第12話 聖者の絶叫と耳掃除
家に帰ると甘い匂いが部屋に充満していた。
ああ、これは俺の大好きな果物の匂いだ。
久しく食べてなかったなあ。
夕張メロン。
……え?
甘美な芳香に夢見心地になっていた思考が瞬時に呼び戻された。
夕張メロンって、え、嘘だろ?
テーブルには綺麗に8等分された夕張メロンが置かれていた。
――ああっ!
「
「
「母さん……これ!」
「あんまり美味しそうなものだから、つい」
「つい、ってそんな、あいつ、切られる間際まで喋ってただろう?」
「あいつ?」
母さんはテーブル上のメロンに目を向け、暫くした後ふふふと笑う。
「おかしな子。燈瓏ちゃんが大切にしているロボットを切るわけないじゃない?」
「え?」
「ロボットを見ていたらどうにもメロンが食べたくなっちゃって、買って来たのよ」
「あ、ああ……そうなんだ」
全身から力が抜けて行くのが解る。
「だいたいロボットなんだから包丁で切れるわけないでしょう? 中身も機械が入っているんじゃない?」
「そう、そうだよね! そりゃそうだ。ははは」
多分包丁で切れちゃうけどねー。はははは。
ご飯とメロンを食べ終えてから自室に戻る間際、母さんに呼び止められる。
「燈瓏ちゃん、ちょっといらっしゃい」
ソファに座った母さんが手招きをする。
なんだろう。
「えい!」
母さんが座った姿勢から抱きしめるので、俺はバランスを崩して母の
「え? なに!?」
「この間耳掃除してあげるって言ったら断ったのに、全然自分で綺麗にできてないじゃあない」
「ああ、ごめん。忘れてた」
「もう。いつまで経っても子供なんだから」
口調は怒っていながらに、笑顔を湛えている。膝枕の体勢で、母さんの顔が陰っているので、なんだかその笑顔が怖いのだが。
「そう言う訳で、母さんが掃除してあげます」
「うわっ、だからいいって」
「うーごーかーなーいーの!」
柔らかい太腿に顔を押し付けられる。
俺の頭を固定して、耳を撫でてくる。
くすぐったくて
「何するんだよ」
「うん。耳、治ってよかった」
「え。なんだ、気付いてたのか」
「あんな大怪我、母さんが見逃すわけがないでしょう?」
「別にちょっと切っただけだから。でもなんで気付いてたのに言わなかったの?」
「男の子だもん。喧嘩くらいするでしょう。そういうのに親がいちいち首を突っ込むのは、嫌かなあと思って。もしも虐められているんだったらどうしようって、ハラハラしたけれど」
「そっか。でも喧嘩でも虐めでもないから安心して。イヤフォン外す時に引っ掛けただけだから」
本当は電車でおっさんに絡まれて、イヤフォンのコードを乱暴に引っ張られた所為で傷付いたのだが、それを今言うとややこしくなるので、自損という事にしておく。
「なら良かった。じゃあ、入れるね?」
「うん」
「最近のは凄いわよね。黒くてボコボコなの」
綿棒の形の話だよね?
「動かすけど、痛かったら言ってね? 我慢しないでね?」
「う、うん」
綿棒を動かすんだよね?
「あ、あ、すっごぉい。こんなに大きいの」
耳垢の話だよね?
「こんなに大きいの初めて」
母さんはうっとりした顔で掘り当てた耳垢をティッシュに擦り付ける。
「あ、ダメ、あっ、イク、いっちゃう」
耳垢が俺の耳の穴に入って行っちゃうって事だよね?
と、
そう言えば、昔一緒にホラー映画を見た時も隣でずっと「来ないよね? 死なないわよね? 大丈夫よね?」と主人公達が歩く度に聞いてきて全くホラーを楽しめなかった。一人でいる時は独り言を言わないのに、なぜか俺が近くに居ると独り言含め口数が増える。
「燈瓏ちゃん。最近、何か悩み事?」
「え、なんで? ああ、この間の反抗期の事?」
「それはちゃんと反抗期が来たって事で嬉しいんだけど、それ以外に凄く悩んでいるみたいで、心配。就職とか進学とか、そう言う事を考えているの?」
すみません考えてないです。
「いやあ、別に」
いくらなんでも高2の大事な時期に全く考えてなかったとは言えず適当な返答をする。
「お年頃だから、母さんに相談したくない事もあるんでしょうけど、考え過ぎて
「いやいや、八つ当たりはダメでしょ」
「ううん。大好きな人の八つ当たりは良いの。その人が発散して、ほんのちょびっとでも気楽になって、それでまともになれるなら」
「そういうものかな。なんか暴力夫を肯定しているようで嫌だけど」
「そうね。相手を傷付けるためだけに行う八つ当たりは良くないわ。悪意があって愛情の無いものはいけないと思う。でも、燈瓏ちゃんの八つ当たりにきっと悪意はないし、愛情に満ち溢れているものだと思う。だから燈瓏ちゃんになら、母さん殺されても構わないわ」
心臓が跳ね上がる音を聞いた。
数秒、自分の心臓は止まったものだと思った。
宇宙の様な無音から、遠く耳鳴りを聞いて、心音は復活した。
今は
その心臓の熱の所為か。
「あらあら。本当に優しい子」
それに気付いたらしい母さんは嬉しそうに述べる。
「燈瓏ちゃん、母さんの事、人間だと思う?」
――なに……?
今一度吹き飛びそうになる心臓を鎖で繋ぎ、それが口から飛び出してこない様細心の注意を払い、口を開いた。
「どういう事?」
「燈瓏ちゃんには母さんが母さんとして見えていたらいいなと思って」
えっと。魔王だって告白している、わけじゃあないよな?
「母さんね。反抗期が来なかったの。燈瓏ちゃんにもなかなか来ないから、遺伝しちゃったのかなって思った時があった。それで、なんで私には反抗期が来なかったんだろうって考えてみた事があるの」
「そうなんだ。で、どうしてなのかわかったの?」
「多分私は、お父さんとお母さんの事を自分と対等な人間として見ていたからなのかなと思う。親としてじゃなくて、一人の人間として。だから私が大っ嫌いって言ったら許してくれないんだろうなって思っていた。家出なんかしてしまったら、一生家には戻れないし、学生の分際で仕事するなんて無理だなって思った。ご飯も食べさせてもらえないかも知れないし、学校にも行けなくなってしまうかも知れないって。相手を甘えても良い存在として認めていたら、きっと八つ当たりも
そう言う意味か。安堵のため息が漏れる。同時にまたしても熱いものが込み上げてきた。
鼻声を悟られないように、
「大丈夫だよ。この前反抗期を目の当たりにしただろ? 何なら対等になりたいのに全然成れてないってのが現実だよ。悔しいけど母さんの優しさに甘えっぱなしだ。だから心配しなくていいよ。もしも本当にダメになりそうな時は、ちゃんと言うから」
そう言うと、母さんは俺の髪の毛を撫でて穏やかに笑った。
ふふふ、と唇から漏れたそよ風が耳を
「はい。終わりました」
「ありがとう」
そう言って起き上がった俺に耳垢がこびり付いたティッシュを見せる。
「ほら、こんなにいっぱい出たわよ? もう、ダメじゃないこんなに溜めこんだら。一人でできないなら母さんがしてあげるから、ね?」
と、最後はやはり誤解を招きそうな事を言うのであった。
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