第六話 幸せは手から零れ落ちていく


 夕食を終えてから、ビールと酎ハイで簡単な酒盛りを終えて。零が風呂に入っている間、俺はやることもなくてテレビのバラエティをぼんやりと見ながら眠気と戦っていた、その時だった。


「……何だ?」


 何だか、外が騒がしい。大勢の忙しない足音や声が、何重にも行きかっている。それだけなら、まだ無視しようと思えたのだが。


「このサイレン……救急車と、パトカーか」


 徐々に大きくなるサイレンが、すぐ近くで止まった。救急車だけならばまだしも、パトカーまで来ているだなんて。これが示すのは、急病人が出たというだけではない。

 ……嫌な予感がする。


「零! 俺、ちょっと出てくる!」


 風呂場に居る零にそれだけ言って、俺は部屋から出て外へと向かった。エレベーターは相変わらずのろくて、辛抱ならずに階段を駆け下りた。六階分の階段はかなりキツくて若干後悔したが、俺は止まれなかった。

 くそう、相当運動不足だな。鉛のように重く、きりきりと痛む脇腹に辟易しながらもなんとかエントランスまで降りた。


 そして、見てしまった。


「……か、川原さん?」


 パトカーの赤いランプが、夜闇をぐるぐると搔き回している。マンションや近所の住民だろうか、老若男女様々な人達が集まっては野次馬の列を作っている。

 そんな人混みを掻き分けて、俺は最前列に出て彼女を見つけた。見間違いかとも思ったが、彼女だ。川原なずなだ。背が高くガタイの良い警察官二人に挟まれて、ふらふらと歩いている。彼女の傍に、なこの姿は無い。

 彼女が何をしたのか、もうわかってしまった。後ろで中年女性のグループが話していることを聞いてしまったから。


「ひどいわぁ、自分の娘を殺すだなんて」

「前から虐待していたんでしょう? 四階の田村さんが、前から子供の泣き声が凄かったって言ってたわぁ」

「包丁で刺されて、血だらけで死んでたなんて……かわいそうに、怖かったでしょうに」


 声を顰めてるつもりだろうが、俺の元まで話し声は届いた。やはり、そうか。額の痣はそのせいだった。なこは、虐待を受けていたのだ。

 母親である、川原なずなに。


「川原さん!!」


 俺は思わず彼女の名前を叫んだ。茶色の髪に、頬。そして服と、全身をべったりと赤黒く濡らし、川原なずなはうつろな表情で歩く。だが、俺の声が聞こえたのだろう。その場に立ち止まると、顔を上げて声の出所を探す。

 そして、目が合った。


「川原さん……誰よりも真面目だったきみが、どうして」

「……あなた、誰?」

「俺だよ! 薮木賢悟、中学生の時に零と一緒に同じクラスだった」


 覚えてる? らしくないと思いながらも、俺は叫ぶのを止めなかった。十五年も前のことだ、忘れられていても仕方がない。

 それでも構わなかった。川原なずなは俺や零とは違う。ちゃんとした人だった。模範的で、成績も良くて。俺や零では叶わなかった生き方が出来る人なのに。

 それなのに、どうして『普通』から外れてしまったのか。幸せになれなかったのか。


「……からかわないでくれる」

「え?」


 凍てつくような、冷たい声。それ程大きくはなかったが、先を促す警察官も、野次馬も一様に口を噤んだ。

 ただ、一人を除いて。


「ケーゴ、何やってんの!?」


 いつの間に来ていたのか、零が俺の腕を掴んで止めに入ろうとした。急いで来てくれたのだろう、Tシャツとジャージに着替えてはいるが、髪からはまだ水滴がぽたぽたと落ちている。

 今までに見たことがないような、必死な表情。どうして、零がそんな顔をするのだろう。


「鷲津くんまで……ちょっと顔立ちが似てるからって、からかわないでよ。薮木くんがこんなところに居るわけないじゃない」

「からかうだなんて、俺は本当に――」

「うるさい!! 薮木くんはもう、どこにも居ないのよ!」


 目を血走らせ、噛み付くように川原が吠える。そして、隣の警察官が止める間もなく、彼女は叫んだ。

 俺が求めていた答えを。この星坂が、俺の知らない……否、


「だって……だって、死んじゃったじゃない。薮木くんは、中学生の時に自殺しちゃったじゃない!!」



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