29.仕事と私、どっちが大事?

 今、ここから。あの時を始めるという圭太朗の言葉。『離婚してくれ』。

 元妻、菜摘の顔色が変わっていく。

「圭太朗、私はずっとあなたを待っていた記憶しかないのよ」

「記憶を失っていることで、俺には努力をさせてもらう時間も機会も奪われた。十八年前の気持ちに戻れると思うのか」

 菜摘が黙った。

 彼らから離れたカウンターから梓はハラハラと見守っているが、目の前でオレンジティーを煎れている輝久叔父はじっと黙って手元に集中している。

「私のいまの気持ちはどうなるの? 嘘偽りないものなのよ」

「では、そこから話し合おう。船乗りの夫である俺の帰りが待ちきれない妻とは結婚生活は続けられない。そういう結論がすでにあの時にでていたのではないか?」

 毅然としている圭太朗の揺るがぬ言葉は、彼女が里見氏と留守の間に会っていたことを密かに追求するものだった。

「記憶にないんだけれど……」

 菜摘の悪びれない表情に、圭太朗の苛立ちが滲みでるのが見て取れた。

「記憶にないで済むと思っているのか。里見さん、貴方と菜摘は確かに会っていますよね。事故の記録もある」

 里見氏は顔向けができないのだろう、うつむいて圭太朗の顔を見られない様子だったが『はい』と素直に答えた。

「会っておりました。貴方の留守が長く一人で苦悩している彼女の苦しみを和らげたかっただけです。やましいことはありませんでした。ありませんでしたが……結果的には圭太朗さんに不義となる形を取ってしまいました」

 里見氏がいまこそ――とばかりに認めた。圭太朗も初めて認めてくれたとばかりに、十八年前の苦渋を思い出したのか表情を歪める。里見氏も続ける。

「ですから。菜摘が圭太朗さんと離婚したことを覚えていなくとも、こちらに非があります。私どもがどのような状態に落ち着こうとも、圭太朗さんには関係のないことになるはずなのです」

「ですよね。おわかりなら二度と私には接触しないでいただきたいです。そもそもそちらのご希望でしたでしょう。結婚するのだから二度と近づくな、子供が出来たからもう近づかないでほしいと、話し合いの場も持たずに強引に離婚を迫ったのもそちらですよ」

「申し訳ありませんでした。私は、本当に彼女を幸せにしたかっただけなんです。少しでもはやく、彼女の望むままに、彼女の身体に負担がかからないようにしたかっただけなんです」

 今度の梓はムカムカしていた。『だけだった……で済む話? 許される話?』と。甥っ子と里見氏のやり取りを聞いていた輝久叔父の目付きが鋭くなってきたのも梓は見てしまう。でもおじ様が黙っている間は梓もじっと控えている。あそこはいま十八年前の世界。圭太朗が話し合いたくても話し合いをさせてくれなかったその時に戻っているのだから梓はそこに関わってはいけない。

 そんな『だけだった』と言い分ける男に圭太朗は薄笑いを見せる。

「ずいぶんと振り回されますね、俺たちは、彼女に――」

 ただただ圭太朗だけを見つめている菜摘に、彼は再度告げる。

「離婚したんだ。菜摘のなかでまだ離婚していないという認識なら、今日から改めて離婚してくれ。もう関わらないで欲しい」

「納得できない。だって、私と別れたくなかったのでしょう」

「十八年前は。今さら戻れない」

「どうやって私を諦めたの」

「時間と共に」

「仕方なく?」

「受け入れてくれない女を、子供を幸せそうに育てている女を、取り戻せば良かったと? つい半年前にそれをしてもおまえは俺を犯罪者扱いしただろう」

「子供が出来るまえに、どうして必死に取り戻してくれなかったの! 私が嫌がって叫んでも!! それが夫の努めだったんじゃないの!!」

「その夫の努めをやっただろ! 必死におまえを取り返そうと追いかけた、連絡をした! その結果がストーカー扱いだった。接近禁止を弁護士を使って言い渡してきただろ!」

「あなたも弁護士をたてて戦えば良かったじゃないの!!」

「弁護士をたてただろ! 俺が守れたのは、俺がストーカーではないというものだけだった。妻は取り返せなかった。なぜなら。おまえが拒否したからだ! おまえの主張がいちばんに尊重された結果だ」

 どうあっても時間が経ちすぎて噛み合わない。すれ違うばかりの会話。埒が明かない様子が続く。

 輝久叔父が煎れてくれたオレンジアイスティーが、梓の分だけそっと目の前に置かれた。落ち着いたままのおじ様を見て、梓もただただそこにいるだけ。無事に話し合いが終わって、いつもの圭太朗のまま帰ってきて欲しいことを祈って。でも心は大波小波で荒れている。どうして。忘れていたから許されるというの? 思い出した気持ちが全うなままだから受け入れて欲しいというの? 叶うと思っているの? 十八年の間、孤独に傷ついてたった独りで辛い気持ちを噛み砕いてきた彼の長い時間と犠牲についてはなにも思いやってくれないの? あんな……思うように女性を愛せない身体に貶めたというのに?

 十八年前の言い分を繰り広げているそこに、行きたい。彼がどれだけ苦しんでいたのか言いたい、言い放ちたい。そう思っているのがわかったかのように、菜摘の視線が突然、こちらのカウンターに控えている梓へと向かってきた。

「彼女がいるからそういうのね。そうようね。あんな若くてかわいい恋人ができたら別れられないわよね」

「やっと一緒にやってきたい女性に出会ったんだ。俺は十八年まえの俺ではない。諦めてくれ」

「だから! どうして私を取り返してくれなかったの!! それが納得できない!!」

 またもとに戻った。

 だが彼女の言い分が十八年前の状態から抜け出す。

「彼女だって同じよ。船乗りの女の待つ辛さをこれから思い知るはずよ。きっと長続きしない。また圭太朗は独りになるわよ。そうでしょう? いままでだって、それなりに女性と出会ってきたのでしょう。それでも長続きしなかったのは、待つのが女は辛いからなのよ! あの子もきっとそうなる。待っているのが辛くなる、独りだけで留守を守る妻の不安を思い知るのよ。そのとき、ねえ、圭太朗、独りになったら私を迎えにきて!」

 もう梓は言葉を失っていた。圭太朗と別れること前提で彼女の話が進んでいる。

 女が独りで待つ辛さは梓以上に、二年間妻だった彼女のほうが痛感していることだろうから、まだ恋人として一年もたっていない梓には言い返せない言い分だった。

 でも! だからって梓は決して望まない。『私と一緒にいて欲しいから、船乗りをやめて』なんて絶対に言わない!! それだけはいま胸を張って、圭太朗の恋人として言いたい!! カウンターの椅子から降りてほんとうにそこに駆けていく覚悟をした。

「いや、梓は俺を待っていてくれる」

 身体が動こうとしたその時、必死に彼に訴える菜摘へと圭太朗が静かに告げる。

 それでも、菜摘は嘲笑うように彼に返す。

「まだ新しくできたばかりの恋人だもの。信じることが出来ると過信しているだけよ」

「確信している。梓はきっと『私と仕事、どちらかを選ぶなら、仕事を選んで』と俺に言ってくれると確信している」

 圭太朗さん……。梓の心の中で荒れていた波が凪いでいく。私が言いたいこと、通じている。瞳が熱く濡れていく。

 でも菜摘はさらに高らかに笑いたてる。

「おかしいわよ! 女を大事にしない男でいいってことじゃない! 愛されていないことになるのよ!」

 初めて彼女が現れたときのように、荒々しい形相に変貌していく。なのに圭太朗は逆に静かさを湛え、むしろ穏やかに微笑んでいるようにも見える。

「俺も同じなんだ。俺も言う。『俺よりも梓の仕事を選んで欲しい』と彼女に言える」

 さすがに彼女が唖然として黙ってしまった。その隙をつくように、圭太朗が続ける。

「 彼女は俺の仕事を愛してくれている。船ごと、海ごと、俺ごと。俺には仕事を全うして欲しいといつも言ってくれる。俺は思いきって海へ出て行けるし、海で仕事を全うすれば、彼女が喜んでくれる愛してくれると出会ってからずっと毎日感じている。 菜摘はそうではなかっただろう。俺や船よりも、自分だった」

 圭太朗がそこではっきり告げる。今度こそ。

「だから、あのまま事故も起きずに夫妻を続けていても、俺たちは別れていたと思う。俺はあの時も、これっぽっちも船乗りを辞める気持ちはなかった。子供の頃からの夢だったし、厳しい訓練を経て船乗りになったんだ」

「私よりも……船乗りを選んだというの」

「そうだ。あの頃だって、帰港して帰宅したら辞めるつもりはないと言い続けるつもりだった。そんな俺に菜摘は納得してくれたのか? 事故がなくとも、やっぱり里見さんに会いに行っていたんじゃないのか。おなじだよ。別れて、菜摘は里見さんを選んでいただろう。幸せだっただろう。この十八年、望む妻で母親であれたのは、常におまえを一番大事にしてくれた里見さんだったからこそではないか」

「私の……女としても気持ちは、あなたにあるのに……?」

「女としての気持ちを俺は受け止めてやれなかっただろう。いまもそうだ。梓がいてもいなくても、菜摘は船乗りの俺に不満を持っていたと思う。待てるのか。いまも」

「今度は待てる……わ、きっと!」

「俺が待っていたほしかったのは十八年前だ。菜摘は待っていてくれなかった。里見さんと一緒にいた」

「若い女はそんなものよ! 彼女だってひとりになれば寂しいに決まっているわ!」

「彼女には仕事がある。 俺も、彼女には『俺よりも、デザインの仕事を選んで欲しい』と思っている。俺は彼女のデザインのセンスも才能も大事にしてあげたい。デザインをしている彼女が新しい仕事を得て生き生きしていくのを見ていると、俺も嬉しくなる。彼女が描いたスケッチブックのイラストを見るだけで癒される。俺にもとても必要なことだ」

 もう梓の目には涙が滲んでいた。彼も同じ気持ちでいてくれた。

 しかも……。駆け出しのデザイナーである梓のことを、こんなに大事に思ってくれていたなんて……。船乗りの彼を愛しているように、彼も梓のデザインをする感性を愛してくれていた。

「だから、梓とはいられるんだ。菜摘は決して、いまの俺でも満足はしないよ……」

 だが、それでも彼女が狂ったように泣き崩れた。

「ずるい! いまの若い女の子は誰だって仕事を続けられる環境にいられるんだもの! 私の時代は寿退社が華の時代だったもの。仕事を持っている彼女だから男の仕事も理解できて、あなたが留守の間も暇をもて余さずに仕事で気晴らしが出来るってことでしょう!」

 そのときだった。それまでじっと黙っていた里見氏がいままで穏やか一辺倒だったのに顔を真っ赤にしていた。

「いい加減にしなさい!!」

 そこにいる誰もがぎょっとした。梓も、もちろんカウンターでじっと見守って落ち着いていた輝久叔父も。

「暇をもて余さないから仕事をしているなんて言い方はよしなさい!」

 泣きわめいていた菜摘もさすがに涙が止まり、いまの夫を見ている。

 ほんとうは彼女も里見氏のことをよく知っているのだろう。穏やかな夫が顔を真っ赤にして怒っていることがどういうことなのか。

「もう結構です。圭太朗さん、どうぞ弁護士をたて、今度はわたくしども接近禁止にしてください。私は一筆したためてもかまいません。真田の叔父様、もう決して関わりません」

 さらに里見氏が意を決したようにして泣いてばかりの妻にも言い放った。

「子供は私が引き取る。おまえはもう好きにしなさい。ただし、もう圭太朗君とは二度と会わない。いいね。それが私とおまえの、彼に対する償いだ」

「償い……?」

 彼女が呆然として呟く。

 梓も驚きで固まっている。

 彼女を一人きりのするのが罰? それが償い?


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