8月8日。僕は西に傾きかけた太陽を背にして、汗をダラダラとかきながら、自転車をこいでいた。


 今日は友達とプールに行っていたので、ベーグルに向かうのがだいぶ遅くなってしまっている。早く行かないと、そろそろ紺野さんが帰ってしまう時間だ。


 カタカタと籠の中で弾む本を下り坂をさしかかるたびに手でおさえ、紺野さんが読書をしている姿を一目見る、ただそれだけのために、泳ぎ疲れた体に鞭打って、喫茶店を目指す。


 人通りの少ない商店街を抜けると、喫茶店『ベーグル』が見えてくる。


 僕はいつものように自転車を店先に止めて、店内に入った。


 店内を見回すと、今日もやっぱり、読書をしている紺野さんの姿があった。

 不意に顔を上げた紺野さんと目が合い、軽く会釈する。すると今日も彼女も頰を赤らめて、軽く会釈を返してくれた。


 それだけで僕はもう、幸せな気分になる。


 珍しくカウンターで店番をしていたマスターが、そんな僕の姿を見てニヤニヤと笑い、しかし茶化したりはせずに、気さくに僕に言った。


「いらっしゃい、水野くん。ご注文は何にする?」


 ゲーム廃人であるマスターは、こういう大人にはなっちゃダメだよ、と自分で言うほどダメな人だけど、こういうところは本当に尊敬できる、と僕は思っている。


「えっと・・・じゃあアイスティーをひとつ。」


 僕がそう言うと、マスターが不満げな顔をして言った。


「いつもそれじゃん。たまには固形物も頼んでよ。いつも長いこといるんだからさ。」


 熱を上げていたFPSゲームのベータ期間が昨日で終了したマスターは、今日は仕事をする気満々のようだ。

 ちなみにゲームで忙しいときのマスターは、手のかかる料理を注文すると本当に嫌そうな顔になる。


「えっと・・・じゃあベーグルもつけてください。」


 僕がメニューも見ずにそういうと、


「ベーグル?そんなおしゃれな食べ物、ウチにはないよ。」


 と、さも当然のようにマスターは言った。


「え?ないんですか・・・喫茶店『ベーグル』なのに?それにメニューで見た気がするんですけど。」


「いやまあ、前はあったんだけどさ。あれ作るのめんどくさいんだよね。パン系ならホットケーキかトーストにしてよ。楽だし。」


「ええ・・・。」


 僕たちがそんなやりとりをしていると、


「ふふっ。」


 と、控えめな笑い声が店内に響いた。紺野さんが笑った声だ。


 あ、今日読んでいる本はコメディなのかな。


 そう思った僕はタイトルを盗み見ようと、紺野さんの方へと目を向ける。


 すると、こっちを見ていたらしい紺野さんと目が合った。

 僕と目が合った紺野さんは、途端に顔を真っ赤にして、目線を本へと戻す。

 本当に恥ずかしがり屋なんだなあ、と、僕は彼女のことを改めて可愛いらしく思う。


 マスターにトーストとアイスティーを頼んだ僕は、今日も紺野さんとはだいぶ離れていて、かつ、横顔を盗み見ても違和感のない席を選んで腰かける。


 ちなみに本のタイトルには『死神の温度』と書かれていた。死神なのにコメディなのか。でも、コメディだったら、僕にも読めそうだ。帰りにでも買って行こう。


 そんなことを僕は思うのだった。

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