第5話

 三階の廊下には、ガタンゴトンと電車の音が響いていました。この真上には大将軍駅のホームがあります。 本社ビルは特徴的な構造となっており、ビルの三・四階を真横に貫くようにして線路と駅があるのです。ですから、電車が走れば、レールジョイントを車輪が通過する音が響きます。


 ですが、今聞こえている音が、去りゆく電車の音なのか、わたしの心臓の音なのか、今のわたしには判然としませんでした。


 わたしがやろうとしていることは、規則をいくつか曲げなければ正当化できません。普通に解釈すれば、就業規則第56条第3項第2号の懲戒免職事由に該当します。まさか、入社4ヶ月目にして、追い出し部屋の夢を叶えることなくクビになろうとは。分厚いチューブファイルを、ぎゅっと抱きしめます。ええ、分かってます。ただの気休めですよ。


 ただ、弊社の運転取扱基準規程第2条第1項第1号にはこうあります。


――安全の確保は、輸送の生命である。


ちなみに、その次にはこうあります。


―― 規程の遵守は、安全の基礎である。


 ああ、やっぱ正当化するのは無理っぽいですね。良い弁護士探さなきゃ。



『サーバー室』の室名札を一瞥し、わたしはIDカードをカードリーダーに押し当てました。


 ピピッと音が鳴り、モーター音とともに電気錠が解錠します。引き戸を開くと、冷たい風がわたしの頬を撫でました。ここから先はサーバー室。真っ白な光の中にわたしは一歩踏み入れました。


 運用課の方がわたしに気付きました。


「あ、システムの新人さん?」

「はい、祝園です。ウィルスの件で、緊急作業です」

「ああ、ご苦労様」


 これだけでご納得いただけたようで、内心ほっとしました。さすがにここで課長の名前を出すのは気が引けますからね。


「では、すみません」


 ここは、冷静に、冷静に。


「のわっ!」


 免震床の段差に足を引っ掛け、すっ転んでしまいました。


 いてててて……。


 運用課の方に見られてしまったでしょうか。後ろを振り返る勇気はちょっとありません。


 チューブファイルの資料を読みながら奥へと進みます。垂水先輩が作成したというこの資料は、とてもわかりやすく記述が整理されています。驚きました。あの人、ただの鉄ヲタではなかったんですね。そのおかげで、特に迷うことなく、基幹ルーターのラックに到着しました。


「基幹ルーター、基幹ルーター…… VRRP構成で……っと」

「OpenFlowのコントローラーっと」


 何という変態構成。OpenFlowみたいな最新機器にお金を使うぐらいなら、パソコンを買い換えなさいと思うのはわたしだけでしょうか。いや、これも動く限り使い潰す文化だからこそ、いざ壊れたときには最新鋭過ぎる機器を導入して技術の陳腐化に抗うのでしょうね。

 LANケーブルを指で辿り、引っこ抜かねばならないケーブルを特定していきます。


 と、構内PHSが鳴りました。

「はい祝園」

『な、なにをしてるんだ』

 それは、CIOの狼狽した声でした。

「これからインターネットへの接続を完全に切断する作業を行います」

『ば、馬鹿、やめろ!』

「これは時間の問題です。一台でも侵入を許した時点でアウトなんですよ。今となっては後の祭り。それで、もし個人情報が流出したら誰が責任を?」

「あなたの恐れているお偉方の面々ですか?」

『俺とシステム課に決まっているだろ!』

「そういうことです。どのみち同じではー?」

『君だけの責任にされるぞ? とにかく、今すぐやめなさい!』

「お偉方の皆さんにお伝え下さい。『モッタイナイ、その判断が、命取り☆』」


 プチっ、プチっ、プチっ。

 気持ちの良い音とともに引き抜かれたLANケーブル達は、わたしの手の中でぷらりとうなだれました。


「インターネット接続を落としました☆」

『ぐあー後で絞られる……モルサァ』


 こうして、最悪の事態を免れたのです。まさに、突破される寸前でした。

 正しくアップデートを適用していた新しいOSのPCやサーバーだけが無事だったという事実は、役員を説得する材料になったようです。ようやくOS入替の予算が下りました。ま、わたし達は、その作業で徹夜続きになりましたけどね……。いやはや、何と言うべきか。


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