結局のところ、きみが居なくても世界は何も変わらない

風嵐むげん

第一話 目が覚めたらそこは土管の中だった

 人が一人消えたところで、世界は何も変わらない。迫りくるトラックに思ったのは、それだけ。瞬きする暇も与えられないまま、恐ろしい程の衝撃に身体ごと意識が吹っ飛んで。


 目が覚めたら、俺は土管の中に居た。しかも、仰向けで。


「……自分で言っておいて何だけど、完全に意味不明だ」


 口に出した独り言が円筒形の壁にぶつかって、崩れてごちゃごちゃになって返ってくる。どんよりと濁った空気と、起き上がれない程の狭さ。とにかく、ここから出よう。身を捩りながら何とかうつ伏せになると、俺はざらついた円筒の中を這いずり外へと向かう。

 どうしてここがすぐに土管の中だとわかったのか。我ながら不思議だが、きっと子供の頃に遊んでいた公園に土管があったからだ。もう二十年近く前の記憶だが、頭よりも身体がよく覚えていた。懐かしいような、そうでもないような。複雑な感情に苦笑しながら、俺は何とか外へと這い出た。

 じりじりと肌を焼く日差しと、むわっと湿った熱気。視界が焼ける程の陽光に、思わず目を手で庇うように翳しながら立ち上がる。癖の強い髪を乱す風が、首から下げたままの『薮木やぶき賢悟けんご』と印字された名札を揺らした。


「うーん、それにしても……ここどこだ? 酒なんか飲んでねぇし、飲んでもこんな前後不覚になることなんか今まで一回も無かった……の、に」


 おかしい。俺は目の前に広がる景色に愕然とした。トラックに撥ねられたのは、残業を終えた帰宅途中……夜中の十時頃だった。いや、気を失っていたのだから時間が昼まで経過していてもおかしくはないか。

 でも、この場所に自分が居るのはおかしい。埃塗れの記憶を感情が揺さぶるかのような感覚。懐かしい。


 懐かしい、けど。


「な、なんで……ここ、『土管公園』だよな」


 誰も居ない、だだっ広いだけの敷地。知っている、覚えている。ここは、俺が子供の頃によく遊んでいた公園だった。土管公園……正式には、星坂ほしざか第一公園だっただろうか。

 星坂第一公園は、住宅街の真ん中に存在する小さな公園だ。遊具はブランコと鉄棒、砂場と滑り台、そしてこの土管である。この辺りには似たような公園がいくつもあるし、もっと遊具が充実していて広い公園もある。だが、土管が置かれているのはここだけ。だから、皆はこの公園を土管公園と呼んでいるのだ。

 小学校中学年くらいまでは俺もここで遊んでいた。記憶と違うのは、隅にあった公衆電話のボックスが無くなっていることくらいだろうか。いや待て、そんなことはどうでも良い。


「俺、どうしてここに……東京の、筈じゃ」


 間違いない。俺は地元のN県N市星坂町から大学進学時に上京し、そのまま東京で就職して暮らしている。実はどこかの飲み屋で泥酔していただけだとしても、新幹線で二時間かかるこの場所に居るなんて、どう考えてもあり得ない。


「どうなってるんだよ……」


 公園には誰も居ない。砂と埃だらけになったスーツを手で軽く払ってから、自分の持ち物を確認してみる。持っていた鞄が無い。あの中には財布やノートパソコンが入っていたのに。

 名札以外にあるのは、左手首につけたままの腕時計。十時十五分を示した状態で止まっている。文字盤が罅割れているところを見ると、壊れてしまったのだろう。それから、上着のポケットに入れていたスマートフォン。

 あとは……まあ、良いか。左手薬指に嵌まる銀色から目を背けスマホを手にすると、いつものように起動させてみる。丈夫さが売りの機種であるからか、見る限りは破損したようには見えない。


「……圏外か。一応動くみたいだけど、こっちも壊れたか」


 ロック画面からホームへと移行するも、表示は圏外。もはや白旗を振りたくなるほどの悲惨な状況だが、一つだけ幸運なことがある。


「意味不明すぎるけど、スマホも壊れて財布も失くしたとなると……実家に帰るしかないな」


 スマホを再びポケットに押し込むと、俺は公園の外へと出るために歩き始めた。星坂は海沿いにある、それ程大きくはない町だ。東京とは比べものにならないくらい人が少なく静かで、言ってしまえば寂れている。

 誰とも会わないまま、俺は見慣れた道を歩いて実家へと辿り着いた。両親はどちらも定年に近いが、まだまだ元気で二人とも働いている。母親はスーパーのパートなので、昼を過ぎた今の時間ならきっと家に居るだろう。連絡も入れずに急に帰ってきて、何だかんだうるさく言われるのが目に浮かぶが、今は手段を選んでいる余裕が無い。小言くらいは素直に受け入れよう。

 そう……楽観視していたのだが。

 

「……え、あれ?」


 一瞬、道を途中で間違えたのかと思った。少し戻り、改めて実家への道を辿る。一歩一歩、間違えないように。

 子供の頃に、たわわな実をこっそりくすねて、苦くて渋い果肉に悶えた因縁の柿の木。いつも何かしらの野菜や花が育っている家庭菜園。どれもが俺の記憶の通り、何の間違いもなくそこにあった。

 でも、違う。


「ここ……俺の、家じゃ――」

「あの、うちに何か用ですか?」


 再びそこに戻って呆然と立ち尽くしていると、庭に居た老婆に声を掛けられてしまった。薄い水色のシャツに、茶色のスカート。白いエプロンを身に着けた、とても小柄なお婆さんだ。庭の手入れでもしていたのだろう、帽子と土で汚れた軍手を着けている。

 白髪の目立つ髪を一つに纏め、しわくちゃな顔面に人が良さそうな笑顔。知らない。こんな人は知らない。俺は祖父母と一緒の家で暮らしたことは無いし、父方、母方共に高校に進学する前に他界している。


 知らない、こんな人。


「う、うちって……あの、ここ。薮木っていう人が住んでいるのでは?」


 恐る恐る、お婆さんに尋ねてみる。おかしい。俺の実家は瓦屋根の古臭い二階建ての筈。

 はて。お婆さんが不思議そうに首を傾げる。


「薮木さん、ですか? いいえ。そんな名前の人はここには居ないし、近所にも居ないと思います。ここはわたしの家で、うちは竹野ですが」

「そ、そんな」


 馬鹿な! 思わずそう喚き立てようとしたが、何とか堪えた。お婆さんが言っていることは、多分本当だ。だって、表札にローマ字で『TAKENO』と書いてあるし。

 そもそも、家自体が違う。


「ああ、でも最近……歳のせいか、物忘れが激しくて。息子に聞いてみましょうか。丁度息子があなたより、少し年上くらいでね? わたし、息子の家族と一緒に住んでるんですよ。二世帯同居ってやつでね、優しいんだか心配性なんだか」


 にこにこと、幸せそうにお婆さんが語る。そう、目の前に立つの家はまだ真新しい。玄関の脇には子供用の自転車が置いてあるし。

 もう、認めるしかない。行き場のない感情を押し潰すように、両手を強く握り締めて。俺はそこから逃げ出した。

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