第五話

 最終日の体育祭をもって平日五日間連続で行われた学校祭は終わりを迎え、学校祭終了から一週間が経過し、熱狂も冷める頃になったとき、夜の山から夜景を見ようという話が部内で持ち上がった。

「どうやって登るんだよ」

「私の姉が、車を出してくれることになってるんです」綿貫が言った。

「お姉さんって、大学生の萌さん?」あの人は綿貫と違ってきつい感じがして少し苦手なんだよな。

「はい。キティさんも是非」

「私も行っていいんですか?」

「もちろんですよ」

 目的地は岐阜県の池田山。去年登っているが、夜の池田山から見る岐阜の街はきれいらしいというのを聞きつけて、夜行登山をしようということになった。さすがに暗闇の中をヘッドライトの明かりで登るのは危険だと判断して、綿貫の姉である萌さんに協力を依頼するという形で話がまとまった。


 決行は金曜の夜。明日は第二土曜日であるので、学校は休みである。

 萌さんの車に乗って池田山の頂上へと向かった。他の客もちらほらと見える。

 その日は快晴で、岐阜の街がよく見えた。

「きれいですね」キティがうっとりとした声で言う。

「そうだな」

 夜景に加えて、街を外れたところにあるので、星も名古屋の空より多く見えた。

 登山といいうより、ドライブであったが、まあこれも悪くない。

 持ってきたコンロで、お湯を沸かし、紅茶を飲みながら、岐阜の夜景と遠くに見える名古屋の街、そして秋の夜空に映える星を眺めながら、楽しいひと時を過ごすことが出来た。


「またいつか来ましょうね。皆で」綿貫が帰りの車の中で言った。

「今度来るときは自分たちで運転してよ」綿貫の姉の萌さんがそういう。

「いつかか」果たしていつかはやってくるのだろうか。気づけば、キティの滞在期間もあと二週間となっていた。北アイルランドに帰れば、容易にはあえなくなってしまう。

 俺の言葉の意味に、その場にいた全員が気づき、しんみりした雰囲気になってしまった。

「大丈夫です。私は日本に絶対また来ますし、よろしかったら皆さんも北アイルランドに来てください。北アイルランドで見る星空は格別ですよ」

「私、行ってみたいかもです」

「星空見るなら、日本アルプスから見るのも最高だぞ。キティは結局槍ヶ岳見てないよな」

「あっ、そうでした。そうですね、今度日本に来るときは自分の足で山にも登ってみたいですね」

「俺が連れて行ってやるよ」

「楽しみにしています」

 あんた、何かっこつけてんのよと、鈴木は野次を飛ばしたが、さして気にならなかった。

 

 車内で、お喋りに興じていたところ、綿貫があるクイズを出した。

「実は、私には妹がいるんですが、名前をユミといいます。それではユミとはどのような漢字を書くのでしょうか?」ある意味難問である。由美、裕美、祐実、優美……書き出せばきりがないだろう。

「わかんないな。ヒント頂戴」と鈴木が言った。

「そうですね。姉と私の、妹というのが、一つのヒントです」それはヒントと言えるのか甚だ疑問である。当然誰も答えられるはずもない。誰も何も言わないので、綿貫は第二のヒントを出した。

「姉は、四月生まれで、私は七月生まれで、ユミは十月生まれです」季節に関係した名前ということなのだろうか。綿貫は続けて、三つ目のヒントを出した。

「私の名前は、ひらがなで書きますが、漢字を当てようと思ったら、蒴果さくかと書きます。萩原朔太郎の朔に草冠を付けて、果実の果で蒴果です。『さくか』が『さっか』になって、『さっか』が『さやか』になったんです」俺はてっきりもっと別な漢字を想像していたんだが。

「清らかのさやかじゃないんだな」

「そういう意味もかけてありますよ。さすが美山さんです」お褒めに与り恐悦至極。

 ヒントは以上ですが、と綿貫は言った。これで当てるなど、ほとんど、運の領域じゃないかと思う。

「駄目、私全然わかんない」鈴木は、早々にリタイアした。

「私漢字はあまり得意じゃなくて」外国人であるキティは少々、分が悪い。

「僕も漢字は苦手だな」くだらない雑学をため込む、雄大はもっと日本人としての素養を身につけてほしい。

 というわけで、皆、俺の顔を覗き込む。

 自信はなかったが、俺は答えを口にした。

「実を結ぶと書いて、結実じゃないか」

「美山さん正解です。お見事」と綿貫が言うと、鈴木は随分と悔しそうに、なんであんたに分かるのよ、と言った。

「美山さん、どういうことですか?」キティは俺がどうしてわかったのか知りたがった。

 綿貫がヒントと言って出したのだから、考える材料はそれしかない。一つ目の、萌さんと綿貫、の妹が結実である、というヒントは、とりあえず置いておこう。二つ目、萌が四月生まれで、さやかは七月生まれ、そして結実が十月生まれ。最初に予想したように、彼女らの名前は季節に関連付けられて命名されたものだ。そして三つ目のヒント、さやかを漢字で書くとしたら『蒴果』と書くという。蒴果とは綿の実のことである。

 以上のことから、結実が二人の妹であるということを付け加えて考えてみると、春に綿の芽が『萌』えて、夏に、子房である『蒴果』ができて、そして秋に、収穫、つまり『実を結ぶ』というように、彼女らの苗字に関連深い、綿の一年を三姉妹で表現した形になる。

 こんなことは、ひらめきによるところが大きいし、綿貫家が繊維産業で興隆し、そして、綿貫の父親が言葉遊びが好きなんだという、事実を知らない(俺は綿貫の父親に会ったことがあった)、キティ並びに、鈴木と雄大にはちょっと難しい問題だったろう。

 キティは話を聞くと、至極感心したようだった。俺はなんだか照れくさくなって、「たまたまだ」と言った。


 山道をくだって、田んぼ道に差し掛かったところ、キティが何かに気づいたように小さく声を上げた。

「あっ」

「どうした」

「何か光るものが飛んでいました」

「火の玉?」

「いいえ、虫のような」キティは雄大のボケを華麗にスルーする。

「遅れ蛍じゃないか」

「ほんとですか!お姉ちゃん車止めて」綿貫がそういって、萌さんは車を止める。

 俺たちは車から、下りて、よく目を凝らしてみた。近くには小川が流れているらしく水の音が聞こえる。

「あっ、いた」雄大が声を上げた。

 たしかに、蛍が何匹も宙を舞っていた。遅れボタルがこんなにいるとは珍しい。

 雄大はもっと近づこうと思ったらしく沢に降りて行った。

「お前よく、車の中から見つけられたな」キティに向かってそういった。キティはふふふっと笑って返す。

 その時である。大きな水の音がした。

「ちょっと雄君何やってんの!」

 どうやら、雄大が沢に落ちたらしい。虫を追って川に落ちるとは、小学生かよ。すると横で、キティが笑っているのが聞こえた。

「ちょっと、キティちゃん笑わないでよ」雄大が情けない声を上げる。

「いえすみません」何がそんなにおかしいのだろうか。

「どうしたんだ」

「いえ、昔のことを思い出したんです。私もああやって、虫を追いかけて川に落ちたことがあって」

「へえ、お前もそんなことしてたんだな」

「ええ、家の近くの公園で、そこは中央を大きめの川が流れているんですけど、教会の鐘が鳴るまでよく遊んでいました。確かドラゴンフライを追いかけて川に落ちたんだと思います。そこを石橋の上を通りかかったジェームズが川に飛び込んで助けてくれたんです」

「ジェームズって」

「その時はまだ、家で雇ってはいませんでした。父がそのことに感激して、職を探していた彼に、私のボディガードをするよう頼んだのです」

 その話を聞いてあのいかつい大男を少し好きになった気がした。

 

 びしょ濡れになった雄大を見た萌さんの顔は、暗くてよくわからなかったがおそらく、不愉快な顔をしていたはずである。タオルを投げつけ、早く拭けといい、それでも湿っていた雄大の体をバスタオルでぐるぐる巻きにしてから、愛知へと戻った。

 

 池田山に行ってから、一週間が経過した。今日は日曜日、キティの帰国まであと一週間である。

 俺はその日、名古屋駅にいた。

 名古屋駅でキティを待っていた。

 先日のことである。放課後、ジョギングをし終えた俺をキティは部室で待っていた。あと少しで帰国してしまう友人ともっと話しておくべきなのかもしれないが、なんだか照れくさくて、特別何かをすることはなかった。上高地では毎日のように話していたというのに。

 キティは俺に、次の日曜に水族館に行きたいといった。名古屋の水族館は日本で一番の広さを誇る。最後の観光をするには悪くないだろう。俺はキティの申し出を聞き入れた。

 本当のことを言うと、二年の部員全員で、行きたかったのだが、生憎ほかのメンバーは全員用事があるというので、俺たちの二人だけとなってしまった。


 やがて、キティがやってきた。

「すみません、待ちましたか?」

「いや、今来たところだ」

「……行きましょうか」

「そうだな」


 さすが、日曜とあって、水族館は混雑していた。開館四年の水族館が閑散としていても困るだろうが。

 入館するのに大分時間がかかってしまったが、中は適度に人がばらけていて、鑑賞するのには困らなかった。

「ここの目玉って何なんですか?」

「確か、亀かな?」アカウミガメのふ化に成功したとかどうとか。世界初か、日本初かは忘れた。「イルカとか、ペンギンとかもいるらしい」

「そうなんですか」

 

 周りの客は、大抵が家族連れか、カップルであった。まあ、予想できたことではあるが。

 ぐるぐると水族館を回って様々な海洋生物を見た。小魚をはじめ、サメなどの大型魚類、亀や、ペンギンや、イルカなどなど。

 キティはすごく楽しそうだった(街を歩くだけで目を輝かさせる彼女であるので、当然と言えば当然だが)。さすがに、海洋生物学者ではない俺は、キティの質問すべてに答える努力はしたが、答えられないこともたくさんあった。今度図書館で魚の本でも読んでみようかなと思うのだった。

 複数種の魚が泳ぐ、水槽を見ているとき、イワシの群れを見た俺はとっさに、

「なんかうまそうだな」と言ってしまった。水族館でさすがにこれは、失言だと思ったが、キティは、

「実は私もそう思っちゃいました」と言って笑った。

  

 ぷらぷらと歩いてゆき、人が少ないところに来た。展示されているのは地味な川魚たちで、ぶっちゃけて言うと、素人目にはどれも同じに見えた。

 それでもキティは興味津々に水槽を覗き込んでは、あの流木に隠れている、だとか、あっちの魚とここが違うだとかをあげてみせて、俺はまるで、小さな妹を連れて歩いているような気さえした。

 そんなキティであったが、随分と薄暗いところに来た時に、一瞬固まり、見る見るうちに赤い顔になった。

「どうした」俺はキティに近づいて行って尋ねる。そして、キティの視線の先を見ると、若いカップルが熱い抱擁をかわし、キスをしていた。

 自粛しろよ、と俺は舌打ちをして、キティの手を取って、その場をさっと離れた。


「びっくりしましたね」休憩所で、カップの中の飲み物をかき混ぜながら、キティが言う。

「そうだな。恋は盲目っていうからな。まったく周りの目を考えてほしいよ。……あ、お前の国だと、外でキスするのは普通なのか?」

「まあそうですね。よく見かけます。日本人はシャイですよね」

「まあそうだな。そもそも未婚の男女が一緒にいること自体よくないって言う風潮が最近まであったからな。逢引きって言葉があるくらいだし。

 今でも大分ましになったと思うが、ヨーロッパ人に比べたらシャイなんだろうな」

「あの、美山さんって、誰かとお付き合いしたことありますか?」

「ないよ」

「じゃあ、キスも?」

「あるわけないだろ」

「今してみますか?」えっ。こいつは一体何言ってんだ。キティはそういって瞳を閉じ、唇を俺のほうへ近づけてくる。とっさに手を顔の前に持ってくる。

「おい、ちょっ、キティ、公衆の面前で」不覚にも俺はパニックになって固まってしまった。心臓が早鐘のごとく拍動している。

うふふふ、笑い声が聞こえる。見るとキティは腹を抱えて笑っている。

「冗談ですよ。美山さん、慌てすぎです」まったく、質の悪い冗談だ。

「全く笑えんぞ」

「じゃあこれで勘弁してください」そういってキティは俺の頬に軽く口づけをした。それからすたっと立って、「じゃあ、行きましょうか」

「おお」俺は上の空で答えた。

「あっ」

「どうした?」

「今、山岸さんがいたような」

「雄大が?そんなわけ。他人の空似だろ」だってあいつは木曽川で釣りをしているんだから。

「そうですか……」

 俺たちはイルカショーを見てから、水族館を後にした。

 

 電車の中で話はキティの国のことについて移っていた。

「前に私の国のことを話しましたよね」

「ああ」

「それで、この前、蛍を見た時、北アイルランドに来るといい、と私言いましたよね」

「言ったな」

「撤回です。北アイルランドは今危ないです。皆さんを危険な目にあわせるわけにはいきません」

「……お前は、そんなところに帰ろうとしているのか?落ち着くまで日本にいたほうがいいんじゃないか」

「それは……魅力的な提案ですね」

「だろう」

「でも無理です」

「どうして?」

「北アイルランドは私の故郷ですから。私の家族がいて、私の育った町があって。そして日本に負けないくらいきれいな風景もあります。いくら危険であっても私にはかけがえのない、故郷ふるさとなんです」

「そういうものか。……やっぱり、アイルランド人の血を引くお前は、南部と合併して一つの国になりたいという気持ちがあるのか?」

「私は……IRAは好きではありません。人を殺して得た国がよい国だとは思えません」

「……お前たちカトリック系は、連合王国の中じゃ、少数派だ。差別されてきた歴史もある。自分たちの身を守る必要もあるだろ」

「そうだとしても、そのやり方に暴力を含めるわけにはいきません。憎しみはさらなる憎しみを生みます。何の解決にもならないのです」

「じゃあ、戦わずに屈するというのか?」

「戦い方は一つじゃないですよ。つまりこぶしを握ることが唯一の戦い方ではありません。

 私達にはいろんな権利があります。カトリック系のアイリッシュは確かにその権利の一部を認められていないような状況なのかもしれません。ですが権利を守るために戦わなければならないのは、どの国民も一緒ですよ。日本人もそうです」

「日本人が?」

「ええ。例えば、日本の人が、自分たちの意見を国に言うためにはどうしますか?」

「一番効きそうなのは、政治家になるとか、官僚のトップを目指すとかかな」

「そうですね。でもそれをできるのは一部の人です」

「他だったら、選挙に行って、自分の意見に近い政治家を選ぶってとこか?」

「そうです。それも戦いなんですよ。権利というものは、不思議なもので、自然と与えられるもののように言われることが多いですが、実はそれを持ち続けるためには、それを持ち続けようとする強い意志が必要なのです。先ほどの例で言いますと、選挙に行かない人は戦っておりませんし、周りに流されて投票する人も正確には戦っていません。そういう人たちには、厳しい言い方ですが、権利を保持する資格はないのです」

「なるほどねえ」キティの言わんとすることは何となくわかった。「じゃあ、もし血を流さないで、お前たちアイルランド人が再び一つになれるとしたらどうだ?やっぱりうれしいのか?現実的な問題は無視しての話だ」

「んー、それはどうなんでしょうね。確かに私はブリテンの人とは違います。アイルランド人の血を引いていることに誇りも持っています。ですが、私は北アイルランド人であると同時に、連合王国の一員でもあるのです。今となっては、スコットランド人も、イングランド人も、ウェールズ人も北アイルランド人もみな同じく、連合王国の国民なのです。北アイルランドに住むブリテンの人も、北アイルランドで生まれているんです。短いながらもそこには歴史があり、文化があります。それをひっくり返してまで、アイルランドを統合する価値があるとは私には思えませんね」

 俺はこの、北アイルランドから来た少女が、俺よりずっと、広く世界を見ているのだと思った。

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