第16話 陽織とお弁当協定

「お待たせ」

 そう言って弁当を受け取り、蓋を開けようとした時、重々しい空気が風に乗って漂ってきた。

 その風上を見ると、霧裂さんがどうやら他のクラスメイトと揉めているようだった。普段からおっとりしていて真面目で人当たりが良い子なのに、珍しいなと思ったが、なるほど一方的に言われているだけっぽい。

 相手は霧裂さんと仲良しの薄拂すすきはらさんだ。

 いつも仲良さそうなのにこれまた珍しい。

「陽織、それって差別よね? その差別の所為でご両親がどれほどご苦労なさっているか、解ってるの?」

 差別か。なんか最近車両で同じような事を俺が言っていたなあ。

季司花きしかちゃんは、どうして解ってくれないの。季司花ちゃんなら解ってくれると思ったのに」

 震える声で必死に訴える霧裂さん。その声には生命の危機が迫っているような切実さがあった。グループが違うとはいえ数メートルの距離なので、彼女の目に涙が浮かんでいるのが解った。心なしか、肩も震えている。昨日ほどではないが、それでも彼女の怯えきった内心を連想させるには十分な震えだった。

 差別、ご両親、涙、震える肩。

 何もかも思い至ったわけではないが、なんとなく霧裂さんの心境は窺える。とにかく家庭内の事情を薄拂さんに打ち明けたら、それが彼女の気に入るものではなくて批判を受けていると言ったところだろう。

「泣いても、悪い事は許される事ではないわ」

 腕を組んで睨みつける薄拂さん。

「そうだ」

「そうだ」

 薄拂さんの取り巻きの女子二人が国会議員の様な合いの手を入れる。

 そのうちの一人が霧裂さんの弁当箱を叩き落とし、具材がまき散らされた。

 どうしてここまでの事をされなければいけないのか、皆目見当もつかない。俺は知らずの内に立ち上がり、弁当を拾っていた。拾いながら、霧裂さんに問い掛けた。

「具合悪そうだね。保健室行く?」

 霧裂さんは目を見開いた。

「ちょ、何よアンタ。って言うか誰よ」

「比々色」

「比々色……? え? あれ? こんな顔だったっけ?」

「失礼な人だな。クラスメイトの顔と名前くらい一致させておいてくれよ」

 俺はため息を吐きだした。髪型変わるとこんなに違うものなのか。

 弁当箱を霧裂さんに渡す。

「はいこれ。もう落ちちゃったから食べない方がいいけど。掃除は後で俺がやっておくよ。とにかく保健室行こう」

 霧裂さんはしかし、視線を彷徨わせる。俺と薄拂さんを行ったり来たりだ。

「ちょっと待ちなさい! 私の話はまだ終わってないの」

「既に終結しているけど?」

「どこがよ!? って言うかアンタこの話聞いていたの?」

「聞いてないよ。ただもう終わってるって事だけは解る」

「どうしてよ」

「これから霧裂さんが何を語ろうとも、薄拂さん達が三人がかりで難詰して意見を封殺してお終いだから。つまり議論の余地なし。よって終結。以上」

 一方的に言って手をパンと叩いた。

 誰の目から見ても途中でしゃしゃり出てきて勝手に中断させた俺が悪人に映るだろう。それでいい。その思い込みがあれば、立て直しが出来る。薄拂さんの頭に上っている血が下りた時、きっと彼女から霧裂さんに話しかける。だって二人が仲が良いのを俺は見ている。教室で話しているのを良く見かける。だから復縁できる。でも、このまま霧裂さんが皆に囲まれて難詰され続けたら、復縁の前に彼女の精神が折れるだろう。信じた友達に打ち明けた話を真っ向から否定されると言う辛さを既に味わっているのに。耐えられるわけがないのだ。

「その子の事を庇うと言うなら、アンタも差別をしたという事になるわ」

「差別? 誰を?」

「陽織は自分の弟が障碍者だからって嫌って、その所為でご両親が離婚したのよ。陽織と弟が別々で暮らせるようにって、家族にまで気を遣わせて」

 俺は霧裂さんを見る。霧裂さんはその言葉に頷くでも横に振るでもなくただ俯いている。彼女の手はスカートの裾を掴んでいた。まるで、内側に留めてある悲鳴が外に漏れ出ないように、一生懸命押さえている様に見えた。その時俺の心臓はその手に掴まれたのだ。だから彼女の悲鳴が聞こえた。そう感じた。

「薄拂さんって、さ。霧裂さんの友達だよね? なんで解んないのかな。彼女が嫌うという事は、それ相応の理由があったからに決まっているじゃないか。弟さんだってついさっき障碍者になったわけでもあるまいに。今更障碍者だからと言うだけで嫌う訳がない」

 俺は何のソースもないのに言い切った。いや、ソースならある。昨日喋った。彼女は理由なく人を嫌う様な人間ではない。それはもう目を見て話をしただけで十分に伝わるものなのだ。彼女の持つ善性は。

 言い切られた事により、薄拂さんは一瞬引いたが、すぐに前に出る。

「ど、どれほどの理由があるにせよ、ダメよ! 障碍者を差別するのは」

 差別って言葉の使い方が、自分と違うとこんなにも違和感があるものなんだな。頭をガリッと掻いて天を仰ぐ。

「俺が薄拂さんを殴ったら、怒るよね?」

「当たり前でしょう!」

「じゃあ障碍者が殴ったら?」

「怒らないわよ。仕方ない事だもの。彼等だって好きでそうしているわけじゃあない」

「改めて聞くけど、なんで俺が殴ったら怒るの?」

「何馬鹿な事聞いているの? そんなの貴方は障碍者じゃないからに決まっているわ」

「それはつまり、障碍者じゃなければ、まともな判断が出来るべきだって事でいい?」

「そうよ」

「つまり健常者は常にまともでないといけないって事でいい?」

「そうよ」

「じゃあ障碍者はまともじゃあないって事でいい?」

「そ、それは……違うでしょ。それとこれとは。言葉をすり替えるのはやめて」

「違わないしすり替えてもいない。そう言う事なんだよ。薄拂さん。差別だなんだって言うけどさ。障碍者や健常者って言葉を持ち出してそれを天秤に掛けた時点で既に差別をしているんだよ。そもそも健常者だろうが障碍者だろうが同じ人間なのに、それを別々に考えている時点で、人として扱っていないって事なんだよ」

 彼女は言葉を詰まらせたまま、しかし鋭い眼光を俺に叩きつける。

 正直、彼女の言わんとする事も解る。だから引けないと言うのもあるだろう。なにせ彼女が背負っているのはこの世の道徳だからだ。

 だがここで譲歩しては戦いが長引く。

「簡単な例えを出すよ。家族が殺されたとする。犯人は死刑にならなかった。そうなった時、犯人が拘置所から出てきたらどうするか。俺は殺すよ」

 母さんが殺された事を想像する。すると想像の中だと言うのに、憎悪の念が沸々と沸き上がってくる。

「なぜか。許せないからだ。法が、加害者を許しても。俺は、加害者を許せない。だから加害者が死ぬまで殴る」

 目の前で俺を睨んでいる薄拂さんの眼光を真っ直ぐ捉える。

「そいつが男でも女でも老人でも子供でも病人でも妊婦でも健常者でも障碍者でも関係ない。俺は被害者家族で、そいつは加害者だ。俺にはただ憎しみのみがある。そいつが反撃してきても無抵抗でも骨が折れても泣き叫んでも喀血しても破水しても反論してきても障碍者手帳を突き付けてきても、許さない」

 目の前の薄拂さんが、俺の母さんを殺したのにまだ学生だからという理由で許されるのを想像していた。

 その想像は恐らく彼女に伝わったのだろう。

 ようやく、彼女は目を逸らした。

 小声で呟く。

「でも、弱者に手を差し伸べるのが当たり前よ。世間的にはそれが常識よ」

「弱者とはなんだと思う。腕の無い人間か? 足の無い人間か? 違う。虐げられているその人が弱者だ。だから被害者が弱者なんだ。障碍者は生まれながらに弱者なわけじゃあない。加害者によって弱者に仕立て上げられてしまっただけだ。世間がどういうカテゴライズをしても、それに強請ゆすられても、その判断は自分で行うべきだ。そうじゃないか?」

 薄拂さんは目を逸らしたままで拳を潰さんばかりに握りしめている。

 彼女に内在する心理は、怒りか或いは悲しみか。

「うるさい! うるさいうるさい! もう知らないわ!」

 彼女の怒りは沸点を超えたらしく、声を荒げてツカツカと歩いて行ってしまった。それを取り巻きの二人が追いかける。ちゃんと弁当を持って行ってくれた。

 嗚呼。

 深くため息を吐く。

 今まで不戦を貫き通してきた俺だが、遂にやってしまった。よりによってスクールカースト最上段の薄拂季司花さんと。

 ――あっ。

「ごめん! 霧裂さん! 割って入るだけのつもりが、ガッツリ拗らせちまった!」

 俺は手を合わせて深々と頭を下げた。

 彼女はゆっくりと首を横に振った。

「いいよ。あのまま二人で話していても、比々色君の言う通りになっていたと思うし」

「でも、その、もともと霧裂さんは薄拂さんと仲が良かったわけだし、拗れなければ仲直り出来たかも知れないのに」

「比々色君って、すごく正直者だよね。黙ってれば、ケンカに割って入って私を助けたって事にもできるのに。わざわざ悪者になる言い方をするんだもん」

「事実は曲げられないし、曲げたら顔向けできない」

「誰に?」

「俺に」

 霧裂さんは目を見開く。

 フェンスが軋んだ。風に揺れて。

 空を切り裂いて、彼女はあははははと声を出して笑った。

「え。なに? なんかおかしかった?」

 目尻に浮かんだ涙を拭きながら、彼女はおさげ髪を揺らす。

 そしてまた思い出した様に笑いだし、お腹を抱えた。

 一頻り笑い尽くすまで待った。彼女は大きくため息を吐き、青空を吸った。

「凄く、透明な生き方なんだね」

「はあ」

 俺の事を言っているのだろうか。

「私は私に嘘を吐いてばかりだから、そう言う事を言えないよ。あまりにも自分に無い考え方だから笑っちゃった。でもそれは比々色君の言っている事がおかしいって訳じゃあないから安心して。どちらかと言えば羨ましいなと思うよ。きっと私は私に顔向けできないから」

「そんなことないんじゃない? 俺はただ付き合う人間が少ないから自分に嘘を吐かずに生きて行けるだけで、霧裂さんは友達が多いから嘘も必要になってくるんだと思うよ」

「たった今一人減ったけどね」

 あっけらかんと言うが、その事実はあまりに重い。贖罪の念に駆られるが、どうしようもない。俺はただただ深く頭を下げるしかなかった。

「ごめん」

「いいよ。その代わり、友達になってよ」

 顔を上げると、霧裂さんはふわっと笑っていた。

 打算のない真実が、そこには在った。

「じゃあお弁当一緒に食べよう?」

 不意に、紗凪の声が背中から聞こえた。

「うん」

 霧裂さんは頷いた。

「あ、でも私、ないんだった」

 そう言えばさっき議員が叩き落としていたな。

「俺ので良ければ」

「私のもどうぞ」

 霧裂さんは大きく頷いた。

「ありがとう」

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