第七話 古い木造の公民館(二〇〇〇年八月二五日 一九時半頃)

 公民館までは信号がひとつしかなく、それにも止められることはなかったから、5分もかからずに到着した。名前を教え合って、私が東京の大学で研究員をしていて、教授のところに気象データをもらいに来たと説明するだけにとどまった。彼女はそれを聞いて「へえ」と関心があるのかないのかまるでわからない返事をした。

 木造の長細い公民館は、校庭のような広場の奥の方に今にも朽ち果てそうに建っていた。まるで古い小学校のようだった。私が低学年の頃にはまだこんな校舎が残っていた。室内にはまだ蛍光灯の青白い光が灯っている。建物のすぐ横には大きな広葉樹が見守るように立っていた。

 昼間に観光気分で見たら、風情のある光景だったことだろう。でもここにひとりで泊まるとなると話は別だ。このようなときに口にすることはできないが、幽霊とか妖怪とかが30を過ぎてもいまだに怖い。金縛りには一度だけ遭ったことがあるが、特に霊感が強いわけではない。たぶん、ただ自分で想像しておびえているだけなのだ。ある種の女性恐怖症といい、このことといい、自分が大人になりきれないでいることを象徴しているようで、いつも情けなくなる。

 それでも恐怖を軽減する方法を編み出してからは少しはましになった。編み出したというのは大げさかもしれないが、あるとき、恐怖は自分の外部にあるのではなく、内部にある、自分自身で作り出した感覚であることに気がついた。恐怖を感じさせるものが、自分に対して危険なものかどうかが重要なのだ、それを冷静に見極めよ、ということだ。ただそれだけの当たり前のことだが、少なくとも無闇に怯えている私には役に立った。

 いささか滑りの悪い曇りガラスのはめ込まれた木の引き戸を開けて中に入った。待っていましたとばかりにカウンターの中にいた恰幅のいいおばさんが迎えに出て来た。

「いや、あんた、よかったねぇ! もうちょっと遅かったら、あたし、帰っちゃったところだったよ。雨も降りだしそうだし、今日は早めに店じまいをしちまおうと思ってたんだ。いや本当は8時までだけど、いちいち市の職員も調べに来るわけじゃないし、今晩は祭りだしもうだれも来やしないからね。だいたい、市と合併してから、こんなところまで8時までやらなきゃいけないなんて、馬鹿げているよねぇ、あんたそう思わないかい?」

 いきなりそう言われた。「はあ」とあいまいな返答をしたが、おばさんは気にする風もなかった。私たちを宿直室らしき部屋に案内するまでの短い間、市に対する不満をいくつか挙げた。森野さんはなにも答えなかったので、私もただ聞いているだけにした。

 風が吹くと窓がカタカタと揺れたり、板張りの床は少々きしんだりしたが、リフォームされたらしい建物の内側は比較的新しく、掃除も行き届いてさっぱりしていた。それに公民館のおばさんがやたらと明るかったので、心が少しは軽くなった。実に貧困な想像力だが、夜中に包丁を研ぎそうなお婆さんが出て来たらどうしようかと内心思っていたのだ。

 しばらく使われていなけれどもここにいて暇だからしょっちゅう掃除しているとおばさんが言うとおり、宿直室は予想していたよりもずっと快適そうだった。入り口の辺りが2畳ほどのコンクリートの三和土になっていて、そこに小さな流しとコンロが据えられていた。コンロの上には蓋の赤いアルマイトのやかんがのっている。50センチほど高くなった居住スペースは4畳半だった。隅にはたたまれた敷き布団があり、脚のしまわれた焦げ茶色のちゃぶ台が壁に立てかけられていた。入り口の向かいの壁には曇りガラスの窓があり、そのすぐ脇には14型くらいのテレビと古びた黒電話が所在なげに置かれている。右の壁には小さな食器棚もある。そして入り口のすぐ右には隣室に通じていると思われるドアが付いていた。廊下からまだ天井の蛍光灯が灯ったままの隣の部屋を覗いてみると、本棚が何列かと長い机がいくつか置いてあり、図書室だか学習室だかになっているらしかった。

「ひと晩寝るならじゅうぶんだろ? 森野さん、あとは頼んだよ。あたしゃ、帰らなきゃ。雨に降られたら、困るからね。その扉はとなりの図書室につながっているから、必要ならそっちの部屋を使ってもらっても構わないよ。あんた、学者さんだろう? まあ先生が読むような本はないだろうけど、机があった方が勉強しやすいだろうからね。そこのちゃぶ台は脚が1本こわれかけていて、うっかりするとはずれるから、使わないほうがいいよ。きれいにしておいてもらえれば、図書室で食事をしてもらってもいいから」

「それならそうさせてもらえると助かります」

 学者というよりも研究者なのだが、おばさんにしてみれば違いはないのだろうから、素直に礼だけ述べた。それに私は机と椅子の方が好みなのだ。使いやすいように明かりを点けたままにしておいてくれたのかもしれない。ほとんど訛りは感じられなかったが、このおばさんは森野さんと違っていかにも地元の人という感じだった。普通の役人だったらこんな融通は利かないはずだ。

「あっ、そうだ。夕飯がまだでしたよね?」と森野さんが小さく訊く。

「コンビニかスーパーかなんかで、といってもなにもなさそうですね、このへんは」

 私のつぶやきを遮るように、おばさんはさっきよりも切羽詰まった感じで言った。

「わるいけど、あたしはもう行くよ。それから明日は9時からだから、まあそれまではゆっくりしてもらっていてもいいよ。コンロも使っていいし、皿とかコップとかも少しはその棚に入っているから使ってちょうだいな。汚れ物は流しに突っ込んでくれたらいいから。たばこを吸うなら入り口の近くの喫煙所で頼むよ。火の元だけは気をつけてな」

 窓をならす風が少しずつ強くなっているようだった。

 おばさんは私が礼をいうのも待ちきれない様子で、すでに玄関に向かっていた。森野さんに続いて、おばさんのあとを追った。

 入り口に着くやいなや雨粒が地面を叩き始めた。まだぽつぽつという感じだがすぐに本格的に降ってきそうだった。

「あれれ、もう落ちて来やがったよ!」

 おばさんが唸るように言った。

「よろしければ、私が車で送っていきますけど?」

「そうかい? そうしてもらえるかい? すぐに本降りになりそうだものね」

「じゃあ、私はおばさんを送って、それから家に戻って毛布を取ってきます。それから食べるものも適当に用意してきますから」

「なにからなにまですみません」

 私がそういいかけると、森野さんは玄関の近くの受付カウンターのようなところに行って、何かをメモすると、おばさんの方を向いて、「宿直室の直通の番号はありますか?」と訊いた。

「そこの壁に貼ってある番号の上から3つめに、○宿と書いたのがあるだろう?」

 それを見ながら森野さんは書き込んで、メモ用紙をちぎると二つに折って、丁寧に切り分けた。そして一方を私に差し出した。

「それ、私の自宅の電話番号ですから、もし私がいない間になにかあったら連絡をください。留守番電話も付いていますから。それから私の方から連絡するときは宿直室の直通に入れますから、出てくださいね」

 おばさんは急に思い出したように、「それから、先生、悪いけど、そこに利用者記入帳っていうのがあるから、あとで名前とかを書き込んでおいてちょうだいな」と言った。

 森野さんとおばさんは急いで車に乗り込むと、降り始めた雨の闇の中に消えていった。車のテールランプが見えなくなるまで見送ろうと思ったが、雨が強くなりだしたのであきらめて中に入った。

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