26.オレンジ・ロンリネス


 穏やかな日が戻ってきた。椿の花がこぼれ、もう桜の気配。

 やわらかな朝の風は潮の匂いを含み、淡い空色にそよぐ。古港の駅から梓は事務所へと通勤している。

 あれからおじ様から報告があった。『次は圭太朗が陸に戻ってきた頃です。ご夫妻揃って、こちらに来るとのことです』。それまでは、ひとりで静かに留守番をすることが出来そうだった。

 新居でキッチンが新しくなると、梓もやる気が出てくる。遅くなってきた夕暮れの中、彼が帰ってきた時にご馳走したいものを作って練習している。

 圭太朗の得意料理は魚の煮付け。海の男だからなのか、宇和島の出身だからなのか、魚の扱いに慣れている。それがもう極上で。梓はすぐに彼の実力に並ぶには及ばず、後追いでも上手になってみようと挑戦している。でも初心者の煮付けはぱさついてうまくできない。圭太朗がひとりで長く自炊してきたキャリアを感じずにいられない。


 ごたごたしたため、瀬戸内フルーツ紅茶の最終稿の話し合いも遅れていたが、輝久叔父が真田社長として事務所にやってきた。

 梓と本多先輩、琴子マネージャーを交え、真田社長と向き合い、印刷所でパッケージとして印刷成形し終えたものを並べた。

 長方形型の平たいパッケージは封筒のようで、でも横向きで使うことにした。左側に茶葉が見えるくりぬき窓、右側に梓が時間帯をテーマにした瀬戸内が見える窓辺の景色を描く。そして本多先輩とデザインしたフレームが窓枠になっている。

「いいですね。イメージどおりです。これは目を引くことでしょう。横置きにしてラタンの篭に入れ、レジ周りに並べてみます。これはお土産にも良さそうです。うん、瀬戸内のムードたっぷりです」

 最終OK、これで印刷へと進めることになった。

 梓も初仕事が終わり、ほっとした。もう感無量だった。

 思えば、秋の始まりに、このおじ様が船長さんを連れてきて、その時いきなり初仕事を先輩に指示された。この街のいちばん人気のカフェ店、大お得意様である真田珈琲の新商品パッケージという大仕事。躊躇いと自信のなさと緊張に見まわれ、いちばん自信をなくしていた時に港で船長さんが仕事をする男として優しくでもシビアに励ましてくれて……。恋をして、その恋のなかに残っていたわだかまりが露出して、男の人が怖かったのにいつのまにかその人を守ろうという強さも生まれていた。

「梓さん、ありがとう。裏のおまけのイラストも、この港の城下町の名所を描いてくれて、いい雰囲気になっている」

「私はここで育ったものではありません。だからこそ、これこそこの街ではないかというものを選ばせて頂きました」

 お城山の天守閣、なくなってしまった海辺の遊園地と観覧車、道後温泉本館、緑の島の段々畑、坊ちゃん列車。それらをパッケージの裏にちりばめてみた。

「では印刷があがり次第、商品をパッキングして店頭販売致します。その時にお持ちしますね。このたびも、いいデザインをありがとうございました」

 真田社長が深々と頭を下げてくれる。本多先輩と琴子マネージャーもひと安心したのか、ほっと微笑み一礼を返している。

 話し合いが終わると輝久叔父は三好社長と話したいことがあると、さらに社長デスクがある奥の応接ソファーへと移動してしまう。

 梓は仕事に戻ったが、事務室では社長同士がふたりなにかを話しているようだった。

 真田社長が帰る時になって、三好ジュニア社長が『永野、お見送り』と当たり前のように呼ばれてしまう。

 今日は春の小雨、傘をさしておじ様をアルファロメオのところまで送っていく。

「初仕事、頑張りましたね。梓さん。今夜、お祝いに食事を――と誘いたいところですが、圭太朗に怒られそうですね。それは俺がいちばん最初にやってあげたいんだとね」

 それは梓も圭太朗との連絡で【 まさか、叔父さんと最初にお祝いしないだろうな。それ、カレシの俺が最初だからな! 】と叫んでいたので、梓も遠慮した。

「圭太朗が離婚する時お世話になった弁護士は、真田珈琲の面倒も見てくれ懇意にしているので、あちらの家庭がどのようになっているかは時々連絡はもらっていたんです。ですが、いまの状況も確認してもらいました」

 元妻が突然押しかけてきて後、彼女も騒いだところで圭太朗とは接触できないと悟ったのか、大人しく夫と共に東京に『ひとまず』帰ってくれた。でもそれが暫定的なもので、彼女はまたこの城下町に来る気でいる。

「子供三人、夫は商社マンのエリート。一戸建ての持ち家があり、子供達にとっては良き母親。近隣の評判は上々で、まさに良妻賢母。記憶をなくして、里見氏と幸せになろうと思って結婚して、その結婚生活も彼女はちゃんと頑張っていたとのことです」

 身なりを見てもそれは梓にもわかった。あの取り乱しぶりがなければ、ほんとうに素晴らしい妻でママさんの雰囲気が良く出ていた。

 輝久叔父がさらに続けて教えてくれる。

「十八年前、圭太朗と菜摘さんは、既にすれ違いを起こしていた。圭太朗が船乗りでなければ、圭太朗さえ側にいれば、きっと上手くいっていたのでしょうね。ですが、結果、やはり圭太朗と暮らすには妻がひとりで陸で家を守るのは避けられないことで必須条件です。菜摘さんが望んだ全ては、里見氏のところにあったんだと私は思っています。彼女がこの十八年、幸せだったのは里見氏の妻だったから。あの後、専門の医師にも診察したらしく突然思い出したので混乱し錯乱しているのでは――と言われたそうです。落ち着けば元の家庭に戻るのではないかと思っています」

 梓もそう思いたい。でも、そうかな。梓は大人の女としてはまだ未熟かもしれない。でもいま少し彼女の気持ちがわかる気がしている。

 だって。大好きな人を忘れられる? 彼女は彼を愛したまま記憶をなくしている。幸せな家庭を築いたことと、彼女の女性としての心の部分はまったく違うもののような気がする。

 でも、梓はそこで『そうですね』と不安を押し殺して叔父様に笑顔を見せてしまった。

 小雨の中、アルファロメオがテールランプを光らせ、パイパスの車道へ出て行くまで梓は見送った。

 事務所に戻ると、ひと仕事終わったせいか、本多先輩が珍しく梓のブースまで椅子を持ってきて座り込んでしまった。

「なんかあったんだろ。おまえ、それも匂わせないでよく仕上げたな。こっちのスイーツフェアのチラシもゲラ刷りOK出たからな」

「……本多さんがいなければどれもできなかった仕事です」

「あったりまえだろ。だが仕事は仕事、プライベートはプライベートときちんとしていたな」

 もうそろそろ終業時間、今日はもう残業がなさそうだったので、梓はモニターに出ていたアプリケーションの画面をひとつずつマウスを動かして閉じていたが……。

「うっ……」

 そっとしておいてくれても、影ながら心配してくれていた先輩の気持ちがわかってしまったから、とうとう涙が滲んでしまった。

「あ、やっぱ。まだ一人前じゃなかったか。褒めてしまった」

「ここで、そんなこと言うからじゃないですか……」

「とにかく。船長さんが海上にいてどうにもならない時もあるだろ。俺じゃなくて琴子を頼れ。絶対だぞ」

 俺なんかデザイン以外役に立ちっこないから、そういう女の悩みごとは琴子に頼んでいおいたし、琴子もそのつもりだとこそっと伝えてくれて、ますます涙が出てきてしまった。

「ねえねえ、来週は鯛飯食べに行きましょうよ」

 そのタイミングを見計らったように琴子マネージャーまでやってきた。ますます泣けてきた。

「琴子のゼット狭いんだよな~」

「じゃあ、本多君はうちの英児さんのスカイラインに乗っていけば」

「お、いいね。俺、男同士のほうが気が楽だ」

 じゃあ、うちの旦那さんも参加でいいわね――と、打ち上げ会をしてくれることになった。

 船長さんがいない間、寂しくないように。そうしてくれるんだとわかる。そして……。三好社長を通じて、記憶喪失だった元妻が思い出して押しかけてきたことも知ったんだろうなとも思った。

 夜になっても霧雨。ひとり電鉄の駅から傘をさして新居のマンションへ帰宅する。

 今日は薄暗い空、海も波が高そう。

「今日の出航、大丈夫かな」

 今日は松山から小倉の航路。本当なら港へ行けば、着岸している船には彼がいる。会おうと思えば会えるかもしれないけれど、梓は一度とて港へ会いに行こうとはしなかった。

 元妻の菜摘に偉そうなことを言った。船長としての仕事を全うさせてあげて欲しいと。なにも言い返せない梓の代わりに、輝久叔父が『待てない女は船乗りの妻は務まらない』と言い放ってくれた。その通りだと思っている。彼と一緒に暮らす女として大事なこと。だから、会いに行かない。会いたくても……。

 いまはまだ新居に慣れようとしているから気が紛れている。新しい家の空気が、新しい気持ちにさせてくれて、大人の素敵な男性と一緒に暮らせる幸せで心が満たされている。だから待てるのかもしれない。でも、もし……。ほんとうに会いたい時に会えなかったら?

 彼女のように苦しくなって、側にいる優しい男性に傾くこともあるかもしれない? 二年、三年の歳月を共にするとそんなこともあるのかもしれない。そんな点では梓はあまりにも経験不足。なにも言えなかった。

 濡れた傘をエントランスで閉じて滴を払っていると、目の前に傘をさした女性が歩いて近づいてきた。

 梓はハッとする。また女性らしい上質な服を着こなしている彼女が立っていた。

「こんばんは、梓さん」

 優美な笑みを見せてくれる。少し前にもの凄い形相でここに駆けてきた女性の顔ではなかった。

「圭太朗はまだ帰ってきていないのよね」

「はい。まだです。どうされたのですか。東京に帰ったとお聞きしています」

「まずは圭太朗と話をさせて。あのまま終わりではたまらないわ」

 梓は黙る。この穏やかさと落ち着きは見せかけ? 圭太朗と会わせてなにも起きない? 警戒しないはずがない。

「怖がらせて、ごめんなさいね。代理人を通してだと納得できないの」

「また、ご主人とお子様を置いて出てこられたのですか」

「いいえ。そこは気にしないで。私の家庭のことだから。また来ます」

 いいえ? 梓は茫然とする。今度は夫の許可を得て、この街にやってきたということ?

 傘を差したまま、彼女が背を向け、すんなりと去っていった。

 靴も上質で美しいもの、歩く後ろ姿も優雅で、一流企業に勤める夫の妻という上品さが滲み出ていた。

 あんな綺麗な人が彼が一度は愛して、しかも結婚した人。そして二年は愛しあっていた人。落ち着いた様子の彼女と会って、圭太朗はどう思うの? 梓に一気に押し寄せてくる不安。これが待つ女の苦しみ?

 また気持ちが戻ったりしない? ふたり一緒にいまからもう一度?

 船乗りの女はなにがあってもじっと待つもの。偉そうなことを言っておいて、こんな時はとてつもなく心許なくなる。

 急いで彼との部屋に戻り、梓はバスタブに湯を張る。ざっとバスソルトを混ぜて、すぐに入浴をした。

 オレンジの香りがするのに、今日は寂しくてしかたがない。

 こんな日、船乗りの女はひとりを噛みしめる。

 知らなかったことを、いま梓は感じている。ただオレンジの香りだけが梓を慰めてくれている。


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