13. 頼朝、危機一髪

月見の宴はすすみ、頼朝よりともはそっとトイレに立ちました。それを見逃さなかったのは、琴を弾いていた唐糸からいとです。唐糸はそもそも、頼朝の命を狙うために身分をいつわってここに潜入していたのでしたね。


彼女は、かわやを出た直後の頼朝に水をさしあげるような顔をして、銀の水差しを盆にのせ、しずしずとそちらの方向に向かいます。


厠の中の頼朝よりともは、酔った頭で、さっき西行に教えられた句のことをボンヤリ思い出していました。「なんだったっけ、寄ればまた、にもかくにもいとにくし… ふくろばしてよ、木曾の麻衣…」


頼朝「にくし… 『し』に、二つの『く』… おっ、これは『水』を表すのかな。『いと』の部分も、唐糸を思い出させる…」


ここまで気づいた頼朝は、さらに考察を進めました。「木曾の」というあたりが、義仲を意味するとしたら… 唐糸からいと義仲よしなかの残党、と言いたかったのか? ならば、アレはどうやってオレの命を狙う? 水、に関係するか? それをオレはどうかわせばいい…


の刻をしめす漏刻とけいが鳴りました。


頼朝は、上着の袖をほころばせ(ふくろばせ)、何食わぬ顔で厠から出ました。そこには唐糸からいとが、水差しを持って待ち受けていました。「気が利くな、その水をくれ」


唐糸は「はい、ただいま」と言って一歩近づくと、頼朝よりともの右の袖をむんずと掴みました。そして左手は、懐から抜き身の短剣を取り出します。周りにはまだ二人以外だれもいません。


頼朝「なにをする」

唐糸からいと「これでもう、逃げることはできぬ。今こそ明かそう、我が素性。私は石田いしだ為久ためひさの縁者などではない。我は旭将軍木曾きその義仲よしなかの身内、一騎当千と呼ばれた今井いまいの四郎しろう兼平かねひらの妹にして、手塚てづかの太郎たろう光盛みつもりが妻、唐糸からいとだ。主君の、兄の、そして夫の敵である頼朝よ、おしるし、頂戴する!」


頼朝は、身になんの武器も帯びていません。このままでは命がなかったことでしょう。しかし頼朝は、西行の歌を手がかりに、あらかじめそでを半分破っておきました。彼は一気に飛びすさり、袖をちぎりながら唐糸の間合いを免れました。


唐糸からいと「おのれ、小細工を!」

頼朝「(大声で)くせ者だ、誰か来い!」


この声を聞いて真っ先に宴席から飛び出したのは、重忠しげただの妻、嫩子ふたばこです。男連中は、ほとんど宴席に出ていなかったのです。(重忠しげただが何か重大な報告を持ち帰るかもしれない、という、頼朝よりともの配慮でした)


嫩子ふたばこが到着するころには、短刀を構えた女房がワラワラと出てきて、唐糸からいとに立ち向かおうとしていました。しかし彼女らではまったく歯が立たず、陽炎かげろうのようにすばやく動き回る唐糸にすっかり翻弄され、みな、得物えものをたたき落とされ、転んだり尻餅をついたりしていました。政子と大姫は、戸板の後ろでこれを戦々恐々と見守っています。


唐糸からいと「ザコどもが邪魔をするなあッ」


嫩子ふたばこはこの場に、薙刀なぎなたを水車のように振り回して唐糸に打ってかかりました。「これ以上はさせぬ!」


唐糸は嫩子ふたばこの薙刀をと避けて、続く剣筋を刀でキンと払うと懐に飛び込みました。嫩子ふたばこはすかさず薙刀なぎなたを捨てると、「やっ」と一声、手刀で唐糸からいとの剣をたたき落としました。そこで一瞬だけひるんだ唐糸からいとは、次いで繰り出された嫩子ふたばこの当て身によって床に転ばされ、押さえつけられ、あえなく縄をかけられてしまいました。


唐糸からいと「おのれ、殺せ、殺せ!」


頼朝はこの唐糸を見下ろしながら、「危ないところだった… 嫩子ふたばこがいなければ、今ごろどうなっていたことか。さすがはあの忠重ただしげの妻よ」


嫩子ふたばこ「(唐糸を押さえつけながら)恐縮です」



この場に、やっと見回りに出ていた秩父ちちぶの重忠しげただたちが帰ってきました。「報告いたします。…しかし、これは? 何が起こったのです」


頼朝よりとも「それはあとで説明しよう。まずお前の報告を聞かせよ」


重忠しげただは、別室で、さっきあったことを余さず報告しました。すなわち、外にいたのは清水しみずの冠者かんじゃ義高よしたかの本物で、自分たちが知る義高よしたかは影武者であったこと、義高よしたかは妖術を使うこと、義高よしたかへの復讐を誓った男・猫間ねこま光実みつさねを自分がひそかに子飼いにしていたこと、またその光実みつさねが、もともと自分の家宝であった黄金の猫の像を取り返したこと…


重忠しげただ義高よしたかのことは、本当のことかどうかが確信できませんでしたので、ウラが取れるまでは殿への報告を控えていたのです。しかし、さきの西行どのがくれたヒントによって、この光実みつさねは本当のことを言っていたのだと分かりました」


頼朝よりとも「うむ、西行の『ヒント』にはオレも助けられた… で、その義高よしたかはそれからどうした」


重忠しげただ「彼の使う『妖術』とやらの正体が分からぬうちは、うかつに戦いを仕掛けるのはリスクが大きいと判断しました。さしあたっては知らんフリをして見逃しましたが、もちろん、妖術を破る方法を調べたら、そこで攻勢に出るつもりです」

重忠しげただ「そして今は、その妖術を破る方法も手がかりを得ました。光実の得た『黄金の猫』は、ネズミの力を弱める力があるそうです。義高よしたかの妖術は、どうやらネズミの神に由来するものらしい。そこでお願いですが、あのネコの像を、光実みつさねに取らせてやってください。彼がいちばんあれを活用できる」


頼朝よりとも「うん、いいだろう… ところでこのことは、大姫おおひめ政子まさこには絶対に知られるなよ。特に大姫おおひめは、この話には耐えられんだろう。オレは彼女の命を失いたくはない」


重忠しげただ「ははっ、決して」


頼朝よりとも「さて、お前の話と、さっきオレの身に起こったことは、つじつまが合うな… じつはあの唐糸からいとは、木曾きその生き残りだった。オレの命を狙っていたのだ」


重忠しげただ「な、なんと」


頼朝よりとも「あれを営中の勤めに紹介してきたのは、石田だったな… あいつが単に唐糸にだまされてこうしたのか、それとも一味となってオレを害する目的があったのか… それを何より先にたださねばいかん。重忠よ、すぐに石田をここに引っ立ててこい」


重忠しげただはハッと一声(心なしかうれしそうに)答えるとすぐに建物を出て、そこで待っていた猫間ねこま榛澤はんざわに、石田を捕らえるよう命じました。二人は飛ぶように走って石田の宿舎に向かいました。


これを見守って重忠しげただはふたたび戻り、次は唐糸からいとの尋問にかかります。「共謀者がいるはずだ、それを吐かずにはすませんぞ。お前は義高よしたかのために殿を暗殺に来たのか。石田いしだ為久ためひさとの関係は」


唐糸からいと義高よしたかさまが生きていたなど、そんなことは何も知らぬ。石田いしだだと、あんな愚か者を共謀者になど選ばん。ただ、ちょっぴり脅しすかしをかけて、ここに紹介してもらう手がかりには使ったがな。そうそう、石田あいつの家来の光澄みつずみは私が殺した。直接義仲よしなかさまの首をとったのがあいつだったので、その意味では少々の敵討ちはさせてもらったわ」


唐糸からいと「さあ、とっとと殺せ。婿舅むこしゅうとの義を忘れて、罪なき義高よしたかさまを殺そうとする愚将、頼朝の犬、重忠しげただよ。ボスの愚行を諫めることさえできぬなら、お前は家臣などではない、犬じゃ。怒ったか、怒ったなら、はやく私を殺せ。主君の恩のために戦って死ぬ、そのことに何の後悔もない!」


唐糸はここまで一気にしゃべると、今度は一転して口を閉ざし、それからは何を聞いても一切口をひらきませんでした。


頼朝はこの報告を聞いて、怒るどころか感心しました。「なるほど、敵ながらすさまじい忠義だな。どうも、殺すには忍びない。牢をこしらえて、当分閉じ込めておけ」

重忠もこの意見に賛成でした。「ははっ!」



明け方ごろに、石田を捕らえにいったはずの猫間ねこま榛澤はんざわが戻ってきました。「宿舎はもぬけのカラでした。誰もいません」


重忠しげただ「逃げたのか、あいつは」


榛澤はんざわ「まわりの住人に聞き込んだところ、誰かがこっそりと石田の宿舎を訪れて、なにか入れ知恵をしたようです。それから急に家のなかがバタバタし、その後のことは知らない、と。『唐糸からいと』という名前が会話の中に聞こえたそうです。すぐに追おうとも思いましたが、時間も経ってしまいましたし、まずはここに報告を、と」


重忠しげただ「よくわかった。ふむ、誰かがここでの事件をいち早く知って、石田を逃がそうとした、と考えるべきか。石田め、これで逃げるということは、やはり後ろ暗いところがあったのだな」


榛澤はんざわ・猫間「改めてあいつを追いますか」


重忠しげただ「いや、放っておこう。あいつに告げ口をした男が、が問題だ。部下が命をかけてくれるほど、あいつには人望がない。むしろ、あいつを殺そうとして、秘かにどこかにおびき出してやろうという人間のほうが、ずっとたくさんいそうなものだ。たとえば、それこそ、義高よしたかとかがな…」

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