其之十一 大いなる解放

 幷州へいしゅうで兵を挙げた高幹こうかんに勢いがあったのは半年足らず、抵抗期間は一年に満たなかった。

 建安十一(二〇六)年正月、遠征先の幽州から曹操そうそうが引き返して来ると、高幹は壺関こかん籠城ろうじょうするしかなくなった。三カ月後にはそれも陥落させられて、高幹は荊州に逃れようと脱出を試みたが、途中で捕まって最期を遂げた。それは同時に劉表りゅうひょうにとって、最大にして最後のチャンスを逸した瞬間でもあった。

 また、この年、孫権そんけん周瑜しゅうゆ孫瑜そんゆらを率いて、前線基地の予章郡柴桑さいそうから軍を発し、陸路で山越族の要塞である麻屯まとん保屯ほとんを討伐し、勝利した。そこは朱雀崖すざくがいにほど近く、江夏郡に属す。江夏太守の黄祖こうそはその隙を突いて、子の黄射こうえんに三千の兵で柴桑に攻撃を仕掛けさせた。しかし、柴桑県長の徐盛じょせいわずか二百の兵で奮戦し、黄射軍の攻撃に持ちこたえているところに周瑜らが引き返してきて、黄射は兵を引き揚げた。今まで散々攻められた意趣いしゅ返しのつもりが、結果的に多くの被害を出しただけで、黄祖の目論見もくろは失敗に終わった。

「ここを先に制したことで、我等に加護が働いたということであろうか?」

「それは何とも……討虜とうりょ将軍(孫権)はどうしてもこの地を得たかったようですね」

「お父上の破虜はりょ将軍(孫堅)が生前朱雀を坤禅こんぜんされた所だからな。そこを治めているのがかたきの黄祖なのだから、何としてでもこれを討ち果たして、墓前に報告したいという気持ちは分かる。何度も荊州を攻められて釈然としない貴殿の気持ちも分かるが、それは是非、直接主君に申し入れていただきたい。柴桑に帰還次第、会見の場を手配致そう」

「それはどうも……」

 魯粛ろしゅく龐統ほうとうは二人並んで歩きながら、孫権の支配地となった朱雀崖に向かった。

 断崖のへりに続く桟道さんどう。露出した岩肌は灼熱に焼かれたように赤く染まっている。

「ここが赤壁せきへきだ。別名を〝朱雀崖〟という」

 前を歩く魯粛がそう教えて、先導して桟道を進んだ。龐統が以前来た時は桟道がなかった。孫権軍の兵士たちが急遽きゅうきょ整備したものだ。龐統は岩肌に手を当て、不安定な足場を慎重に進んだ。黄射と一度この地を訪れたことがあるのを伏せ、魯粛の説明に聞き入る。

「孫家は破虜将軍の時から神器の守護者に選ばれた。朱雀の坤禅は先君が長沙太守であった頃に行われたそうだ」

 朱雀鏡すざくきょうは四神器の一つで、南方をつかさどる神獣・朱雀が彫り込まれた銅鏡である。

 坤禅というのは〝地宝〟とも呼ばれる神器をまつって、その霊力を大地に宿らせることをいう。神器は大地を巡る気、陰陽でいう陰の気が結集して具現化した霊宝、一種のパワー・アイテムである。山は陽、川は陰であるので、坤禅は東西南北の大河のほとりで行われた。

 朱雀鏡は長年所在不明だったが、孫堅が紆余曲折うよきょくせつの上それを探し出し、大学者・蔡邕さいようの手を借りて、江水沿岸のパワー・スポットである朱雀崖で坤禅されたという経緯があった。

 そして、坤禅以来、江水下流域に神器の加護が行き渡り、孫家はここに確固たる地盤を築くことができたのだ――――少なくとも、孫権はそう信じている。

 短い桟道はすぐに終点を迎えた。この先にいわやがあるのを黄射から聞いている。

 そして、そこは大窯おおがまでもいたかのような熱気に満たされ、入ることができなかったとも……。

「ここがそうだ」

 しかし、魯粛は言うと、崖にぽっかりと開いた小さな窟に入った。

 そこは天然の風穴を利用して作られた祀廟しびょうだった。確かに窟の中は熱がこもっている。肌をひりひりと刺激する熱気を感じるものの、耐えられないほどではない。

 魯粛に続いて龐統は『神仙概論』にあった通称〝朱雀のすみか〟へと足を踏み入れた。

『この熱さが霊気によるものなら、坤禅時よりも力は減衰しているということなのか?』

 洞穴の中には小さな祭壇が設けられているのが見えた。外光ではない光源がぼんやりと窟内を明るくさせていた。窟の横には岩壁を一直線に貫く溝が走っている。

 だが、これはそこから漏れた光ではない。岩壁の奥から滲み出ているかのような感じである。ちょうど夕暮れ時のような明るさだ。その不思議な照明に照らされて、亡き孫堅が愛用した古錠刀こていとうが今も神器を守るように地面に突き立っていた。床には朱書きで何かの紋様のようなものが描かれた形跡があるが、風雨でほとんど掻き消えている。しかし、それだけだ。神器である朱雀の銅鏡はどこにもない。それは見えないだけだ。坤禅されて形を失っても、その神秘の力は大地を巡っている。

「ここに巡礼を望むのは、やはり、〝鳳雛ほうすう〟と称されるその名のせいですかな?」

「それもありますが、孫家にお世話になる以上、見ておかなければと思いまして」

 龐統が祀廟に足を進めて祭壇の前にひざまずく。拝礼を捧げ、地にひたいを付けた。

 刹那せつな、龐統の額に熱い感触がほとばしり、地面から光と炎が溢れ出て、龐統の髪を焦がした。声を上げてのけぞった龐統と魯粛の視線の先で、立ち昇った炎が小さな火の鳥と化した。

「こ、これは朱雀? 士元しげん殿、何をしたのだ?」

「私は何も……」

 火の鳥は宙で輪を描いた後、窟を飛び出し、江水の彼方へ飛び去っていった。

「まさか坤禅が解かれたのでは?」

 嫌な予感を覚えた魯粛は急速に熱気が失われていく窟内で、背筋に悪寒おかんを感じた。


 思わぬ形で再び神器・青龍爵を手にすることになった孔明はどうするべきか判断を持て余した。青龍爵の名の由来となっている龍の彫刻。その両眼の青の宝石ラピスラズリはくすんでいる。

 孔明は隆中りゅうちゅうの草廬で蔡邕の『神仙概論』を写本したものをもう一度読み返してみたが、失われた霊気を取り戻す具体的な方法の記述はどこにも見当たらなかった。

「兄上、そこ雨漏りしていますよ」

 弟のきんの声が深い思慮の森で道を失って立ち往生おうじょうしていた孔明を現実へと引き戻した。小さな書斎に籠る孔明のすぐ脇にしずくが落ちてきた。外は雨だ。また多雨の季節が巡ってきて、もう三日は降り続いている。

「この草廬も随分年季が入っているからなぁ」

 孔明は呟きながら、手元にあった青龍爵を雨漏りする地点に置いて、それを受け止めた。

「今度雨が上がったら、修繕しておきますよ」

 書斎の向こうで均が言った。荊州に着いた頃はまだ「阿参あさん」と呼ばれていた少年も、今では十八の青年になった。孔明のような卓越した学識はないものの、世間一般的なことに関しては兄よりも知識があるし、農具の手入れや修理、料理の腕前も孔明より上だ。

「ところで、荊州学府に顔を出さないかという話。考えてみたか?」

「みましたけど、学問は兄上に教えていただいたことだけで十分です。烏有うゆう先生のようなお方がおられるのなら、行ってみたい気もありますが……」

「烏有先生か。今頃どうしておられるだろうか……?」

 孔明は卓上の羽扇うせんを見つめながら、烏有先生こと葛玄かつげんを懐かしんだ。

 幅広い学問の知識を持つ孔明であるが、彼にとっての老荘学の師は葛玄であった。

 ふと青龍爵に目をやると、全く雨水が溜まっていないことに気付いた。ちゃんと雨漏りする場所に置いたつもりだったのに、ずれていたのだろうか。上を見上げると、ちょうど滴が落ちてきた。それを目で追う。滴はしっかりと爵の中へと収まった。しかし、涓滴けんてきは落ちた瞬間、水滴の形をほどいて気となり、まるで銅爵の中に吸い込まれるように消えた。

「これは……」

 その刹那せつな、埋もれていた記憶の奔流がほとばしり、壮大な謎を解くヒントとなる記憶が浮かんできた。雨の日々。月夜。祝詞のりと河図かと。方術。葛玄……。事象を逆再生するように記憶が過去をさかのぼり、葛玄の方術の場面にフォーカスされた。

 廬江ろこうの月夜の下、地面に描かれた河図(魔法陣)と言霊ことだまを帯びた祝詞(呪文)の力で、葛玄は青龍爵の霊気を解放した。

 そもそも地宝である神器はもともと陰気が結晶化したものだ。霊力の源が陰気で、霊力の放出が陰気を失うことであるなら、逆にそれを吸収すればいいのではないだろうか。


 黄承彦こうしょうげん邸。孔明は黄承彦に一連の事情を話した。神器の話を聞いても、黄承彦に驚きの色はなかった。彼も孔明の龍才を理解している一人であり、清流派の思想を受け継ぐ隠者である。黄承彦は埋もれた記憶を掘り返しながら言った。

「昔、荊州に来た頃の劉荊州が神器を求めていた」

「そうなのですか?」

「劉荊州も若かりし頃は清流派に連なる名士であったからな。それがそなたの手に渡った。伝説の霊宝とこうも縁があるというのは、やはり、そなたが龍の才能を持つが故かのぅ?」

「私は自分の才覚については何も分かりません。ですが、この荊州を戦乱から守りたいという気持ちはあります。この神器の力をそのために使いたいと思います」

「うむ。まぁ、どんな方法を取るにせよ、劉荊州に預けるのはやめておいたほうがいい」

 黄承彦の妻は蔡氏で、劉備を襲った蔡瑁さいぼうの姉である。同じく蔡瑁の下の姉をめとった劉表とは義理兄弟の間柄だ。祖先が清流派の重鎮であった黄承彦は泥沼の政治抗争を避けて隠棲したのであり、劉表や蔡瑁とはあえて距離を置いている。

「今、この神器は力を失っていますから、預けたところで役に立ちません」

 数年前、清流派出身の劉表を信じて黒水珠を預けた。しかし、劉表はそれをうまく用いることができず、結局は曹操を利しただけに終わった。この霊宝を再び劉表に託すという選択肢は孔明の頭にない。

「まずは神器に力をよみがえらせるのが先決です。少々心当たりがあって、長沙に行ってみるつもりです。ですから、しばらくこちらにはうかがえません」

「そうか。神器を得て、そなたの身にも風雲が近付いてきたことには間違いあるまい」

 孔明が唐突に旅立ちを告げても、黄承彦は理解を示すようにうなずくだけだった。

 あの日、孔明は青龍爵を一晩中雨の野外にさらしてみたが、霊力が回復した様子は感じられなかった。

『――――普通の雨水では効果が薄過ぎるんだ。これではらちがあかない。恐らくもっと霊気を含んだ水が必要なんだ』

 そう感じた時、手にした羽扇を見て思い返すことがあった。

 葛玄はかつて巣湖そうこで方術を為した。龍脈りゅうみゃく(地下を巡る陰気の奔流)の影響が具体的地形として表出した場所が河川や湖沼こしょうであり、大河や大湖は霊気のパワー・スポットであることを葛玄から学んだ。

 荊州の大湖といえば、洞庭湖どうていこである。荊南の水を一挙に集めるその大きさ、その霊力は計り知れない。

「心配なのは、阿羞あしゅうのことだ。ずっと心が晴れやかであったのに、そなたがいなくなって、また以前のようにふさぎ込むようになってしまったら、父親としても困る」

「はい……」

 それを言われると、孔明も困る。沈黙した孔明に黄承彦が顔を近付けてにやけた。

「どうかな、阿羞も一緒に連れて行っては?」

「え?」

「わしも仙珠・神器のことはいくらか知っておったんだが、耄碌もうろくが酷くなって、困ったことに全てを思い出せん。そこでだ……」

 耄碌しているなど微塵みじんも感じさせない黄承彦が確信犯時な提案をする。

「それらについては全て阿羞に伝えてある。この際、阿羞を嫁にもらってくれまいか?」

 突然の申し出に孔明もうろたえた。孔明がうろたえたのは、未だ草廬暮らしの青書生あおじょせいでしかない自分が妻帯するという現実が全く想像できなかったからだ。

「一人であれこれ考えるより、身近に話し相手がいた方がよい。才色兼備というわけにはいかんが、才知はそなたとよく釣り合うと思う。良妻賢母の素質は十分だぞ」

 黄承彦は真顔になって愛娘まなむすめをそう評して、孔明に勧めた。それを聞いて、孔明も確かにそれもそうだと思った。考えてみれば、孔明が姉以外で身近に感じる女性は月英げつえいしかいない。彼女は知的で、話も合う。尊敬する承彦先生の御息女というなら、これはまたとない縁談だ。姉がいつまでも待たせるなと言っていたのが、今さらながら身にみた。

「有り難くお受け致します」

 頭でそう思うと、口がそう答えていた。


 善は急げの黄承彦の計らいにより、質素ながらも、つつがなく孔明と月英の祝言しゅうげんが取り行われた。月英の気持ちに配慮して、両家の身内だけを集めたささやかな婚儀だった。

 隆中に到着した新婦を迎えた孔明は赤く染め上げられた蜀錦しょくきんあでやかな花嫁衣装をまとい、絹のベールで顔を覆った月英を門を青い幕で覆った新居に迎え入れた。

 新居と言っても、荊州に来て以来今まで孔明が暮らしてきた草廬である。

 この晴れの日を前に幾箇所いくかしょか均の手によって修繕はなされていたものの、見た目にはくたびれたいおりに変わりない。

「迎えるのも恥ずかしいようなところだが……」

「いえ、しばらく外の世界を見ないで過ごした私にとっては、全てが新鮮でございます。それに、あなた様がおられるところなら、私はどんなところでも結構です」

 答える月英は顔を伏せていたものの、静かに嘉福かふくを噛みしめているようで、謙虚にもそんな言葉を言える月英を妻にめとったことを孔明も幸せに感じた。

 新郎が家に新婦を迎え入れ、晴れて夫婦生活が始まる。孔明が妻の顔を隠すベールを上げた。月英は恥ずかしそうにはにかんで、視線を落とした。しつこい陰気の固陋ころうはなおも遺っている。孔明は月英の固く強張こわばった頬にそっと手を当て、告白した。

「そなたと出会えてよかった」

 結婚という人生がきらめく瞬間であったからかもしれないが、孔明の目にはむしろ、月英の姿はまぶしくえて見え、とても美しい女性のように思えた。

「あなた様は全てのことに陰陽ありとおっしゃっていましたね。良きところと悪きところがあると。私は病を得ましたが、良きところがあったとはっきり分かりました。あなた様と出会えたことです」

 優しく温かい孔明の眼差まなざしはずっと前に月英の心を癒している。月英はもう自分を恥じることはない。今日のこの時から孔明は夫となって、自分の傍にいてくれる。その夫がこれから人生を共にする妻に声をかけた。

「頼りない夫かもしれないが、これからよろしく頼む」

「はい。よろしくお願い致します」

「うむ。それから、言っておかなければならないことがある。事情があって、私は間もなく旅に出る。のんびりと新婚生活を送ることはできない」

「はい。父に聞いて存じ上げております」

「そうか。その間実家に帰っていてもよいが、一緒に行ってみないか。長旅になるが、叶うことなら、江東の兄にも紹介したい」

 新婦は新郎の家で三日過ごした後、一時的に実家に帰ることが許されている。

 ハネムーンなどなかった時代であるが、孔明は新妻にいづまを旅の供として誘った。岳父がくふの黄承彦が保障した通り高等な話にも対応できる良き話し相手として、もちろん、神器についての月英の知識が頼りになるからでもあった。

「はい、喜んでご一緒します」

 この夫となら、どこまでも――――幸福と解放感に包まれた月英は躊躇ちゅうちょせず答えた。

 大事を託され、守るべきものができた孔明の人生は公私において大きく動き始めた。孔明と月英が夫婦となってから三日がって――――。

 旅支度じたくを整えて草廬を出ようとする孔明の姿があった。かたわらには新妻の月英。

「水鏡先生から与えられた宿題の答えを探す旅だ。しばらくは戻らない。家のことは頼んだぞ」

 頭には笠、背中には竹籠たけかごを背負い、ふところには布にくるんだ神器を抱えて、孔明が弟の均に告げた。月英も笠を目深まぶかに被り、杖を持ち、共に旅立つ準備は万端の様子だ。

 均は兄夫婦のために三日の間、姉の龐家に行っていて、今度は家を空ける二人のために戻ってきていた。均は門前で兄夫婦を見送った。

「はい。ご心配なく。兄上、姉上、お気を付けて」

 建安十一(二〇六)年、山が紅く色付き始めた秋の頃。孔明夫妻は隆中を後にした。そんなことを知らない劉備が隆中を訪問したのは、それから幾日も経たない頃であった。


 洞庭湖の北岸に湖に突き出るような小さな山がある。名を湘山しょうざんという。対岸は巴丘はきゅうといい、かつて江東の周瑜が進出して軍事拠点を築こうと画策した場所である。小さな城邑まちに過ぎなかった巴丘はその後、一時劉琦りゅうきが開発を継続して、規模が少しずつ大きくなっていった。今では城の外に軍船が係留できるように港が整備されている。

 漁民や運漕うんそう(水運事業者)などの民間の船はそこから少し離れたところに停泊していた。孔明夫妻が城から続くゆるやかな石段を港の方へ下り、運漕の船をチャーターしようと事業者を探していると、思わぬ人物と再会した。龐統である。

「士元じゃないか」

「ん、孔明か」

 龐統の方は孔明の姿に驚きもせず、相変わらず淡々としていた。

「どうしてここに? 江東へ行ったんじゃなかったのかい?」

「まぁ、いろいろあってな……討虜将軍には用いられなかった」

 龐統はそんな告白もさらりと言って、ぼりぼりと頭をいた。

 魯粛の紹介があり、龐統は柴桑さいそうに駐留していた孫権に面会した。

 ところが、孫権の待遇はかんばしいものではなかった。それは開口一番で知れた。

「――――そちが子敬が推薦する龐士元か。書簡から受ける印象とは随分違うな。朱雀の封印を解いたというのは本当か?」

 非難するような口調で孫権が聞いた。事前に送られていた魯粛の書簡は龐統の才能を褒め称えていたが、その事件のせいで、孫権ははなから龐統を軽視している風があった。

「――――それはわかりません」

「――――ふん、わからぬと申すか」

「――――はい。何をもって封印を解くというのかさえ、私にはわかりかねます」

「――――子敬の報告では、そちが朱雀崖に入った後、火の鳥が現れていわやを出て行ったというぞ。これを封印を解いたと言わずに何と言う。どうしてくれるのだ?」

「――――それもわかりません。私がわかっているのは曹操への対抗手段でございます」

「――――そんなものはそちに聞かずとも、公瑾に聞けば済むことだ。そちが私に仕えたいのなら、朱雀を再び坤禅こんぜんしてみせよ。話を聞いてやるのは、それが終わってからだ」

 孫権は吐き捨てるように言って席を立つと、さっさと会見の場を後にした。

 坤禅は大地を祭祀して、神器の霊力を地に宿すことをいうのだが、孫権は龐統にそれを命じたのだ。孫権にはすでに周瑜という絶対的右腕がいたし、何より父が坤禅した朱雀の封印を解いたかもしれないような男を孫権が信用できるはずもなかった。

 別に龐統はあっという間の会見終了に腹を立てたわけではなかったが、孫権に言われたとおり、飛び立った朱雀の行方を探して、巴丘にまでやって来たのだった。

「ところで、その女性は?」

 龐統が孔明のかたわらで笠で顔を隠すようにしている女性のことを聞いた。

「ああ、私の妻だよ。承彦先生の娘の月英だ。つい先日妻帯した」

「黄月英でございます」

 失礼にあたらないよう、月英は笠を取ってあいさつした。龐統は自分の顔のことも気に留めない男なので、当然ながら月英のみにくさにも無頓着で、

「そうか。それはめでたい」

 表情も変えずに祝福の言葉を述べるだけだった。喜怒哀楽の表情に乏しい龐統の顔からはあまり喜んでくれている様子には見えないのだが、孔明は彼の性分をよく知っているので、それが本心からの言葉であると分かった。

 孔明が冗談半分に聞く。

「ありがとう。それで、孫討虜のところを離れて、士元も今は妻探しの旅かい?」

「無官の上にこの顔だからな。それは神器を得るより難しいだろう」

 自虐にも淡々としている。龐統はふと気付いて、

「孔明がここにいる理由を聞いていなかったな」

 その問いに、孔明は神器・青龍爵が再び自分の手元に戻ってきたその経緯を話した。加えて、師の葛玄がかつて言っていた言葉や湘君しょうくんの伝説などいくつかの理由から、洞庭湖中の湘山に渡るつもりであることを龐統に告げた。

 湘君とは古代中国で五帝の一人に数えられるしゅんの二人のきさき娥皇がこう女英じょえいのことである。舜は荊南を巡行中に蒼梧そうごで病にかかって没するのだが、舜の巡行に付き従っていた二人はそれを嘆き悲しんで、湘水に身を投げ、やがて風雨波浪ふううはろうを呼び起こす水神すいじんになったという。地元民は湘水が流れ着く洞庭湖の小島に霊廟れいびょうを建て、二人の霊魂をまつった。故にその小島は〝湘山〟と呼ばれる。

「私の中で湘君の伝説が神器と結びついた。伝説には何か根拠があると思うんだ」

「なるほど。私も同じようなものだ。『荘子そうし』にある鵷鶵えんすうの記述を辿っている」

 鵷鶵とは鳳凰の一種で、梧桐あおぎりあらざれば止まらず、練実れんじつ(竹の実)に非ざれば食わず、醴泉れいせん(甘い味の水)に非ざれば飲まず――――と『荘子』に記されている。

南華老仙なんかろうせんの伝説も神器と関係があるんだろうか?」

 南華老仙は荘子のことを指す。荘子は武陵郡の奥地、南華山なんかさんに湧く醴泉を飲んで、長寿を得、ついには成仙せいせんしたという。

「わからないが、この目で確かめてみるつもりでいる」

「そうか。じゃ、途中までは共に行こう」

 孔明の提案で、龐統は孔明夫妻と同船することになった。


 船がゆっくりと冬の湖面を進む。小さいながらも、船蓋せんがい付きの船だ。孔明と龐統はその船蓋の下で情報交換をした。月英は夫の邪魔にならぬよう、口を挟まずにおとなしくしている。二人の話を耳に入れながらも、どこまでも続く雄大な湖面を見つめて、静かにこの旅を楽しんでいた。

周郎しゅうろうが巴丘に拠点を置こうとしたのは、荊州攻略もさることながら、神器との関係もあるようだね」

 孔明が龐統に尋ねた。〝周郎〟とは、周瑜のことである。

「そのとおり。蔡智侯さいちこうの『神仙概論』に〝朱雀の巣〟という記述があったが、あれがここから二百里先の『赤壁』と呼ばれている場所だ。江東がしきりに江夏に兵を出したのは、その場所を確保する魂胆があったのは間違いないだろう。劉予州が長沙を攻めた際に熱波の壁があったと言うが、それは坤禅された朱雀の霊力が長沙まで及んでいたからだと思う。しかし、それは突如として消えた……」

「それは坤禅が解かれてしまったということになるのだろうか?」

「わからないが、どうやら、そういうことらしい」

 仮に坤禅が解かれたとするなら、それは自分が原因ではなく、劉備が長沙攻めをしようとしたその時だと龐統は考えている。

「じゃ、朱雀の神器を再び巣に坤禅することができれば、曹操との決戦に勝利できる一つの大きな要素になるだろうね。朱雀の神器は……何と言ったかな?」

 孔明は隣に座る妻にそれを尋ねた。月英は一瞬の間もなく、夫の問いに答える。

朱雀鏡すざくきょうです。背面の朱雀の彫刻には紅玉こうぎょくがはめられていて、その周りに鳥文ちょうもんが彫り込まれているそうです」

 紅玉はルビーのこと、鳥文とは、鳳凰をデザインした紋様をいう。

「以前、竇武とうぶ将軍の縁者が荊南の地に秘匿していたのを孫破虜そんはりょ様が見つけ出し、蔡智侯さいちこう先生の手によって坤禅されたそうでございます。智侯先生は祝詞のりとそらんじて、朱雀鏡の霊力を解放したということです」

「驚いた。奥方は我等より物知りなのではないか?」

 それを聞いた龐統はまた表情を変えずに言い、孔明もそれを肯定する。

「うん。自慢の妻だよ」

 龐統と孔明にそう言われ、月英は思わず顔を伏せた。もちろん、それは容姿を恥じたものではなく、知識を褒められた恥ずかしさからである。


 湘山は山というよりは、水上に浮かぶ丘といった感じである。湘君は水神でもあるので、湖で漁をする漁民たちに大層うやまわれていた。そして、彼らが代々自主的に祠廟しびょうを管理してきたせいか、湖上の島という辺鄙へんぴな場所にありながらも、湘君の祠廟は打ち捨てられることなく、整然と存在していた。暗雲立ち込める空と斑竹はんちくの林が小さな祠廟を覆い、幽寂とした雰囲気をかもし出している。斑竹は幹にまだら模様の染みが付いているのが特徴で、それは湘君の涙がにじんだ跡だとも言い伝えられている。

 孔明らは祠廟に足を踏み入れると、湘君が描かれたレリーフの前で礼拝を捧げた。そして、孔明は洞庭湖の水で祭壇の前に河図かと(魔法陣)を描き、中心に青龍爵を置いた。

「神器は陰気を凝縮、結晶化したものだという。霊力を取り戻すには、陰気を集めらければならない。私はその方法を知った」

 孔明はおもむろに羽扇うせんをかざして、葛玄かつげんと山に入って修業した時のように息を整え、精神を落ち着け、心をぎ澄まし、心身を自然と調和させる。それが自然物が持つ陰陽の気を己の意思で操る条件となる。そして、そのための力。

 自然に溶け込んだ孔明の口から、霊力をもたらす呪文がとなえられ始めた。

帝子ていし北渚ほくしょに降る。目眇眇びょうびょうにして予をうれえしむ。嫋嫋じょうじょうたる秋風、洞庭波だって木葉もくよう下る……」

 それは、古代の詩人・屈原くつげんが遺した詩の一節であることに龐統も気付いた。

湘夫人しょうふじん』と題されたこの詩は女神が男神の湘君を想って歌ったものだとされる。

白薠はくはんに登りてのぞみせ、佳期かきともにせんとしてゆうべに張る。鳥なんぞひんの中にあつまれる。あみなんぞ木の上になせる……」

 ただし、それはただの詩ではない。詩の形をした祝詞のりとである。孔明の足は呪文の効果を高める作用がある禹歩うほのステップを踏む。龐統は孔明の所作をじっと見つめている。

げんしんあり、れいに蘭あり。公子を思いて未だえて言わず。荒忽こうこつとして遠く望み、流水の潺湲せんかんたるをる……」

 孔明の方術が進むにつれて神器は湖上の陰気を集め、祠廟内に流れ込む。それはまるで龍の細長い体を形作るかのように薄い霧となって孔明の周りを巡り、孔明の姿をゆっくりと包み隠していく。そして、孔明の黒の羽扇の動きにふわりと辺りに広がって、月英と龐統をもすっぽりと覆った。孔明の祝詞だけが祠廟に木霊する中で、霧はどんどんと濃度を高め、黒く滲んでいく。辺りは夕闇に包まれたように薄暗くなっていった。

汀洲ていしゅう杜若とじゃくり、まさもって遠き者におくらんとす。時はしばしば得るべからず。しばら逍遥しょうようして容与ようよせん……」

 それが、孔明の呪文が終わるとともに一瞬の内に明転する。濃霧はどこかへ消えた。全てが変わっていた。

「あ……」

 龐統が珍しく表情を歪めて驚いた。いつの間にか孔明の隣に別人の女性がいる。

 自身の変化に気付かず、きょとんとする月英。だが、それはまぎれもなく月英本人である。ただし、長年彼女を苦しめた醜女しこめの姿は、もうそこにない。夜空に輝く月のような、華も恥じらう美しさは彼女が本来持っていた真の姿だ。

 陰とは、水。陰とは、夜、陰とは、女性。そして、月英の顔に残るのは陰気の固陋ころう……。神器が湘山の陰気を集める中で、月英の固陋も吸い取ってしまったのだ。見れば、烏の羽で編んだ黒い羽扇は白く変わっており、青龍爵に欠けていた龍の彫刻も復活していた。

 他にも、祭壇の傍に黄金こがね色の小型のかなえ(食物を煮炊きする祭器)がひっそりと出現していたのだが、孔明も龐統も月英と青龍爵の変化に捉われて、それが目に留まることはなかった。

「孔明が言うとおり、伝説にも伝承にも真実が潜んでいるようだ。『史記』に曰く、男は己を知る者のために死に、女は己を愛する者のために形作る。まさに」

 劇的な変化をもたらした超常現象を目の当たりにしても、またいつもの龐統が戻ってきて、孔明と月英の奇跡を淡々と褒め称えた。


 祠廟の外は明るかった。空の暗雲は消え、夕陽が差し込んでいる。三人は気付いていないが、斑竹の斑模様も消えてなくなっている。

「屈原の魂もここに流れ着いたか」

 夕陽が照らす赤い湖面を眺めながら、龐統がぽつりと呟く。そして、本気か冗談か、

「私の顔もましにならないものかな?」

 孫権に採用されなかったのは、その容姿が一因にあることは自覚していた。

「士元のは生来のものだから、何とも……。それに、その才能も天賦てんぷのものだし、それを孫討虜もいずれ分かってくれるだろう」

 孔明は龐統の後ろ姿にそう声をかけた。容姿が邪魔をして彼の才能が光って見えないのは残念なことだが、彼の真の姿はおおとりであり、やはり、天を翔ける大才を持つ。

「それに、何も私と違う道を歩もうとして江東に行くことはないよ。我等は姻戚なんだし、今この時のように同じ道を行ったっていいじゃないか。士元さえ良ければ、いつか私から予州殿に紹介しよう」

「孔明は劉予州の下に行くと決めたのか?」

「ああ。再びこの青龍爵を手にして、それが天命なのだと思った」

 力を回復した神器。美しさを取り戻した妻。長年孔明の心を覆っていた懊悩おうのうの雲も晴れた。今や孔明の決意は清々すがすがしいほどに澄み渡っている。

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