紅葉と紺色の狐1

 日曜の朝に下宿に戻ると二階のベランダに人影があってちょうど隣人のロシア人が鉢植えに水をやっているところだった。僕がはきはき挨拶をすると、片手を重そうに擡げて返事をした。「彼女の家?」

「そうだよ」僕は植え込みでお互いの姿が見えなくなる前に立ち止まった。下宿の敷地外で、駐車場の前あたりである。

「単車が置いたままだったから、何か別件だと思った」

「そうだ、頼まれたもの、買ってきたけど」

「あ? もしかして口紅?」彼女はそこで猫みたいに背筋を伸ばした。

「そう」

「その辺から投げてよ」

「庭に?」僕は聞きながら歩き出して玄関の前を左手に入ろうとして足を止めた。物置きの通路のようなところを通って狭い庭に出るようになっているのだけど、気が進まなかった。屋根がかかるので相手の見える高さまで屈む。「そっちは嫌だな。雑草の種がくっつきそうだから」

 上で待っていた隣人は舌打ちをして奥へ引っ込んだ。僕も玄関へ戻って靴を脱いだ。階段を上がろうとしたところで吹き抜けの上に白い顔が見えたのでびっくりした。すごく細長い鼻の穴だ。

「投げなさいって」

「どうして? 割れたらいけない」

「近くに来ないでよ」

 多くの美人に共通するようにこの人もすっぴんの方が綺麗だと思うのだけど、あるいは男に殴られたとか泣かされたとか、とにかく顔を見せたくなかったのだろう。「僕、目は良いんだけど」とは言ったものの屋内はほとんど日陰であまり判別がついていなかった。

「いいから」

 僕が優しく放ると彼女も危なげなく箱を手にした。

「ありがとう。お代は明日までに貰ってくるから」

「え、別にいいのに」

 僕は階段を上がり、彼女は部屋に引っ込む。扉が閉まっていても会話くらいできる。

「馬鹿、客でもない男から貢がれたりしないわよ」

 実際十以上年齢が離れているのだし、子供扱いされるのは毎度のことで慣れていた。そんなことより、佳折から挨拶の言葉について厳しく言われていたせいか、この時「ありがとう」と言われたのに妙な感心を覚えた。

 冴のプレゼントは三堂のに二人の万年筆と短い手紙を合わせて、月曜日に基地で軍事便の手続きをした。できれば冴の誕生日に、そうでなくとも三四日中には届くだろう。どちらにしろ、経験からして先に着いてしまう心配はない日程だ。手紙にはまた改めてきちんとしたものを送りますと書いた

 それとほとんど行き違いに、戦闘があった日に安否確認の電信を送ったのだけど見てくれましたかという葉書がハルビンから届いた。もし届いているならできるだけ早くお返事ください、心配していますと書いてあった。電信は次の日には届いていた。向こうが気にするだろうなという戦闘があった時には電話をかけるように心掛けていたのだけど、灘見の一件ですっかり忘れていた。葉書の日付は十一月二十五日になっていて、十日ほど経っていた。こちらからの荷物が届くのにも時間がかかるかもしれない。

 火曜日の朝にはタリスが行けと言うのでそれまで使っていた一台目のバイクホンダ・CB250を買ったディーラに行った。見慣れない高級なバイクが置いてあったので訊いてみると、僕が何の用事もないのに来たのを店側も訝しんで、売約済みのですが、キサラギ様では、と訊いた。僕はスワノだが、と思ったが、タリスが声を上げた。「ユウ、プレゼントですよ」

 僕が横須賀の仕事に新車のトライアンフ・デイトナ675Rで行ったのはそういうわけだ。

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