第一〇話 森野さんの青春(二〇〇〇年八月二五日 二一時半頃)

 誰にだって、誰かに話せば、心が楽になることがあるものだ。状況はなにも変わらないにしても。

 これまでの森野さんの雰囲気、たとえば生き生きと人生を送っていたのに、なにかをきっかけに生きる気力を失いつつある雰囲気、そういう雰囲気はいかに人間に鈍い私であっても感じることができた。


 森野さんはこの地方の中心ともいえる大きな都市で生まれ、育った。父親は独自の技術を持つ中規模精密機械会社の創業社長で、やさしい母親は専業主婦だった。何不自由なく成長した。学年にひとりくらいはいる、容姿も頭も運動神経もいい女の子だったのだろう。小学校まではお金のかかるクラシックバレエも習っていた。ピアノ教室は母親に通わされたが、まあバレエの役にも立つと思って続けていたということだ。小学校の高学年頃に脚の骨を折ってからはバレエに対する情熱が冷めはじめて、それからは勉強に打ち込んだ。とくに理科が好きになっていた。理工系の父親の血をひいたらしい。そのせいかわからないが、父親とは仲がよく、中学生まではふたりで釣りやキャンプなんかに行っていたそうだ。母親は虫が苦手で、いつも留守番だった。

 割と厳格な両親だったらしいが、高校に入るまではほとんど親と揉めることもなく、いわゆるいい子だった。本人も別に無理してそうしていたわけではなかった。

 でも、大学進学に際して父親と一悶着があった。父親は地元の女子大か教育学部辺りに入って、普通に結婚して、安定した人生を送って欲しいと思っていたらしく、理系に進みたいといった段階で一度口論になった。いかにも古臭い考え方だと森野さんは思った。事業を興して苦労してきた父親のことを考えるとそれも仕方ないと思いつつも、自分の考えを変えるつもりはなかった。森野さんの通っていた高校はその地方でも有数の進学校で、3年生になると文系と理系のクラスに分かれることになっていたが、森野さんは躊躇なく理系クラスを選んだ。父親の希望を知ってはいたが、高校のクラス選択くらい相談しなくてもいいと思っていたし、大学も理系に進むつもりでいた。それにそのころから、円高の影響で会社の経営が厳しくなりはじめていて、なかなか相談できるような状況でもなかった。だから父親も仕事にかまけて自分が娘のそういう面に無関心だったことを反省し、理系の学部に進みたいという娘の希望も、自宅から通うという条件でなら認めた。理系への進学を反対はしたものの自分と似ていること自体はうれしかったのだ。

 ところが森野さんの付きたい先生は東京の私立大学にいた。当然家を出なければならない。東京の大学かそれとも自宅通学が可能な国立大学か、どちらの大学にするかは共通試験が終わってもまだ決まっていなかった。先に試験のあった私立大学には合格した。国立大学の2次試験の前に納めなければならない入学金は、家計の苦しい中、母親が父親に叱られるのを承知でこっそり払い込んでくれた。あとは森野さんが手を抜いて地元にある国立大学の受験に失敗すればいいだけだったのだが、どうも性格的にそういうわけにはいかなかったらしい。結局国立大学も合格した。

 しかしそれがある意味幸いした。父親の会社の主な納入先だった企業が、いわゆるココム(COCOM:対共産圏輸出統制委員会)違反で摘発され、一気に会社は傾いた。別の取引先がいろいろと配慮してくれて最悪の事態は免れたものの、大学進学さえ危ぶまれたほどだった。東京での生活費や学費は親に出してもらおうと思っていたから、森野さんも妥協せざるを得なかった。

 父親も悪いと思ったのか、同じ分野の研究をしていればその先生とも会う機会はあるし、ときどき東京に会いに行くようなことがあればそのくらいのお金は出すといった。それは結局観測などの旅費に変わったが、学会でその先生とも顔見知りになることができた。会社は持ち直していたが、経営が苦しいことに変わりなく、母親もそれまでしたことのなかった安売りスーパーを巡るなどということをしていた。父親は、三年生になって研究室に所属するようになったら理系は時間的に大変だから、生活費を自分で稼げるのであれば独り暮らしをしてもいいとも言ってくれた。ただ男性関係で俺を泣かすようなことはするなと釘を刺すことも忘れなかった。

 母親はどうだったかは分からないが、少なくとも父親は森野さんが高校生の時にすでに初体験を済ませていたことを知らなかったようだ。父親と揉めていてちょっと自棄になっていたのと、まあ普通に興味もあって、大学生になっていた高校の先輩――彼がまだ高校生だったときには別に素敵な彼女がいて、森野さんは片思いだった――と一度だけしたのだ。


「その人がちょうど学祭に遊びに来てて、声をかけられて、デートに誘われたの。もうそのころは好きだという気持ちはあんまり残っていなかったんだけど……。騙されたと言えば騙されたのかもしれないし、ほんとうは私もわかっていたのかもしれない。ピカピカの真っ赤なセリカでドライブに行って、夕暮れの人気のない海辺の駐車場に車を止めて、おまえのこと実は可愛いと思っていた、って言うの。それでキスをされて、しばらくすると体を触ってきた。私はこんなところじゃいやだと言った。でもそれってホテルならいいってことになっちゃうわよね。でもまあ進学のことでいろいろあった時期で受験勉強のストレスもあったし、もちろんセックスに興味があったし。初めてだからやさしくしてくれること、それから避妊具は最初からちゃんと着けてくれること、私としたことを誰にも言わないこと、その3つの条件にオーケーしてくれたから、したの。その人はそういう意味では信用できる人だということはわかっていたから」

 森野さんはグラスに残ったワインを一気に飲み干した。

「太田さんは、ちゃんと着けてするタイプですよね?」

「えっ?」

「だから、避妊具」

「え、ええ」

 私なら避妊具をせずにするなんてことはできない。妊娠させて結婚なんてことになったら、目も当てられない。それに中絶しろなんて言うこともできない。病気だって怖い。

「あとでわかったことだけど、まああの年代にありがちな、やったオンナの数を競っていただけみたいだったんですけどね。私も一回こっきりと思っていたから、それはそれでいいんだけど。でもまあ場数を踏んでいるだけあって、処女の扱い方も心得ていたみたい。ちょっとだけ痛かったけど、友だちから聞いていたほどではなかった。べつに気持ちがいいということもなかったけど」

 なにもそこまで話さなくてもいいのにと思うと同時に、森野さんの高校時代の可憐な姿を想像して、その男にすこし嫉妬を覚えた。

「あとでその先輩の友達から聞いたんだけど、その時、先輩は地元に戻って後輩を3人食べたって言っていたそうです。ああ、私、食べられちゃったんだって思ったけど、かつては好きだった人だし、まあいいかって。初めてなのに見ず知らずのナンパされた人としちゃったっていう同級生も何人かいましたから。それに具体的に誰ということは知らなくてほっとしたし、約束は守ってくれたんだな、って」

 森野さんの酒のピッチが速まっていた。私がまだワインの2杯目に取りかかっている段階でワインボトルを空にして、今度は日本酒をグラスになみなみと注いだ。

 それでもほんのり上気している程度で、乱れる様子はなかった。話の内容がだんだんと露骨になり、時折言葉遣いがラフになったが、それも単に私と打ち解けてきただけのことかもしれない。

 ただ森野さんが車で帰ることが心配だった。それを聞くと、「だいじょうぶ。酔いが醒めてから帰ってもいいし、歩いて帰っても1時間もかからないから」と森野さんは笑って答えた。たぶん明け方まで付き合わされるのだろう。でも森野さんのような魅力的な女性のディープな足跡を聞くことのできる機会なんてめったにあるものじゃない。


 その後父親の会社は再び軌道に乗り始め、お金に困ることはなくなった。森野さんの大学生活も順調だった。2年生になるころには周りの女友だちの多くは彼氏がいたが、森野さんは3年生になって初めて、彼氏を作った。相手は同じ学部の同期で、研究室も同じだった。森野さんは特に仲のいいボーイフレンド程度に考えていた。講義やその一環の泊まり込みのフィールドワークなんかで一緒だったのでよく知っていたし、気の合うほうだった。あまりがつがつしていないところ、それに優しい人柄が気に入ったので、森野さんもあることをきっかけに付き合ってもいいかなと思ったのだそうだ。


「こんな風にいうと嫌な女みたく聞こえるかもしれないですけど、私はこれでもけっこう大学時代は引く手あまただったんですよ。でも恋愛には興味がなかったんです。大学に入るまで紆余曲折があったし、しっかりと勉強や研究に打ち込もうと思っていたから、まあよほどの人が現れたらわからなかったですけど、そういう人も現れなかったし。そんなわけで成績はトップクラスだったから、研究室を選ぶときも楽でした」

 私はそうでしょうねという感じで頷いた。

「で、3年生になって植物生態学の研究室に入って、その人も同じ研究室で――あとから思うと私目当てで入ってきたのかもしれないんですけど――でも研究は熱心だったし、センスもあったみたい。だから研究室の同学年でもよく話すほうでした。それで、その夏のフィールドワークを兼ねた1週間ほどのゼミ合宿でちょっとした事件があったんです。合宿の中日にあった飲み会のあとで4年生の先輩に呼び出されて、言い寄られて、無理矢理キスされそうになったんです。そこを通りかかった彼が『森野さん、大丈夫?』って声をかけて、助けてくれて。その先輩が私を狙っていたことも、私がその先輩を好いていなかったことも彼は知っていたから、偶然ではなかったのかもしれません。その先輩は理系の人にしては気性が荒くて、彼の言い方に腹を立てて彼を2、3発殴りました。彼は一方的に殴られていました。そのあと彼から、このことは誰にも言わないでくれと言われたんです。手当しなくちゃとか言ったんですけど、そんなのはいいからって。朝食の時、先生にその顔はどうしたのかと聞かれ、『某先輩とある女性を巡って決闘になり一方的にやられました。でもどちらも振られました』と彼は笑って答えました。先生もそれ以上は追求しませんでした。それでも彼が私のことを好きなのだとは気付きませんでした。鈍いですよね。で、それから2ヶ月ほどして、彼から映画に誘われて。私も観たいと思っていた映画だったし、合宿の時のお礼もきちんと言えないままになっていたから、ちょうどいい機会かなと思って。合宿のあと、彼はすぐにちょっとした観測も兼ねてリゾート地の泊まり込みのアルバイトに行ってしまって、私のほうは夏休み明けから観測で1ヶ月ほど大学を開けていたりして、会う機会がなかったんです。それまでも2人で映画に行ったことはあったし、別の同級生の男の子とも普通に遊びに行ったりしていたから、重く受け止めてはいなかったんです。映画のあと、私は合宿の時のお礼をいって、買っておいたお礼の品を渡したんです。彼が好きなオレンジ色の、ちょっとおしゃれな携帯灰皿を。すると彼がぼそっと呟くように言ったんです。『俺の気持ちに気付いてくれてないのか?』って。えっ? っと口にした私は、しまったとすぐに強く反省しました。そうだったのか! って。私って、ちょっとどこか、こわれているのかな? ねえ、どう思います?」

「いや、どうときかれても。まあ、ちょっと変わってはいるみたいですね」

 彼の方だってちゃんと口で言えばいいのにと思ったが、自分だって思うように告白できたことなんてないのだから、言うのはやめておいた。


 90分テープの裏面がもう間もなく終わろうとしていた。さっきまで見ず知らずの他人だった森野さんが、女性としての魅力とは別に、愛おしく感じられた。だいたい自分の妹ですらこんなことはまるで知らない。それにほんのり頬を染めた森野さんはますますきれいで可愛らしかったし、表情も豊かで、見ていて飽きなかった。

「やっぱりそうですよねぇ。あああ。それで、彼はちょっとがっかりしたような表情をしましたけど、すぐに私を見据えて、『好きだ、付き合ってくれ』と言ったんです。正直私は、ひどい女かもしれないけど、それでも付き合いたいとは思わなかったんです。今までみたいに友だちのままがいいと思っていました。でも、私は思わず、うん、と答えていました。ただ、父親との約束があるからセックスはだめだけど、それでもいいか? って。父とは別にはっきりと約束したわけではないけど、結局は応援してくれている父の気持ちを裏切りたくはなかったし。まあ今時それくらいで泣く親もいないかもしれないけど。彼はそれでもいいと言ってくれました。その先輩のこともあったし、4年生になるまでは付き合っていることはまわりには内緒にしていました。だからまあそれほど大きく関係が変わったわけではないんです。電話で話す時間が長くなったり、2人で合う回数が増えたり、キスをするくらいで。キスっていっても交際を始めたばかりの中学生並みの軽いキスだけ。だって、あんまり激しいキスをすると、セックスをしたくなっちゃうでしょ、男の人は?」

 森野さんはわずかに首を傾げながら私を見つめた。いたずらをする子供のように健康的に笑っていた。ますます開けっぴろげになっていく森野さんには困惑したが、嫌な感じはなかった。

「あ、ええ、まあ、そうですね。でも、女性だってそうじゃないんですか?」

「そうですね……私もたぶん人並みには性欲はあるし……自分も我慢できなくなってしまう不安がありました。でも彼はすごく真面目な人だったから、ちゃんと約束は守ってくれました。だから大学時代は一度もセックスをしませんでした。そんな禁欲的な生活もあってか、研究のほうはかなり順調にいったんです」

 彼女の研究は、草原のようなところでいくつも区画を切って、その中にどの植物がどの程度の割合で生えているかを乾燥重量から調べるというものだった。その変化を見ると、その草原における植物生態系の炭素の循環がわかるらしい。

「それで卒論もいいものがまとまって、先生から修士課程に進んで投稿論文にすることを勧められました」

「へえ、それはすごいですね」

 博士課程でようやく1本目の投稿論文をまとめることができた私にくらべれば、森野さんははるかに優秀だった。

 森野さんは私のグラスの空いているのに気付いて、新しいグラスに日本酒を注いでくれた。そして自分のグラスにも注ぎ足した。

 その日本酒は森野さんの言うとおり、フルーティーなさっぱりとした香りで、するっとした喉越しだった。うっかりすると飲み過ぎてしまいそうだった。ふっと目が合うと、私の気に入ったのがわかったのか、森野さんはほっとしたような笑顔を浮かべた。それから椅子をテーブルに近づけるようにずらした。

「修士課程の1年目の前半は授業が多くて論文をまとめる時間がなかなかとれなかったんですけど、それでも秋には何とか形にして、それで日本の生態学の学会誌に投稿しました。英語だったらとてもじゃないけどあんなに早くはできなかっただろうな」

「それでもたいしたものですよ。私なんて1本目はずいぶんと時間がかかりましたから」

「査読の結果はそれほど悪くないもので、いくつかデータを追加したり、構成を若干変えたりして、年明けには受理されました」

「すごい。今度読んでみます」

「えへ。よかったらお願いします」森野さんは掲載誌と掲載年を私に伝えると、照れくさそうにうつむいて両手に握ったグラスを見つめていた。3、4秒して顔を上げると、グラスに半分くらい残っていた日本酒を一気に飲み干して、コツンと小さく音を立ててグラスをテーブルにもどした。

 礼儀としては私が注ぐべきなのだろうが、ちょっと飲み過ぎだよな、という思いが躊躇させた。でも、森野さんは、ためらいなく自分でグラスを満たした。顔の色と話の内容を別にすれば未だに酔っぱらった様子はなく、姿勢もしゃきっとしていたし瞳も冷静なままだった。

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