制服の裾を翻し

たまき

おやすみなさい

「かねちゃん、わたしもうこの暑さに耐えられないよ」


 部室の長机の上に突っ伏しながら、望はぐったりした声で訴えかけてきた。消え入りそうな語尾が暑さの中に溶けていく。腕の中に顔を埋めるようにしている彼女の短い髪の間から、白い首筋が覗く。

 開け放した窓からは、蝉の声と生温い空気が入ってくるばかりで、ますます暑さに拍車をかけていた。汗で開襟シャツが肌にくっつくのも気持ちが悪い。望の首筋に向かって、うちわで仰いでみても、その場しのぎにしかならなかった。


「なんで部室にはクーラー無いのかな」

 こちらに目線を向けて恨めしそうに言う望の短い髪が顔にかかっているのを払う。額の髪が汗でくっついてしまっていた。


「仕方ないよ」

 文芸部、という言葉の響きに馴染みはあっても、活動自体は体育会系のそれとは異なりとても地味だった。そもそも、部員数すら存続に必要な規定人数ぎりぎりなこの部活に部室があるのは、部活自体が長いからでしかないのだろう、とおもう。

 夏休みは自由活動のせいか、部室には私たちしか居なかった。


「せめて、扇風機を入れてもらえないかなあ。花ちゃんにお願いしてみても良いかな」

「どうかな、花ちゃんも困ると思うけど」

 花ちゃんこと、文芸部顧問の花野先生は、おっとりした性格で、私たちのわがままにそうねえと困った顔をしながら一緒に悩んでくれるタイプの人だった。嫌いじゃないけれど、一緒に考えることよりも答えが欲しいときには避けたいタイプだ。

「わたし、花ちゃんのところに行って来る」

 望は元気良く顔を上げたと思うと、そのままの勢いで教室を飛び出して行こうとする。そこに立ちふさがるように姿を現した人がいた。


「ちょっと待って」

 猪俣先輩、と現れたひとに向かって呼びかけると、そのひとはふわりと笑い、望に座るように手で示す。

 前部長の猪俣先輩は、時々部室に顔を出してくれる貴重な存在で、一見物静かな印象を受けるけれど、とても明るい人だった。後輩の私たちにも気さくに話しかけてくれる。

 いつも爪を綺麗に磨いていて、この人は細かいところまで目が行き届く人なんだとおもったことを覚えている。爪が綺麗な人が好きだと言っていたのは、中学校の頃の先生だっただろうか。しばらくの間、手入れをしていたけれど、面倒くさくなってそのうちやめてしまった私とは大違いだ。


「どうしてですか」

 不満げな望は食い下がるけれど、猪俣先輩には誰も勝てないのは、私たち部員がよく知っている。先輩が微笑みながらあれこれ言い合っているうちに、私たちはいつも丸め込まれてしまっている。


「加納くんのことを思い出してみて」

 加納先輩は猪俣先輩と同じ代の先輩で、楽しいことと面白いことが大好きな人だった。自分の環境をより良くすることに全力を注ぐタイプの人。たしか、私が新入生として仮入部していた頃に、エアコンのついた部屋と部室を交換しようとしていたと聞いたことがある。


「加納くんも、やりたいことをやるためにいろんなことを考えて無茶してたのよ。だからまず、何がそのために必要なのか、のぞみさんも考えてから花野先生のところに行った方がいいと思うの。うまくいけば、扇風機も何とかなるかも」

 ね、と眼鏡越しの瞳が笑っている。月のように丸い瞳。望も納得したように深く頷き、そうですねえとなにかを考えこんでいるようだった。そのうち、レポートでも書いてきそうだった。望はそういう思い切った行動に出ることがあって、私は驚かされる。


「ところで、猪俣先輩は今日、どうされたんですか?」

「ね、海に行かない?」

 私の疑問に対して、ここに来た理由を思い出したと言うようにわざとらしく目の前で手を合わせる。突然の誘いに、私と望は顔を見合わせてしまった。


「海に行きたくなって、部室に誰か居ないかなと誘いに来たの」

 この学校は海から近い。歩いて15分ほどで着ける。急では有るけれど、行けないことはない。

「先輩との思い出作りですね。行きます」

 望は、私の方をみた顔をすぐに先輩に向け直し、楽しそうに言った。こういう時に即決できるのが彼女の長所だと思う。


「金子さんはどう?」

「わたし、泳げないですけどそれでも良ければ」

 海を見ているのは好きだけれど、海水に浸かることができない。お風呂は大丈夫なのに、海になると途端にそのまま身体がとろとろと溶けてしまうような気持ちがぬぐい去れない。


「大丈夫よ、わたしも泳ぐつもり無いから」

 にっこりと先輩はわらって、優しい声音で告げる。それなら、と返す私にありがとうと手を取りながら言う。

 近くで見る先輩の目は、少しだけ青味がかって見えた。光の届かない海の底の色だ。



 ***



 昼と夕方の間の砂浜では、燦々と照りつける太陽に、今にも焼け焦げになってしまいそうだった。私たちは部室の片隅に置かれていた古臭いビニールシートを敷いて、海を見つめて座る。磯臭い海風が私たちの制服を、髪をさらってゆく。


「わたし、海に沈む夕日を見るのが好きだなあ」

 さざ波に紛れるように、ぽつりと落とした言葉だった。先輩は僅かに眩しそうに目を細めていた。夕陽に照らされた横顔の輪郭が、光の中に溶けてしまう。


「綺麗で、寂しくならない?」

 そうですね、と私も頷く。部活で毎年、浜辺でバーベキューをするけれど、いつも沈む夕日を見つめている。そう言えば、隣にはいつも猪俣先輩と高崎さんが居た。


「高崎さんと何かあったんですか?」

 連想ゲームのように、するすると何かが繋がっていく感覚。高崎さんは、もう大学生の先輩で猪俣先輩と付き合っている。時折、部のイベント毎に顔を出していた。先輩じゃないから、さん付けで呼んでと初めて会ったときに言われたことを思い出す。真面目そうな横顔と、人懐っこそうな笑顔。年に数回しか会わない人にもかかわらず印象的な先輩だった。

 猪俣先輩はなんと答えようか迷っているように言葉を濁らせ、視線を泳がせる。そして、そのまま海を見つめて黙りこんでしまう。ひとりで、思考の中へと沈んでゆく。私も望も、声をかけることができなくて、ただただ隣に座っていた。

 夕日が沈みはじめ、空は夜の色味を帯びる。そこからの空は、驚くほど早く夜へと変わる。夕陽の端が海に引っかかる頃。


「お別れを、しようと思ったの」

 猪俣先輩は振り切るように言った。海へと落としたその言葉が、ゆっくり海の底へと沈んでいく。その気泡を追いかけるように望が繰り返す。

「お別れ、ですか?」

 そうと頷くと先輩が立ち上がる。制服のスカートからすらりと伸びる素足が目に入った。日焼けを知らないような白い足。そのまま、躊躇することなく海に向かって歩き始める。

 咄嗟に、先輩の腕を掴もうとしたけれど、するりとその白い手がすり抜けてしまう。夜と海の中に、先輩は抱かれてしまうのではないかと不安になる。


「わたし、今日で18歳になるの、わがままだけど、誰かに覚えてて欲しかったのね」

 先輩は振り返ると、来ないでというように手を上げる。先輩の足は海につかっていて、押しては寄せる波がその足元をすくいあげようとしているように見えた。私たちは、波の来ない砂浜で先輩の姿を声もなく、見つめていた。


「付き合ってくれて、ありがとう」

 先輩はゆらりと後ろに倒れこむ。水飛沫を一つもあげず、ゆっくりと海へと消える。僅かに尾を引いていた夕陽に照らされて、表情は何も見えなかった。ただ、その姿を綺麗だとおもう。しなやかな白い四肢が海へ溶ける。

 先輩の姿が消え、夕陽も最後の光を私たちの瞳の中に残し、夜になる。私たちは漸く、目の前で起きたことを頭が咀嚼し始めたのを感じた。ひとが消えたことを、理解することができずにいた。そこが海であることも忘れて、先輩のいたところに駆け寄る。消えたその場所には薄紅色の花弁が揺れていた。手に取ると、それ自身が湿り気を帯びていた。


「鱗?」

 その言葉に、もう一度手の中に有るものを見つめ直す。確かにそれは、魚の鱗のようにも見えた。

 私はそれを、ハンカチに包みをそっと制服のポケットへとしまった。先輩は私たちに、覚えていて欲しいと、そう告げた。その言葉を、私はずっと忘れることはなかった。

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