第4話

 俺がそうした苛立ちに駆られていると、誰かが隣の席の椅子を静かに引いた。見ると、そこに姫野さんがちょこんと腰を下ろしていた。

 それまでの俺の苛立ちは緊張によって上書きされた。

 姫野さんは「の、飲む?」と言って紙コップを手渡してきた。片方の手には自分の紙コップも持っている。そしてその立ち振る舞いたるや、孤立する俺に手を差し伸べる天使のようだったといっても過言ではない。

 なんて気が利く子なんだ、なんて優しい子なんだ、なんで姫野さんのような人がこんなしょうもない部活に所属しているんだ、と思った。

 俺はそれを「あ、ありがとう。貰うよ」と言って受け取った。冷たいお茶だった。


「お、お茶とかあるんだな」

「コーヒーとかもあるよ。あと、なんならお菓子だってあるけど、持ってこようか?」

「いや、それはいいよ。ありがとう」


 お菓子もあるのかよ、もはや家感覚だな、などと思いつつお茶を飲んだ。緊張でパッサパサに渇いた喉に冷たいお茶が染み渡っていった。美味しい。けどまあ、喉が潤ったからといって緊張がほぐれるわけではないのだが。

 飲みながら、何を話すべきかを考えた。姫野さんが隣に座っているからには何かイイカンジの会話をしなくてはならないだろう。絶対に気まずい雰囲気にだけはしてはならない。それならイイカンジではなくても、とりあえず会話をするべきだ。ここは適当に質問をしてみるのはどうだろうか。好きな食べ物とか。それこそ好きなバンドとか。

 ――よし。

 そうして俺が紙コップを机の上に置くと、それを見計らったかのように姫野さんのほうから口を開いた。


「ごめんね、なんか無理に来させちゃったみたいで」


 そう姫野さんは申し訳なさそうに言った。

 まあ、久しぶりに部活に来たのにもかかわらず、こうやって隅のほうの席に座ってじっとしてれば、そう思われて当然であろう。しかし、俺はなにも無理をして来たわけではない。むしろ積極的になって来たのである。

 俺は慌てて否定した。


「いやいや、そんなことはない。もともと行く予定だったから」

「それならいいんだけど……、無理してない?」

「……してない。久しぶりに来てちょっとばかり緊張してるだけだ」


 ちょっとどころではないし、正確には、久しぶりに来て緊張しているのではなく、姫野さんと面と向かって会話していることに緊張しているのだが……。これは早いとこ、慣れなくてはいけないな。

 それを聞いた姫野さんは納得がいったようで「なんだ、そういうことね」と呟いた。申し訳わけなさそうな顔でもなくなって、いつも通りのほがらかな顔になっている。

 

「あと聞きたいことがあって、その、なんで古市君は部活に来なくなっちゃったの?」

「あ、うん。まあ、それはなんというか、俺に合わなかったというか、思っていたのと違ったというか……、そんな感じ」


 すると姫野さんは笑みを浮かべた。


「やっぱり思っていたのと違うってなるよね。私も最初はおんなじことを思ってたよ」

「あ、姫野さんもそうだったんだ。俺はてっきり、ほかの人たちは軽音楽部がこんな普通じゃない部活だってことを分かってて入ったんだ、って思ってた」

「うん。私はバンドとか興味あったんだけどね。もちろん聴くほうじゃなくて、やるほうにさ。でも、いざ入ってみたら楽器禁止だなんて笑っちゃうよ」


 姫野さんはそう言って微笑んだ。というよりは、渇いた笑いというやつなのかもしれない。なので、俺も一緒に無理に口角を引き上げながら、「お、おかしいよな」と精一杯の相槌をうつと、「うん、おかしい部活だよ」と返ってきた。


「えーと、でも、そしたらなんで姫野さんはまだこの部活を続けているんだ?」

「まあ、それでも音楽は好きだからね。やっぱりそういう話をするのは楽しいし。古市君は音楽好きじゃないの?」


 ここで俺はどう答えるべきか思案した。音楽好きと言ったほうが確実に俺に対する印象はよくなるのだろうが、それだと嘘を言ったことになるし、深く追求されると間違いなくボロがでる。かといって馬鹿正直に興味がないと言ったら、印象は最悪になりかねない。どちらをとってもリスクがある難しい選択肢ではあるが、だったら正直に言ったほうがいいに決まっていると思い至った。


「……まあ、好きでも嫌いでもないっていうか、それに流行りのバンドとかあんまり知らないからなあ」

「あらま、そうなんだ。じゃあ音楽とか聴かないんだね」


 まったく聴かないわけというではない。しかし、聴いているのは主にアニソンである。それは言えない、なんとなく言いたくない。というか、そうだ、俺には唯一の音楽的アピールポイントがあるんだった。それを言わんでどうする。

 

「あ、でも俺、ギターは弾けるよ。バンドとか知らないけどギターのことなら分かる」と俺は言った。


 姫野さんは少しだけ身を乗り出すようにして「えっ!」と驚いた。そして、いつもキラキラしている目をもっとキラキラさせながら言う。

 

「古市君、やっぱりギター弾けるんだ!」

「そうだけど、やっぱりって……?」

「だってほら、前にギター持ってきてたでしょ?」

「あ、ああ、そういうことか」


 そんなこと憶えているのかとも思ったが、よくよく考えてみれば、そもそもあの頃の俺を姫野さんが知っているのが意外だった。あの頃、つまりは四月上旬時点での俺の影の薄さたるや、道端の石っころに等しく、もっと言えば透明人間に等しいくらい感じだったろうのに。ここにいる他の部員は俺がこの部活にいたことすら憶えていないのである。現に、ついさっき、「あれ誰?」みたいは反応はあったし。


「うん。それにしてもすごいよ、やっぱり」

「いやいや、全然、すごくないぞ。何の役にも立たなかったから」


「なにそれ」と姫野さんは笑みを浮かべたが、やがてそれは苦笑いのようになっていき、こう言った。


「でもそうだよね、ギターが弾けるのなら、ここにいても何にも楽しくないもんね。ここが普通の軽音楽部だったらよかったのにね」


 その言いぶりは、どこか憂いのようなものを感じさせた。


「うんまあ、それはそう思うけど。べつに気にしてないよ」


 俺も苦笑いして返した。


 会話がひと段落ついたところで、しばしの沈黙が訪れた。そうしていると、鴨志田先輩の楽しげな声が聞こえてくる。見やると、鴨志田先輩はさっきとは違う女子と談笑していた。テカテカと光り輝く便器のような白い歯を剝き出して笑っているのを見ていると、無闇に腹が立ってくる。俺はそれを紛らわすように姫野さんに問いかけた。


「そ、そういえばさ、鴨志田先輩って三年生だよな。ここにいて大丈夫なのか? 普通ならもう引退してもいい時期だと思うんだけど」


 姫野さんは顎に人差し指を当てて思案顔をしながら言った。


「あ、なんかね、先輩は卒業するまで部活は辞めないらしいよ。たしか、そう言ってた気がする」

「えぇ……」


 ずっとここにいる気なのか。本当にろくでもない男だな。どうせ部長としてそのちっぽけな権力を振りかざすのと、女子部員にチヤホヤされるのと、そして猥褻なこと云々に味を占めて、ここを辞めたくないだけであろう。受験に失敗して浪人してしまえばいいのに。

 

「ちなみに、鴨志田先輩はいつもあんな感じなのか?」

「え? あ、うん。まあそうだね。だいたいあんな感じ。いつも女の子と話してるよ」


 そうか、と俺は呟くように言った。

 鴨志田先輩はいつもああやって女子とだけ話して、猥褻な計画への布石を打ちまくっているのだな。どこまでも性欲に忠実で狡猾な奴め。まさか姫野さんにも手を出しているのではあるまいな。いや、姫野さんという可憐な女子に奴が声をかけていないわけがない。それを確認すべく、俺は訊いた。


「ところで、姫野さんは鴨志田先輩にどこかに誘われたことってあるの?」

「ず、随分と唐突だね。まあ何回かあるんだけど、全部断っちゃってるなあ、私は。そのときの鴨志田先輩って、なんかちょっと怖くてさ。つい断っちゃうんだよね」


 俺は安堵の息を吐いて、「よかった」と心から思った。というか、その「よかった」は口に出てしまっていたらしい。

 姫野さんが小首を傾げて、「どういうこと?」と訊いてきた。


「あ、いや、なんでもない。……けど、これからも鴨志田先輩の誘いには乗らないほうがいいと思うな」

「そうなの? どうして?」


 奴はろくでもない男だから云々、猥褻な計画を企んでいるから云々、詐欺が云々、強姦未遂が云々、とは言えない。それはあくまで憶測である。しかし限りなく確信に近い憶測でもある。


「なんとなくそう思っただけだけど……、とにかく姫野さんはそのままでいい」


 俺がそう言うと、姫野さんはふふっと笑った。ほのかに顔を赤くなっているようにも見えたが、それはきっと射し込んできた夕陽が彼女の顔を照らしているからであろう。


「よく分かんないけど、私は先輩の誘いに乗る気はないかな」


 と彼女は言った。

 そして「じゃあ私、そろそろあっち戻るね」と言って、立ち上がって静かに椅子を引き、もといたところに行ってしまった。

 俺はふうと大きく息を吐いて、そのまま机に突っ伏した。

 しばしの反省タイムである。

 まあ、なぜだか姫野さんが隣に座ってきてくれて、終始緊張していたが、なんだかんだで会話は出来ていたと思う。少なくとも、気まずい空気にはなっていなかったはずだ。でも、いささか積極性には欠けていた気がするし、もっとイイカンジの会話をするべきだったし、そうした反省点をあげたらキリがないほど思いつく。ダメだ。このままではダメだ。この好機を掴み取れることには、まだ全然至らない。

 そうやって脳内で反省会を開いているうちに、間もなく、今日の部活は終わった。

 鴨志田先輩が手を叩き、いかにも部長っぽく「今日もおつかれ!」と言うと、他の部員は「おつかれさまでした!」と声を揃えて言った。

 ああ、そういえば、こんな締め方をしていたっけ。

 それにしても、この部活のどこに「おつかれ」と言えるべき要素があったというのか。ただしゃべって、飲み食いしていただけではないか。そういうところだけまともな部活を気取るなよ、と改めて思った。


 そうして俺が昇降口に行くと、ちょうど姫野さんも昇降口にいた。俺は彼女に気づいたが、彼女は俺にまだ気づいていないらしかった。

 これは一緒に帰るというまさしく青春っぽいこともあり得るのでは、と思ったりもしたが、姫野さんにはいつも一緒に帰っている友達がいたうえに、そもそも帰り道がまったく逆方向であった。

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