槍の穂先から

逸真芙蘭

第1話

  九六年八月

 

 梓川の川面に映る、夕日を横目にしながら、遊歩道を歩いていた。

 その清流は、山頂から見ても、こうして横に立って、見ても美しく目に映った。

 都会の喧騒の中で汚れた心が、洗われていくような気がした。

 俺が、芭蕉や山頭火のように、詩に愛された人間であったのならば、何か良い歌でも思いついたのかもしれないが、生憎、文学の心を解さなかったので、背筋がぞくぞくした訳をほかの人間に伝えることができない。

 それを残念に思うのだが、そこで、人類が今まで積み上げてきた、文学という一つの芸術を紐解く気にもならないのだった。

 少しの口惜しさを、胸のあたりに残しながら、足を速めた。遅れたら、店長に何を言われるかわからない。


 高校二年の夏休み、俺は上高地に来ていた。

 とはいっても登山をしに来たわけでもなければ、もちろん物見遊山をしに来たわけでもない。俗な言い方をすれば、小遣い稼ぎである。

 俺はとりわけ、意志が強いほうではないので、時間があればあるだけ、だらだらと無為に過ごしてしまう。それは少々もったいない気がしたので、バイトでもして、有意義に過ごそうと考えたのだ。

 上高地は居住地から大分離れているが、せっかくの夏休みなのだ。近所で働くなんて、つまらない。どうせなら、何か特別なことをしようと考え、去年の夏、槍ヶ岳を登り終えた後に来た時の美しい情景を思い出し、ここに決めた。夏の間、住み込みで働くことになる。交通費を差し引いても、一高校生が一度に手にするには、十分すぎる金が手元に残る。その上、お使いという名目で、山に登ることもできるだろう。これ以上の待遇があるとは思えなかった。

 俺が働くのは上高地に観光に来た客向けに土産物を売っている店だ。店長は愛想のよい人で、高校生である俺を雇う事を二つ返事で了承した。


 今は店から少し下ったところへ荷物を取りに行った帰りである。普段から部活で鍛えているので、これくらいの道で、荷物を運ぶのはわけない事だ。軽く鼻歌を歌いながら、足を運んだ。


 店が見える頃になって、道端で少女と言ってもいいくらいの齢の女性が、うずくまっているのに気がついた。

 髪の毛の色は、金色で、異国の雰囲気を漂わせている。服装を見るに、登山をしに来たというわけではなさそうだ。ワンピースで山を登っている御仁など、未だかつて見たことが無い。

 素通りするわけにもいかないので、近づいてみると、予想通りに日本人の外見ではなかった。声を掛ける。

「大丈夫ですか?体調が悪いんですか」

「あの」その少女は少し言い淀んだが、「はい」とすぐに言った。

 周りに、手荷物が無いので、日帰りの観光客というわけではないだろう。連れがいるのならば、病人を放ってどこかに行ってしまったとも考えにくかったが、

「お連れの人は?」と尋ねた。

「私一人です」その異国風の、女性は、思ったよりも流暢な日本語を話した。

「近くのホテルに滞在しているんですか?」

「はい。あの赤い屋根の……」彼女はホテルの名前をすぐに思い出せなかったようだが、俺にはそれだけで、どこの事を言っているのか分かった。

 今日は平日である、客はそれほど多くない。この、外国人をホテルに連れていく余裕ぐらいあるだろう。

「少し、待っていて。この荷物を置いて店長に訳を話してくるから」


 店長は、人助けをしたいという俺の、要求を直ぐに飲んで、俺を行かせてくれた。

 少女がうずくまっていたところに戻ると、依然として、具合が悪そうに座っている。

「ホテルに連れていってやる。少しの間だけ我慢して」

 俺が少女をおぶろうとしゃがんだところ、少女は遠慮して言った。

「そんな、悪いです。見ず知らずの人に」

「一人で帰られないから、こんなところにしゃがみこんでいたんだろう。それと、山に来るなら覚えておいた方がいい。登山する人間はいつでも、助け合いの精神を持っているのだということを」

「……分かりました。ではお言葉に甘えて」

 俺は少女を背負い、歩き始めた。しゃべらすのは辛かろうと思い、それきりなにも言わない。


 少女の言う、赤い屋根のホテルと言うのは、河童橋から、幾分か下ったところで、大正池の少し上流にある。日本有数の山岳リゾートである上高地に立地する、高級ホテルだ。俺みたいな格好の者が、そのロビーにはいるのは、少々気が引けるのだが、仕方ない。

 エントランスに入ったところで、どちらに行けばよいものかと、あたりを見渡していたところ、黒いスーツを着た黒人男性が、こちらに近づいてきた。サングラスでどんな顔をしているのかはわからなかったが、嬉しくてしかたない、という顔ではおそらくないだろう。俺は思わず後ずさった。

「Lady!」

 その男性が言う。なんだか俺はその男に威嚇されているような心持がした。

「おい、あれは誰だ」

「……旅の連れです」

「お前一人じゃなかったのかよ」

 少女が何か言おうと、口を開きかけたとき、肩に鈍い痛みが走った。見上げると、黒い壁が、少女の連れだという黒人男性が、目の前に立っていた。俺は鳥肌が立った。

「お前何をしている?」

 とても友好的な口調とは思えない。俺は何か言わなくてはと、口をパクパクさせるが、言葉が出て来ない。すると、少女が口を開いた。苦しそうな声で言う。

「やめて、ジェームズ。彼は私を助けてくれたのよ」

「Lady、顔が赤いです。熱があるんじゃないですか。どうしておひとりで出歩くんですか。この男は一体何なんですか?」

「だから、助けてくれたって言っているじゃない」

 俺は、ようやくそこで、口を開くことができた。

「彼女、道端で倒れていたんです。このホテルに泊まっていると聞いたので、ここまで運んできたんです。辛そうなので、横にしてあげて下さい」

 そういうと、そのジェームズとかいう男は、俺が背からおろした少女を腕で抱きかかえ、こういった。

「無礼は謝る」

 そして、くるりと、ホテルの奥の方へ向かおうとする。どうやら、俺の事が気に食わないらしい。

 少女がジェームズの耳元に何か囁き、ジェームズは少し考えるようにしてから、また俺の方を向いた。

「貴殿の名前と、職場を教えてほしい」

 貴殿て、現代語なのか?と少し疑問に思ったが、この男に口応えする気にもならなかったので、素直に答えた。

「美山智。河童橋の横の土産物屋で働いている」

 俺がそういうと、何も言わずに奥へと行ってしまった。

 あの少女はただの観光客というわけではないらしいということだけが確かだった。


 次の日の朝、開店の準備をしていたところ、店長が俺の事を呼んだ。

「美山君。お客さんだよ」

 こんなところに、朝早くから誰が来るのだろうと、首を傾げながら、表に出ると、昨日の少女が立っていた。ジェームズも横にいる。

「美山さん、おはようございます。昨日は、助けて頂き、どうもありがとうございました」

 そう言って深々と頭を下げる。それから、少女はジェームズの方に目をやって、何かを促す。

 ジェームズはしぶしぶといった様子であったが、

「昨日は、無礼を働いて申し訳ない。お嬢様がいなくなって気が立っていたもので」

 あれほど怖い思いをすることはなかなかないのだが、俺は根に持つ方ではない。

「いや、いいんです。気にしないでください」

 今度は少女が話をする。

「昨日の御礼です。私の国の特産品です。受け取ってください」

 そう言いながら、少女は小包を俺に渡した。

「見てもいいか?」

「ええ」

 見ると、中にはチョコレートが入っていた。パッケージは英語で書かれてある。

「そういえば、名前をまだ聞いていなかったんだが」

 チョコレートの箱を袋に戻しながら、俺は少女に向かって聞いた。

「これは失礼しました。わたし、キャサリン・マーフィーと言います。キティと呼んでください」

「イギリス出身なのか?」

「いいえ、北アイルランドです」

 北アイルランド?俺はヨーロッパの地図を頭に思い浮かべる。北アイルランドは確か、大西洋にある島で……。

「北アイルランドもイギリスだろう」首をひねってそういう。

「いいえ違いますよ」

 俺は首をかしげた。記憶が確かならば、北アイルランドはイギリスに含まれている。イギリスから独立したという話も聞かない。もしや、このキャサリンは俺の事をからかっているのか、と思い、顔をうかがってみるが、ふざけている様子も見られない。まさか本国の人間が自分の国の事を把握していないということもないだろう。俺はこの謎についてしばらく考えてみた。

 頭が混乱しそうになる。イギリス人であるのに、イギリス人ではないとはどういうことか。

 俺がうんうん唸っていると、キティが言った。

「私はイングリッシュではないということですよ」

 ようやく、キティが何を言いたがっているのか分かった気がした。

 一つの予想が思いついたので口にしてみる。

「もしかして、ブリテンと言わなきゃだめか?」

「んー、私はブリトンの人とも違いますね」

 そうか、そういえば北アイルランドはブリテン島と陸続きではない。

「いいたいことはわかったよ」

「そうですか」

 要は、イギリスは、イングランドの事を指しているので、北アイルランド出身の彼女はイングランド人と混合されるのを嫌っているということだ。ブリテンと言ってもダメなのは、北アイルランドが、グレートブリテン島の一部ではなく、別の島に属するからということなのだろう。

「じゃあ、UKと言えばいいか?」

「そうですね。その方がいいです」

 向こうの人間は、どうやらこのことを気にするらしい。今度イギリス出身の人間にあっても、むやみにイギリス人と呼ばない事にしよう。

「それで、昨日はどうして一人で歩いていたんだ?河童橋を見に行こうとしていたのか?」

「実は、槍ヶ岳を見たいと思いまして。ホテルからだと見えませんから」

 ヨーロッパには、本物のアルプスがあると言うのに、わざわざ日本の山を見に来るとは変わっている。そうは思ったが、彼女が昨日一人で、遊歩道を歩いていた理由も分かった。

「ホテルからだと穂高の後ろに隠れるからなあ。槍を見ようと思ったら、かなり歩かないと駄目だぞ。とりあえずそんな恰好じゃ無理だ」

 キティは昨日と同じような、ワンピースを着て、サンダルをはいている。

「そうですか……」

 キティはひどく落ち込んだ様子で行った。

「どうして槍ヶ岳が見たいんだ。スイスのマッターホルンに比べればちんけなもんだと思うんだが」

「父が好きだったんです。だから私も見ておこうと思いまして」

 なるほどねえ。とするとキティの親父さんは日本になじみ深い人間なのだろう。

「どのくらい滞在する予定なんだ?」

「夏の間はここにいます」

 ヨーロッパの金持ちは、やることが豪快である。例のホテルの宿泊費は決して安くはない。そこに一か月近く泊まるのだとしたら、相当な金がかかるはずだ。

 住む世界が違う彼女を前にして、卑屈な気分になってもおかしくはなかったが、なんだか彼女に対しては親しみを感じていたので、機会があるのならばもっと話がしたいと思った。外国の人間と話をする機会というのはなかなか貴重なものであるし。

「俺はあと二週間したら帰るよ。また用があったら来てくれ」

「そうですね。本当にありがとうございました」

 そう言って、キティとジェームズは去って行った。


 上高地での生活も最終日を迎え、俺は家に帰る準備をしていた。

 今は目に焼きついた、穂高連峰と梓川の景色がしばらく見られなくなると思うと少し寂寥の念を感じる。

 帰る際に、キティの泊っているホテルに寄って挨拶をすることにした。

 用があったらと言ったのだが、あれから、キティはほぼ毎日、店に来て、昼食を食べたり、俺と少し話をしたりした(横でジェームズが構えていたのには辟易したが)。俺に助けられた恩を感じていたせいかもしれない。

 キティの父親は外交官で、昔家族で日本に住んでいたこと、それで日本語が上手なのだということ、カトリックの家柄だが神様はあまり信じていないのだということ、夏休みが終わったら、二ヶ月程日本の学校で勉強していくのだということなど、この二週間の間でキティについて様々な事を知った。

 そんなわけで、少しとは言えないくらい、俺たちは仲良くなっていたのだ。


 ホテルのエントランスに入ると、ちょうどキティがバルコニーで朝食をとっているのが見えた。

「よお、キティ。今から帰るところだ」

「そうですか。寂しくなりますね」

 しんみりした雰囲気になる。考えてみればここで別れてしまえば、一生会うことはないのかもしれない。

「また日本に来たら教えてくれよ」

「私はまだ少しいますけどね」

「そうだったな」

 それから、二人して黙り込んでしまう。別れのシチュエーションはどうも苦手だ。

 だが、敢えて陽気に振る舞うことにした。

「また会えるさ。See you againだ」

「そうですね。今度会う時は、お酒が飲めるようになっているでしょうね」

「お前、酒癖悪そうだけどな」

「ひどいですよ」とは言いつつも彼女の目元は微笑んでいる。

 そんな軽口ももう叩けなくなる。そう思うとやはり寂しかった。

 名残惜しい気持ちを感じつつ、別れの挨拶をした。


 家に戻り、日常の足音がひたひたと近づいてくるのを感じながら、残っている宿題をやっつけ、また一息ついた所で、二学期が始まった。

 殺人的な長さの始業式を、汗をだらだらと流しながら耐え、生徒に対する嫌がらせとしか思えないような、休み明けのテストを受け終えるころには、夏休みの気分はとうになくなっていた。


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