紅葉と紺色の狐4

 坂本は奥さんとキッチンで戸棚に皿を仕舞ったりしながら「休日なのに働かせてしまって気の毒だわ」「いいんですよ。これくらいはサービスですから」といった会話をしていたが、お湯が沸くと紅茶を淹れて盆で寝室に持ってきた。キャスタ付きのテーブルを四人で囲むようにして僕が席を奥さんに譲った。ドルトン・カーライルのセット。フルーツティなのか少しストロベリの風味がした。ティ・タイムの話者は鷲田大将で、僕を知っていたという話を繰り返した。女性陣にとっては新規の話題にしても僕は楽しめない話なのだから、いくら偉人とはいえ老人らしいところもあるのだなと感じた。

 それから坂本はまだ伝えていない事情がいくつかあるのだと家の人に言って僕を中庭に連れ出した。構造的に中庭ではなく屋根の付いたサンルームだろうと思っていたのだけれど、果たして青天井だった。これじゃ雨の日は結局部屋干しだなとどうでもいいことを考えた。リビングと寝室廊下側のカーテンは内側から閉めてもらって、南側の眺望だけが残った。ベランダにしなかったのは風があるからだろう。中庭は四方が壁なので全くの無風だった。そのくせ日当たりが良いのであまり寒さは感じなかった。僕らはデッキチェアに座ってセットの丸テーブルを挟んで向かい合った。

「彼はもう長くないわ」坂本は言った。テーブルに乗せた腕を組むようにしている。「心臓が弱っているんだって。広義の狭心症なんだけど原因が色々なのね。冠状動脈硬化と大動脈弁硬化、あとは多少の心室拡大。冠状動脈のバイパスをするにしても効果があるのかどうか、という状態ね」

「家政婦なのに、よく聞いているね」

「そう、耳が良いから」坂本は中指で耳たぶを指した。ピアスはしていないように見えた。「今日は来ていないみたいだけど、軍の高官が意見伺いに来るんだ。結構しょっちゅうだよ」

「移植とか、義心化は考えてないの」

「それは彼自身が拒否したんだ。人間の尊厳とはそういうものだという考えをお持ちでいらっしゃるみたい。とすると、でも、噛み合わないのよね。窩をつけるだなんて言っているんだよ」

「窩って、これ?」僕は首をがくっと前に出して頸筋を坂本に見せた。

「そうよ、それよ」

「どうしてまた窩なんか。手術だけだって馬鹿にならないくらい危険なのに、なんでそんなことをするんだ」

「君がいずれ関係者になる立場だからこそ言うことだけど、彼の考えるところでのいわば自傷行為は、彼自身の定める罪の範囲でのみ行われる、ということなんだろうね。平たく言うと、彼の心理は一九四四年から四五年にかけて特攻機を送り出した隊長たちと同じなんだよ。彼は肢闘オペレータたちに対する罪で深く自責している。軍政にかけあってもともと肢器と呼ばれていたのを肢闘として積極的に戦闘軍用化したのも、オペレータを増やしたのも、研究施設移転を進めて今の紛争を招いたのも、全部自分の責任だ、とね」

「じゃあ、窩をつけたら、自分で肢闘を操縦して、戦場に出て、そこで花と散るというつもりというわけ? そうすれば東の強硬派だって虚勢を張れなくなって西の絹川大佐が事態を収拾してくれる。まあ確かにそうだろうね」

「そういうことだ」

「そんなの贋に対するこの上ない侮辱じゃないか。あんな震える手で乗ったって機械に整理されてしまうだけだ。整備士がコントローラで動かす方がよっぽど巧く動く」

「ねえ、でも、そんなのは侮辱だ、あなたは間違っているって彼に向って言えるの?」

「言うさ」

 僕の即答には坂本もさすがに驚いたようだ。「本当に死のうとしている人の決意は簡単に揺らがないよ。エゴだからね」

「知ってるよ」

 坂本はそれ以上言わなかった。今しがた鷲田将軍の語った僕の昔話を思い出したのかもしれない。

「身体機械投影器の接続窩を設ける手術を受けられるというお話、本当ですか」

 僕が寝室に戻って言うと鷲田大将は僕が最初入ってきた時と同じようにこちらを見た。そして書見に戻って「ああ、千加ちゃんはその話をしていたか」と言った。少なからず白々しい口調に聞こえた。「君を不愉快にさせることは重々承知だ。しかし老人の我儘を一つ、聞き入れてはもらえないかね」

「我々と同じ立場になろうとするよりも、あなたに定められた立場を認めて最後まで我々を正しい方へ導く努力をしてほしかった。そう思います。多くの贋がそう思うでしょう」

「私もそう思います」鷲田大将は改まった口調で僕に顔を向けた。本を閉じて眼鏡を置く。「君たちのために最後まで尽力すべきだと思います。でもそうして役目を全うしたとしても、私がこんなあまりに平凡な死に方をすることはどうしても認められない。私の生は確かに生者である君たちのためにあるけれども、生と死の間にあるその瞬間、形というのは同時に死者に対する行いにもなりうるのです。ですから、私の死に方はこれまでの多くの理不尽な死に寄り添った形でなければならないと思うのです」

「だとしても、肢闘の中で死ぬことはあなたの運命上絶対にあり得ない。贋が人間としての死を選ぶことができないのと同じです。それを演じようとすることはあまりに失礼で侮蔑的で――」

「ユウ」鋭い声で坂本が呼んだ。彼女は僕が言葉攻めにするのを後ろに立って聞いていたが、さすがに痺れを切らした。「いい加減になさい、おまえには分別というものがない」

「分別って……」僕はそこではじめて鷲田大将が息を荒くしているのに気付いた。迂闊だったのは僕の方かもしれない。結局、誰に対してだって通用する論理なんてありはしないのだ。誰もがどこかで一度くらい自分のことを否定しなければならないのだ。「ちょっと頭を冷やしてきます」

 僕は敷地の外まで出て、正面の空気に一発、空手式の突きをかました。肘と肩が少し痛かった。誰も追いかけてこなかった。タブラを出してタリスのブラウザを画面いっぱいにして額の上に掲げた。

「なんなんだ、人間って」

「時に冷静ではいられないものですよ」

「時に冷静でいられないのが人間?」

「よりによって今回最も人間的だったうちの一人があなたです。よほど桑名スガルのことが気がかりだったのですね? しかしあなたにとってのスガルと鷲田さんにとってのスガルは全くの別人です」

「もう僕のことなんか見捨てる?」

「いいえ、私は満足ですよ」

「なぜ?」

「贋と人間の違いを挙げるのは簡単です。しかし境界線を見つけ出すのはそれよりは難しいでしょう」

 僕は煙草に火をつけてゆっくり吸った。心が落ち着くように上を向いてじっと煙の形が刻々に変わるのを眺めていた。

 桑名が死んだ次の朝、僕は拘束されてから牢屋に連行される前に現場で医者の簡単な検死に立ち会った。桑名は宿舎の自室で死んでいた。布団の上にうつ伏せになり、背中まで毛布がかかっていて、顔は左を向いて枕の上にあった。自分で首を切って、傷口から迸った血が床から壁までまっすぐに飛んでいた。朱墨をたっぷり含んだ筆で散らしたようだった。暖を取るためのストーブが布団の横にあって、これも血を被っていた。電熱器についた血がまだ時折垂れていた。小さいナイフも血の中にあった。

 医者は五十歳前後の太った近眼の男で、「ああまたか」とぼやいて部屋に入り、略式に手を合わせた。僕は一度もやらなかった。彼は大判の眼鏡を上げ下げして桑名の体を観察した。

「君が目撃者? そう、誰かに見届けてもらおうなんてねえ、僕も初めてだね」彼は血溜りを避けてしゃがみ、桑名の手を持ち上げてみたりしながら語った。けったいなもんだという口振りだった。「心中というならわかるけど、まあ、一人で行くんなら普通はコクピットとか、とにかく隠れてやるもので――」

 医者が喋ることで自分の気を紛らわしているのは理解できた。けれど僕は聞いていて気分がすごく悪くなった。桑名の表情がもう少し穏やかでなかったら、我慢できなかったかもしれない。

 桑名の死は特別ではなかった。自殺はありふれていた。ある死もある命も等価なのかもしれない。僕は桑名を見つけられなくなるのが嫌だった。

 火を消して香水を浴びて戻った。坂本が玄関の風よけを頼りにして待っていたけど、僕が下を通る時もスロープを上がる時も何も言わなかった。

 僕は自分が言論的に特権的な立場にはなかったことをきちんと理解していた。僕の言ったことは間違っていなかったと思う。けれどそれは「おまえにそんなことが言えるのか」と言いたくなる周囲の人情を一切無視した、自分のことを棚に上げたの発言だった。誰より自分勝手をしようとしているのは確かに鷲田大将かもしれない。けれど僕はそれで感情を害されたからといって、また相手の気分を害してまで反論する必要はなかった。人間の社会というのは、たぶん、そうやって誰かのエゴをみんなで黙認していくことによってどんどん汚れていくのだろう。

 僕が素直に謝った時には鷲田大将も坂本ももう怒ってはいなかったが、それが逆に僕の決まり悪さを助長した。

 鷲田大将を起こして車椅子に移し、リビングに移動して昼食にする。麦芽入りのコッペパンにブロッコリやニンジンなど温野菜のグラタン、マカロニのスープ。コッペパンというのが素朴で意外とよかった。グラタンのチーズによく合うのだ。

 僕は食べる間時計を気にしていた。壁に掛かっているのが表示のない針だけのアナログ式でしばらくじっと見つめて随分苦しみながら読んだ。誰かに訊くわけにいかないし、食事中にタブラを覗くのも行儀を疑われそうだった。

 鷲田大将は僕を相手にして肢闘に乗るのがどんな感覚か参考にしたいというのでいろいろと質問をした。僕にとっては生身を動かすのも機体を動かすのも大差ないことなので人間には有効な説明が難しいと思っていた。気乗りもしなかった。

「肢闘はこちらの動かしたいイメージを拾ってくれるわけではないんですよ。あくまでここまで来た神経信号をそのまま拾うんです。ですから、動くなと命じても止めようのないもの、反射ですとか、そういった動きはそのまま反映されてしまうんです。痙攣は筋肉の勝手な動きだから別ですが、微妙な震えなどはきちんと拾います。肢闘の操縦が贋の専売特許になるのはほとんどそのせいです。たとえ窩があっても手の震えてしまう人間には照準がつけられない」僕はスープ皿を右手で持ち上げて実演して見せた。坂本や奥さんも興味深に覗き込んだ。「ほら、ちっとも表面が揺らがないでしょう。肢闘で戦うにはこれが必要なんです。神経のノイズなんて機械でマスキングしてしまえばいい、そう思うでしょう。でも、震えによる仰角一度と意志による仰角一度、機械にはその判別がつかない。せっかく投影器を介して細やかな動きを再現できるのに、その意味が全然なくなってしまう」

 話の中で奥さんが主人の手術に賛成していないということもわかった。「窩がないと肢闘というものは動かせないものですかね」と訊いたからだ。

「いいえ、動かすことはできます。現に僕の基地でも整備で必要な時には整備士が遠隔操作で移動させます。動き次第では性能も制限されません。例えば、走らせることも」

「それでも肢闘があなたたちを必要とするのが科学の要求というものですか。肢闘という器が最も適切な操縦法を提示したのではなく、投影器という手段が肢闘という器を求めたのだと、確かあなたはそう言いましたね」

 鷲田大将は肯いた。「そう難しい言い方をするものではない。肢器は人間の可能性の第一段階だよ。だから人の形を真似て作られた。贋は肢器に適応した人間の分身だった。確か私はそう書いたんだ」

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