さかなは、ひとの夢をみる

 流れに身を任せ、ぷかりと海の中を漂う。夜の海の冷たさが身体の末端からひたひたと染み込んでゆく。月の光が顔をゆるやかに撫でてゆくのを感じ、笑みがこぼれた。陸に上がっていた頃、風を切って走っていたことを思い出す。頬に風があたるのが心地よくて好きだった。


「陸に上がるのと、海の中で過ごすの、どちらが良い?」

八つを数える頃、わたしたちはさかなの決まりに従って、一つの決断を迫られる。お母さんはやさしい眼差しと声音でわたしに尋ねた。今でも、そのあたたかさを覚えている。


「ねえ、どっちにするか決めた?」

 泣き虫で、いつもわたしの背に隠れていた親友が囁くように尋ねる。密やかな約束を交わすように、顔を寄せて誰にも聞こえないように、そっと。彼女の明るい橙色の髪の毛が、わたしの顔にかかる。

「わたし、きっと陸に行く」

 母から聞いた、人間の話に憧れて、わたしは陸に上がることを決めた。親友は海に残ることを選んだ。わたしたちはちいさな別離わかれを決めたけれど、それが永遠ではないことを知っている。


「18歳の誕生日に戻ってくることを約束できるね? 人魚は陸では生きられない。無理に残ろうとすれば、彼女のようになる」

 ヒレと足とを交換するために、わたしたちは呪いをかけられる。18になった時に海へと戻らなかったさかなにかかる呪い。海へ戻ってこなかった従姉は、苦しんでくるしんで、最後には海へと身を投げたのだという。ちいさい頃から言い聞かされてきたわたしにとって、それはひどく怖いもののようにおもえて仕方なかった。


 水泡が漂っていくのを、目で追いかける。魚が頭上を泳いでゆく。たくさんのものを一緒に眺めたあの人に、海の底からの景色を見せてあげたかったなとおもう。目を閉じれば、まだ学校生活を送っているような気持ちになる。浮かぶ景色は鮮やかに地上を映した。


「進学先、もう決めた?」

 前の席に座るあの子が振り向いて尋ねる。ストレートパーマのかけた黒い髪が、振り向くたびにはらりと広がって落ちてゆく。

「ううん、まだだよ」

 わたしの回答に安心したように頷き、照れたように笑みを零した。

「新学期の実力テストの点が悪かったの。不安になってしまって」

「難しかったね、わたしも全然点が取れなかった」

 苦笑いを浮かべながら告げると、そうだよねと力強く彼女が頷く。その表情を眺めながら、わたしは少し羨ましくおもえた。海の底へと続く未来を歩むわたしには、その輝かしい日々が眩しく見える。おもわず眼を細め、光に溶けていきそうな彼女の輪郭をなぞった。


「学校、行かなきゃ」

 呟いた声に導かれるように意識が浮上する。瞼を開けば、こちらを覗き込む瞳に貫かれ、わたしは思わず悲鳴を上げそうになった。同じ学校に通う友人だと気が付き、慌てて口を塞ぐ。

「もう、学校だよ」

 笑いを含んだ彼女の言葉に、わたしははっとする。教室の机でうたた寝をしていたらしい。腕が痺れていて、うまく動かすことができない。おかしな夢を見ていたような気がした。


「おでこ、赤くなってる」

 彼女の指が私の額に触れる。ひんやりとした体温が心地よかった。腕が当たっていた部分が赤くなっているだろうことは想像がつく。前髪をなでて整え、額を隠した。

「そろそろ、目を覚まさなきゃ」

 顔を近づけてきた彼女が、耳元で囁く。熱い吐息が耳朶を掠めてゆく。転がりおち、掬いきれなかった言葉を掻き集め、友人の顔をまじまじと見つめた。何を、と言いかけたところで、わたしが既に学生ではないことを思い出す。

「起きて」

 色の抜けたような表情の乏しい顔でわたしを見つめ、静かに呟く。抑揚のないつめたい影から逃れるように、目を閉じる。ふたたび目を開けた時、そこは海の底だった。


「大丈夫?」

 夢の中の彼女がわたしを見つめていた。夢と現実の境目が入り混じり、どこにいるのか混乱してしまう。

「学校に通っている夢を見ていて」

 納得したように頷く彼女がわたしの頭を優しく撫でた。温度を持ったその手はあたたかい。ふいに、ころりと涙が零れた。

 

 さかなは海の底で、陸に上がる夢を見ている。

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