二、

 

 平蔵は、東北の小国伊月いづきノ国で武家奉公人の息子として育った。


 武士ではなく、さりとて農民でもなく。

 ひたすら仕える主のために、その身を投げ出すものであると教え込まれた。

 しかし平蔵にとってはどうでもよく、ただ野山を駆け回り怒られる日々だった。


 下賜される食い扶持が少なく、己で食べる糧を作れる農民よりも赤貧の生活をしていたからかも知れない。

 羽織袴にきまじめな顔で城へと出仕するが、農民に威張り散らす武士にいい感情を持てなかったのもあるだろう。

 野獣や虚神から民衆を守るために存在していたとしても。


 ただ、武士が一つだけうらやましかったのは。


「剣術が、やりたくてな」


 北方には野獣や魍魎もうりょうも多く、血の気が多い民族性のせいか剣術道場が多かった。武家に大して興味がなかった平蔵も、剣術にはあこがれを持ち、こっそり道場を覗いては、自分で削った木の棒を振り回していた。

 厳然たる身分の差があった伊月では、剣術道場は武士だけのものだったのだ。

 それが平蔵の生きがいだったが、それだけであれば武家奉公人の息子として一生を終えるはずだった。


 転機が訪れたのは、十四の時だ。

 国内に、虚神憑きが現れた。


 力を持たない民に取って虚神憑きも虚神も天災のようなものだ。

 村が一つつぶれ、民を守るのは武士の役目であると出陣した平蔵の主君が戦死した。

 

 力だけはあると連れて行かれた平蔵は、初めて見る虚神を前にして恐怖を覚え、生き残るためにただがむしゃらに主君の刀を振り回した。


 その、虚神を断ち切ったのが、白い侍だった。

 まだ雪の季節には早い時期だった。戦装束が白いわけでもなく。


 ただ早く、ただ清冽で、ただ冴えていて。


 虚神を断った、澄み渡るような太刀筋が、何者にも侵されることない純粋さを帯びているように思えたからだろう。

 二十ほどの青年であるにもかかわらず、引き連れていたどの武芸者よりも、剣が美しく強かった。


 それが、伊月の国を治める浪波なみわ家次期当主、浪波なみわ雪宗ゆきむねとの出会いであった。


「俺ぁ雪宗様の役に立ちたかったんだ」


 いつしか女がいることも忘れ、平蔵はとりとめもなく、言葉をこぼしていた。

 この方のために剣を振るいたい。初めて思ったのが雪宗だった。


 だがただの武家奉公人にとって、浪波家を背負い立つ雪宗は雲上の人間である。

 言葉を交わすことはおろか、その姿を目に収めることも一生ない。

 わかった上で、平蔵は目標と出来るものを見つけて満足だったのだ。


 しかし、そんな平蔵に、城への奉公の話がきた。

 雪宗直々のお声がけだというそれに、平蔵も両親も耳を疑ったものだ。 

 なんでも虚神征伐の折に、若いながらも奮戦した平蔵の才覚を買ったのだという。


 そのような雲上の人間に気に入られたのなら、平蔵などに選択肢はなく、雪宗の小姓として半ば強制的に城へ住み込むこととなった。


 その時に雪宗に賜ったのが真砂まさごの姓だ。

 己の足りないところを、隙間なく埋めて欲しいから、と由来を言われた。 


 平蔵は、雪宗の計らいで念願の剣術道場に通いながら、彼に仕えた。

 武家奉公人から武士となった平蔵には様々なやっかみが襲い掛かってきたが、すべて己ではねのけ、一番近いところで雪宗を見つめていた。


 雪宗は驚くほど腰の低い主君だった。

 聡明な頭脳で政を見通し、細やかな心配りをしていた。

 さらに家臣から、武家奉公人、果ては野菜を届けにきた農民にまで分け隔てなく接し、民衆から慕われていた。


 彼は、努力の強さを持つ人だった。

 体が許す限り刀を振るい、一度勝負となれば負けなしだった。

 にもかかわらずイチイの木の下で、平蔵と共に刀を振るっていた。


 そして、悲しいほどに体が弱かった。

 一年の半分を床で過ごし、起きあがってもなお倒れることが多かった。

 剣の鬼だとたたえられながらも、その体の弱ささえなければ当主としてすでに立てていただろうにと、家臣を始め、市井の人間にまで言われるほどであった。


 これほどまでに君主にふさわしい人は居ないだろうという思いは日に日に深まったにもかかわらず、雪宗の体が許さなかったのだ。


 故に、健康であり、武芸に秀でていた次男の宗勝むねかつを当主と推す一派が生まれた。

 宗勝は確かに武芸に秀でていたが、思慮が浅く、粗暴を絵に描いたような男であり、到底当主には不適格な存在だった。


 何より悪かったのが、当主である宗知むねともが、次男である宗勝をかわいがっていたことだ。

 故に本来であれば長子相続になるにもかかわらず、侃々諤々の論争が巻き起こり、城内は雪宗派と宗勝派で真っ二つに割れ。

 当主が病床についたことで一気に吹き出した。


「雪宗様のためなら、何でもやる気でいたんだよ。だから、言われるがままにやった」


 きっかけは、雪宗が暗殺されかけたことだった。

 賊は平蔵と側付きの者たち、何より雪宗自身によって撃退されたが、多くの犠牲が出た。

 平蔵も義憤に駆られたが何もできるわけがない。

 しかし、そんな折、雪宗派であった家老から命じられた。

 雪宗を無事に当主へ着かせるために、障害を切って捨てよと。すなわち、暗殺だ。


 側付きになったことで武士の仲間入りをしても、圧倒的に身分が足らない平蔵に、家老は雪宗の側近の座を約束してくれた。

 ひとの命など奪ったことはない。しかし雪宗を支えるには身分が必要だ。

 未だ十代だった若い平蔵は、家老の話に飛びついた。


「ふうん、それは聞いてなかったな」

「俺は、斬った。斬って斬って斬りまくったさ」


 奇妙な相づちであったことも気付かなかった。どこまで声に出して、どこまで思考なのか曖昧だった。


「雪宗様を除くと、俺が一番腕が立って存在が知られていなかったのも、好都合だったんだろう。まずは、雪宗様を殺そうとした一派を。次に宗勝派の中で発言力のある人間を。人の息の根を止めるのはあっけないほど簡単だった」


 そう、雪宗を相手にするよりずっと楽だった。

 どんどん政敵は減っていき、そのたびに平蔵の心は重くなったが、雪宗のためになるならと言われるがまま刀を振るった。

 それで良いと思った。

 命じられる敵の中に、商家の旦那や身分のそう高くない者が混ざっていたことにわずかに違和を持ったが、宗勝派の勢いが衰えていたことで目をつぶった。


 そして、当主が病死したことで当主の座は雪宗に決まり、平蔵はこびりついて離れない血の臭いをまといながらも安堵した。

 これで、雪宗による平和な世が来ると。


「今思えば、笑えるほど甘い考えだったさ。暗殺を企てるような野郎が、多くを知りすぎた人間を生かしておくなんてあり得るわけがねえのに」


 若き頃の自分を思い出し、平蔵は自嘲する。

 平蔵に与えられたのは、おびただしい鉛玉だった。

 家老は多くを知りすぎた平蔵を消しにかかったのだ。


 刀で自刃すらさせてもらえなかった。

 元は武士ではなかった。それだけで。


 全身を貫く激痛と物のように扱われる屈辱と、命が失われる恐怖と、無残に踏み砕かれた名状しがたい絶望が全身に染み渡る。


『殺し過ぎた貴様は、雪宗様の重荷となる。ここで野垂れ死ぬのが似合いだ』


 ならば初めから言ってくれれば、己で死んだというのに。 

 家老が政敵だけでなく、目障りな存在をすべて平蔵に始末させていたのだと、やっと思い知ったが奇妙に安堵もしていた。

 一連の暗殺は、すべて平蔵と家老の間でなされていた。

 雪宗が知らないのなら、それでいい。そう思った。

 


 にもかかわらず、雪宗は現れた。

 上等な着流しで。

 鞘神の宿っているはずの刀を携え、虚神を取り込んだ証である、額に二本の角を生やして。



 あの澄み渡った太刀筋で平蔵を撃った家臣を撫で斬りし、首謀者であった家老を冷徹に切り刻んだ。

 そして雪宗が朗らかに笑う姿を見て、平蔵は己が間違えたことをようやく思い知った。

 雪宗が当主の座など望んでいなかったことを。

 ただ、穏やかに暮らせればそれで良かったのだ。


 雪でぬかるんだ泥の中で、絶望のままに意識を失った平蔵は、あれだけの傷を受けながらも生きていた。

 誰に助けられたかはついぞわからず、虚神狩りが見つけた時には、最低限の処置がされていたのだという。

 咎人であるものの虚神案件と言うことで保護された平蔵は、動けるようになってすぐに逃げた。

 当てなどなかった。ただ因縁のない土地へ、少しでも遠くへ行きたかった。


 逃げに逃げた平蔵が、数年経ってから聞いた話だが。

 雪宗は虚神狩りを何人も返り討ちにしたのち、討伐されたと言う。

 虚神狩りでありながら虚神に堕ちた咎をうけ、浪波家はお取りつぶしに、伊月の国は新たな大名によって統治されているらしい。


 雪宗が愛した国の姿はもうどこにもない。


「だから、俺は、武士になれねえ」


 また杯を傾けた平蔵は、それだけは強固に主張した。

 私利私欲に走り手を汚さずに事をなそうとした家老も、己の頭で考えずただ従うばかりだった家臣たちも、武士と呼ばれた者たちは皆醜悪だった。

 こうはなるものか、と思った。


 しかし、主が堕ちてしまったことすら気付かず、踊らされた自分が一番許せなかったのだ。


 だから死にぞこなった悲哀と屈辱の中で、誓った。

 もう二度と、誰に対しても、魂まで明け渡すものかと。


『おまえには、自由に生きて欲しい』


 たとえ虚神に飲まれていても、誰よりもあこがれた人にそう願われたから、生き恥をさらしている。

 それが、守れなかった主へのせめてもの手向けだと思ったからだ。


 そして刀を捨てた平蔵は、流れ流れてここまできた。


 虚神狩りの傘下に入ることは、平蔵にとって最も許せない事だったのだ。


 だからさやを手放した。

 

 平蔵にとって、刀は武士の象徴だった。だから、彼女の名前を知ってもよばなかった。いつまでも手元に置く気がなかったからだ。

 これでよかった。己の信念に従い、満足のはず。時間が経てば気にも留めなくなるはずだ。

 にもかかわらず、平蔵は胸の重さを洗い流すように再び酒をあおる。


「てめえが知っている武士がクズだったから、なりたくねえ。主君を裏切っちまった

からてめえの理想とする武士にもなれねえ、ってことか」


 ほむほむ、といっそ気楽な相づちを打たれ、平蔵はのろりと顔を上げた。

 今更、聞き役がいたことを思い出したというのもある。

 女の金の髪が行燈の光を反射していた。


「面白くもねえ話だ」

「確かにね。意味もねえことで悩んでるじゃないのさ」


 平蔵が持っていた猪口が割れた。

 殺気混じりに睨んだが、女は全く取り合わず、くいと猪口を傾ける。


「だって、おまいさんが気にしてるのは、別のことだろう」

「なに」

「形にこだわるからいけねえ。人間なんて型にはめられることの方が少ねえんだ。武士じゃなくったって、力がありゃあうろを斬ったってかまわねえし? そっちの方が面白かろうに」

「だが、刀は」


 武士しか持ってはいけない。そう決められているが。


「なに言ってんだい。わっしが創り出したとっときに気に入られた癖してよ。それにわっしは聴いたぜ。あんたが願った形ってやつをさ。おまいさん、本当に武士になりたかったんかい?」

「一体、なんのことだ」

 

 そう言いつつも、なぜか胸に浮かぶのは、赤い振袖の童女の姿だ。

 平蔵が改めて女の顔を見れば、異相の女はおかしげに笑った。


「おんやあ、この顔は忘れてるのかい? 良い思いを分かち合った仲なのに」


 つややかな赤の唇が弓なりに弧を描く。

 その、色合いに平蔵は既視感を覚えた。

 以前にもこの色合いに出会ったような。


「おまいさんは、一体なにになりたくて、どうありたかったんだい?」


 そう、ずっと昔。同じ事を訊ねられた。

 封印していた記憶が蘇る。


 恐ろしい、と思っているはずなのに目が離せず。

 華奢な女の腕程度、追い払えるはずなのに、明かりで琥珀色に光るまなざしに射貫かれて、必死に取り繕って、隠し続けたものが暴かれた。


 あの時の己は、なんと答えたか。

 ごちゃごちゃと考えていなかった気がする。

 そぎ落とされて、単純で簡潔な答えをあの時だけは、口にした。


 行灯の揺らぐ明かりの中で、つややかな赤の唇が弧を描いた。


『いいねえ、気に入った。おまいさんに、とっときの鞘をつくってやろう。抜き身の刃のような魂じゃ、生きづらかろう?』


 低い響くような声音に考えることを放棄して、ただ柔らかい感触と熱に溺れた。


「んふ、その面。どうやら、あの頃と変わってないみたいだねえ。ならもうちいと、見守っているよ」

「てめえ、は……」


 琥珀の瞳が、鮮やかに煌めく。

 酔いが覚めかけた平蔵が開きかけた唇は、女のそれにふさがれる。


 強い酒精を感じたとたん平蔵の意識は落ちていた。

 

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