、それは叶わない。


 涙を拭いて、彼女の顔を見た。僕の顔が真っ赤に染まったのは、恥ずかしかっただけではないだろう。ましてや、今や沈みかけている夕暮れの淡い光のせいではない。優しそうに僕をなだめる表情が、幻惑だと逃げようとしていた僕の心を掴んだ。

 もはや僕には逃げ道などなかった。残された道はただ一つである。夕暮れと同じように、茜色に照らされた道しかない。僕は、自分の感情の波に逆らうことなく、彼女に思いの丈をぶつけることにした。

 何の計画性もなく、思いつきのように突然、しかも、直前まで号泣しているという、流れを挙げれば挙げる程成功しないように思われたシチュエーションで僕は、一世一代の告白をした。


 思えば、こんな恥ずべき状況で告白しなければよかったのだ。日を改めれば、これ以上に条件が整ったシチュエーションなどそれほど腐るほどあったに違いない。

 名は体を表す――全くその通りだと僕は思う。

 僕は道が一つになった時に、その場で立ち止まることをよしとせず、進んだのだから。

 これが功を奏したのか分からない。けれども、そんなことは些細なことだ。いくら状況を整えたところで、断られてしまえばそれまでだし、逆に杜撰な状況下でも告白が成功することもあるのだ。


 はたして。


「え? この状況で告るの!?」


 彼女は目を丸くして驚いた。それから、何かしらのドッキリを警戒するように、左右を見渡したが、すぐに、僕にはそんな人脈がないと思い至ったのだろう。抑えきれないといったように、彼女は笑い声を漏らした。


「あははは……っく。駄目! 可笑しすぎてすぎて、もう駄目!」


 人の一生懸命な告白を笑うとはと思わなくもなかったけれど、気がつけば僕も彼女につられて笑ってしまっていた。しばらく、そう言って笑い続けた後、夜の帳が降りてしまいそうな――いわゆる黄昏時に彼女はこう言った。


「私でよければ喜んで。好きだよ、金腐川くん」

「僕もです、哀川さん」


 僕の回想であるという都合上、僕の告白および彼女への受け答えはかなりしっかりとした、かつ簡潔なものになっているが、実際は予想外の出来事に困惑したり、そもそも泣いていると言うこともあって、もう少しぐちゃぐちゃであることをここに明記しておこう。

 しかし、この瞬間、闇の中に消えていたはずの選択肢に光が射したような気がした。茜色の光が僕の将来を確かに照らしている。それは、朝陽のように鋭くなく、昼間のように全てを覆い隠すようなものではない。しかしながら、夕日のように優しく僕を包み込んでくれたのだ。

 この時、僕は何のために生きるのかその理由を手に入れた。答はもうでている。否、彼女が僕を導いてくれたのだ。


 好きな者のために生きる。――つまりはそういうことだった。


 ともあれ、僕達はこうして付き合い始めた。付き合い始めるにつれ、互いの呼び方から敬称が消え、その後は名前で呼び合うことになった。流石に、サークル内では弄られることを警戒して、相変わらず仲のいい先輩後輩という関係のように振る舞った。

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