第5話最期まで母を愛した男

 父の名前は鈴木・J・トニー。米軍の父と日本人の母との間に生まれたハーフだった。

 国籍はアメリカだが、アメリカに住んだことは一度もない。

 軍の一員として日本での任務が終了した際、母国を離れたくない一心で祖母が離婚を切り出した。

 彼女の強い望みを曲げることが敵わず、祖父は単身アメリカに帰国した。

 以降、父は祖父の消息を知らさていない。

 すでに新しい妻と孫に囲まれて過ごしているのではないか、と私は思う。

 もしも父が今も生きていたら、同じ生活を送っているはずだからだ。

 父は「なおこ」を指名直後、熱心なアピールを始めた。

 当時すでに結婚し、家庭を持っていながら。

 なおこが父の何に惹かれたのかは分からないが、やがて店外でも会うようになった。

 なおこはトニーを一人の男性として、家庭を持っていることを承知で認めた。

 トニーも、なおことすみれという二つの顔を受け入れ、やがて二人の間に子どもができた。

 それが私だった。

 私を身籠ったことで、二人の意見のぶつかり合いが始まった。

 トニーは当時の妻と別れ、すみれの夫となることを強く望んだ。

 けれどすみれは、トニーに私の他に子どもがいることを知り、彼の結婚の申し込みを拒んだ。

 すみれという善意の残っている母性が目覚め、彼の妻に不便をかけさせたくないというのがたった一つの理由だった。

 まだ名もない私には唯一無二の母親が存在する。

 すみれが私を失うことは、よほどの不運が起きない限り低い確率だ。

 また、すみれ自身はすでに独立、開店し経済的に自立していた。

 けれど顔も知らない女性が養い手を失えば、子どもが路頭に迷うことになる。

 やがて子どもは餓死してしまう恐れがある。

 貧しい家に育ったからこそ、すみれには安易に見えるビジョンだった。

 すみれが強く訴えても、トニーもまた自分の意見を変えなかった。

 二人の意見が一致しないまま、すみれの腹部は大きく膨らんだ。

 男の子ではない、と医師に断定されるほどに。

 すみれは私に洒落た服を毎日着せ替えすることを夢見て、ベビーショップでのショッピングの帰りだった。

 自宅の固定電話が鳴った。

 すみれは耳を傾けた瞬間、なおこの顔に切り替えた。

 スタッフの女の子から恋の相談を持ちかけられると予測したからだ。

 受話器を取ると、甲高い声ではなく、煙草で枯れた、地面を揺らすほどの低い声だった。

 「なおこさんですか?」

 「どなた?」

 公共の電話帳には、本名の安田すみれと記されているはずだった。

 すみれの名を源氏名であるなおこと連結できる人間は限られている。

 警戒してすみれもまた、声をできるだけ床に突き刺した。

 「何度か、鈴木の席に同行したのですが。警視庁の渡部と申します。なおこさん……いや、安田すみれさんにお伝えすべきことがございます。その前にご注意を。このお電話は、私が個人的にかけているので、どうか本部に赴かないようお願いいたします。鈴木の妻が今、こちらにいらっしゃいますので」

 「……トニーに、何かあったのですね?」

 すみれは、ワタナベという男の鼻を啜る音を感知した。

 このとき、胸騒ぎが一日ほど治まらなかったと、二十年以上先の私に語った。

 俗世のことを何も知らなかった私が、胎動の中で無邪気に寝返りを続けているだけだと信じたかったようだ。

 男性である渡辺は、身重の女性の心情など理解できなかった。

 だからこそ、一本の電話をすみれにかけた。

 「鈴木はある組織の捜索を担当していました。が、残念なことに、彼は任務の途中で殉職しました……もしもし? すみれさん? もしもし?」

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