5. 七色カレーライス

 豚バラブロック、鶏もも肉、セロリ、キャベツ、玉ねぎ、マイタケ、人参、大根、ブロッコリー、ハム、冷凍餃子、豆腐、納豆……宮前家のキッチンの床に、わたしは嬉々としてビニール袋から食材を並べた。


「ダメになっちゃうなって諦めてたんです」


 強制的に押し付けたアイスは溶けていて、おばさんは小皿でオレンジ色の滴を受けながら食べ進めていた。


「根菜類は常温で大丈夫だから持って帰って。うちにもあるし。餃子は焼くとして、お昼どうしようかしら? 買い物してなかったのよね」

「焼きそばにしませんか? ちょうど余ってたんです」


 買いだめしすぎちゃって、と3食入りの袋をふたつ取り出した。


「ひとり暮らしでこれ? 一週間焼きそば食べるつもりだったの?」


 居間にいる啓一郎さんがキッチンに並ぶ食材を見て声を上げた。


「買い物は出会い(セール)とパッション(激安)ですから」

「いや、買い物こそ計画性だろ」


 真っ向から意見が対立したところで、


「俺は一週間焼きそばでもいいよ」


 電気屋のチラシを見たまま、まさかのおじさんがわたしを擁護してくれた。


「ですよね! 一週間お祭り気分になれるし」


 否定も肯定もせずに、おばさんは冷静に食材と向き合う。


「他のものはともかく、この豚バラと鶏肉は使っちゃった方がいいわね。でも焼きそばには向かないし。何作るつもりだった?」

「カレーです。具材ゴロゴロの普通カレー。鶏肉はパッションで」


 ブロック肉もわたしに特別なこだわりがあったわけではなく、たまたまその日スーパーで豚コマより安く売られていただけのものだった。


「じゃあ夜はカレーね。カレーなら作っておけば暗くなってもあたためるだけでいいし」

「せっかくなので他の野菜も入れちゃいます? おろし金ですったら何でも入れられると思うんですよね」


 豆腐や納豆を手にしてそう言うと、啓一郎さんが慌ててキッチンに入ってきた。


「カレーを闇鍋にする気か!?」

「だってもったいないし。ルー入れちゃえば食べられますよ? 暗ければ何入っててもわからないですって。ねえ?」


 笑顔で同意を求めたのに、さっきはやさしく手を差し伸べたおじさんは、チラシから顔を上げても何も言ってくれない。


「豆腐と納豆は今そのまま食べたら? 他のはなるべく頑張るけど、無理はしない方がいいと思うわ」

「それもそうですね」


 おばさんの意見はもっともなので、わたしは豆腐と納豆をとりあえず冷蔵庫に入れた。



 おばさんが餃子を焼いて焼きそばを作り、わたしが豆腐に納豆をかけてテーブルに並べる。朝の残りだというなめこと油揚げのお味噌汁をつけたら、組み合わせはともかくそれなりに立派な食卓になった。


「おばさん上手! ちゃんと野菜と麺が絡んでる~」

「そんな。袋の裏見て作っただけだし」

「わたしが作るとね、野菜と麺がぜんっぜん絡まないんです。麺をすり抜けて野菜が下に集合するって言うか」

「よく混ぜればいいんじゃない?」

「混ぜようとして、こう、下から上に持ってこようとしても麺だけぐるって回転して、やればやるほど麺がまとまっていくんですよね」

「そうなの?」

「あれ、頑張れば最終的にはわたあめみたいに箸に巻き付いて、歩きながら食べられるようになるかも」


 わたしが大きなひと口を頬張りもぐもぐ咀嚼すると、居間には沈黙が降りる。しばらく待っても誰も話さないので、無難な話題を投げ掛けた。


「停電、いつ終わるんでしょうね」

「そうねえ」

「明日と明後日は土日だから仕事ないけど、月曜日までに復旧してますかね? 様子見に行った方がいいのかな?」


 携帯は電池節約のためにあまり触っていないけれど、会社からの連絡はない。何かできることを探して、少しでも仕事をした方がいいのだろうか。


「大きな交差点には警察の人が立って誘導してくれてるけど、それでもまだまだ混乱してるから、無理に出歩かない方がいいと思う」


 今朝一度職場に行った啓一郎さんがそう言った。彼の皿はもう空になっている。


「そうですか。みんな大変だな」


 他人事のように言って焼きそばを食べると、また食卓はしずかになった。さっきから話しているのはわたしばかりで、お皿にはまだ半分以上焼きそばが残っている。


「あれ? もしかして食事中はおしゃべりしてはいけないルールでした?」


 黙々と食べる宮前家のメンバーの中にあって、わたしは完全に浮いていた。そういえば、朝の宮前家から声はほとんど聞こえない。朝ドラの会話は聞こえるのに。


「ちがうの、ちがうの。この人たち普段からあんまり話さないだけよ。いつもはテレビの音がしてるけど、こうなると我が家は本当にしずかね」


 おばさんが話しても、しずかな雰囲気は壊れない。


「そうなんですね。わたしなんか、ひとりでもしゃべったり騒いだりするから、うるさかったら遠慮なく言ってください」

「よくひとりで歌ってるもんな」

「そうですか?」


 他の人の歌う頻度を知らないから、よくわからない。


「ゴミ捨てるときも、よく歌ってる。CMソングとか」

「ああ、直前に観たやつですね、きっと。頭で鳴ってると歌っちゃいますよね」

「いや、歌わない」


 優雅にお茶をすする啓一郎さんは容赦なく否定してきた。


「妙に頭に残って離れない歌とかありませんか?」

「あるけど、別に口に出したりしない」

「ええっ! 誰かがかえるの合唱を歌い出しても輪唱しないタイプ?」

「そもそも輪唱するタイプの人間がいるのか?」

「しますよ! おばさん、しますよね?」

「しないよー」


 空いている左手をひらひら振っておばさんも否定した。


「おじさんは?」

「え……しないな」


 自分に火の粉が降ってくると思わなかったのか、おじさんはビクッと肩を震わせた。


「そんなー」

「だから普通しないって」

「いえ、家庭環境の違いかもしれないじゃないですか。今度会社で聞いてみてくださいよ。100人中何人歌うかで決着つけましょう!」

「そんなこと職場で100人に聞いたら、それだけで変人扱いされるよ」

「ひとりぼっちは嫌です。仲間を探してください」

「自分で探せ」

「うちの会社、100人もいないですもん」


 電気が止まって普段よりしずかなはずなのに、普段より賑やかだった。窓を開けたらきっと、わたしの部屋にもこの会話は届いていると思う。



“一般的なカレーライス”の作り方は、一体何百通りあるのだろう?


「このくらいの大きさでいいですか?」

「うん、いいと思う。お肉をあれだけ大きく切ったんだから、人参も同じくらいにしないと」

「そういうものですか?」

「具材の大きさを揃えるのは基本だと思うけど……」

「そうなんですね。考えたことなかったです。いつもそのときの気分で切ってたので」


 ざっくざっくと包丁を入れている人参は、先細る形状に合わせてどんどん小さくなっていっている。同じように切っていたはずなのに不思議なことだ。


「大きさが違うと煮え方にもバラつきがでるでしょう?」

「いつも圧力鍋でシュッてやるので」


 どろどろに煮崩れているから何が何だかよくわからない。それで不自由したことはないけど、これからは気にしてみようと思う。


「お料理は適当でもなんとかなりますけど、お菓子作りはダメなんですよね。だから苦手です」

「お菓子作ったりするの?」


 意外だという態度を隠しもせず、おばさんは聞く。


「わたしも一応女の子ですから、バレンタインの経験くらいありますよ」


 フードプロセッサーが使えないので、おろし金でセロリをショリショリしながら切なげな顔をして見せた。


「友達が『マドレーヌならかんたんだよ』って言ってたのを鵜呑みにしたんですよね。計るの面倒だったから全部目分量で生地作って、アルミカップに入れて、バレンタインだからコーヒービーンズチョコレートを一粒ずつ乗せて焼いたんです。マドレーヌを作ったはずが、完全な甘食が出来上がりました。奇跡的に!」

「甘食!?」


 込み上げる笑いでマイタケを刻んでいたおばさんの手も止まる。


「もっさもさで身体中の水分奪われそうなやつ。一応渡したけど、迷惑がられました」


 ショリショリショリショリッ!! 苦い恋の思い出に、セロリをすりおろす手にも必要以上の力が入る。


「あら、啓一郎は子どものとき甘食好きだったわよ。あんなにパサパサしてるのにお茶も飲まずに食べてたくらい」

「『おいしい』って言ってくれる人がいたら、作る側もやりがいありますよね」


 料理ができないわけではないけれど、おいしいと褒められた経験がほとんどない。誰か褒めて伸ばしてくれないかなと、クールな男性と穏やかな男性を妄想する。


「うちの夫も啓一郎も『おいしい』なんて言ったことないわよ。出てくるのが当たり前だと思ってるんでしょ」

「それはいけませんね。じゃあ今夜絶対『おいしい』って言わせましょう!」


 さまざまな想いとさまざまな食材が溶け込んで、カレーはとりとめのない色を帯びていく。


「なんだか複雑な色ね」

「大丈夫ですよ! ルーさえ入れれば。カレールーはすべてを均一に染め上げる黒い絵の具みたいなものですから」

「黒い絵の具は、あんまり食べたくないわねえ」


 つぶしたトマトとすりおろしたリンゴを加えて、なんだか赤サビみたいな色合いのドロドロをかき混ぜていると、おばさんがさみしげに笑った。


「誰かとおしゃべりしながら料理するなんて、ずいぶん久しぶり」

「そうですね。わたしも実家に帰ったときくらいです」

「お母様は楽しいでしょうね」

「うちは母も姉もしゃべり倒すタイプなので、キッチンは戦場です。このお家みたいにゆったりした空間に憧れます」


 たいていは姉の恋愛話が中心で、わたしは口を挟まず聞いていることが多いのだけど、気づけば母と姉がケンカしていたりする。似た者同士のふたりはお互いに一言多いのだ。実家において、わたしと父は気配を消すことに徹している。


「うちはひとり息子だから娘に憧れてね。いつか啓一郎にお嫁さんができたら、いろいろおしゃべりしながらお料理したいって思ってたんだけど」


 一軒家なだけあって広いキッチンは、こうしてふたり並んでも窮屈な感じはしない。


「啓一郎さんなら、もうすぐやさしくて料理上手なお嫁さんを連れてきますよ」


 おばさんは表情もなく、すでに細かく刻まれたマイタケを何度も何度も刻み続ける。


「五年くらい前にね、啓一郎、結婚しようとしてたの。そのときは隣県に勤務しててひとり暮らしだったんだけど、うちにも挨拶に来てくれて」


 ドロドロを炒める手が止まっていた。啓一郎さんが今独身なのは間違いなさそうで、つまりこれはあまり楽しい話ではない。


「ちょうどその頃、私が病気しちゃってね。乳ガン。早期だったからこうして命は拾ったんだけど、お父さんだけではいろいろと大変で、啓一郎も帰ってきてくれたの。だけど、瑠璃さんとはうまくいかなくなっちゃったみたいなのよね」


 粉のように細かくなったマイタケを鍋に入れられて、わたしは慌ててかき混ぜる手を動かした。少し焦がしてしまったようで、ヘラが鍋底に引っかかる。


「今になって思うの。私は助けてもらったけど、あの子はそのせいでずっとひとりなのかしら? って。それが心配」


 ゾリゾリと鍋底をこすると、黒いものが混ざり始めた。啓一郎さんはご両親のそばにいるけれど、ご両親は啓一郎さんのそばにいるとは言えない。そこは似ているようで大きな違いがある。親にとって子どもは支えになるけれど、子どもから見ると親は支えるべき対象であって、寄り添って生きてくれる存在ではない。


「そんなことないです。啓一郎さんって32歳でしたっけ? まだまだ若いですから、きっと素敵なひとを見つけます」


 言ってるわたし本人でさえ、薄っぺらい慰めだと思っていた。啓一郎さんの気持ちなんてわからないし、未来はもっとわからない。


「そうだといいんだけど」


 わたしのものとも、宮前家のものとも違うカレーは、一抹のさみしさと焦げカスを添えて、意外においしく出来上がった。



 わたしの中で「停電」=「キャンドルパーティー」なのだけど、


「そんなの絶対ダメよ! 火事になったらどうするの!」


 とおばさんが言うので、とっておきのチューリップキャンドルは出番がなくなってしまった。


「かわいいのになー」


 日常の中でキャンドルを使う機会はあまりなく、一度セレブを気取って(?)お風呂でつけたとき以来使っていなかった。そのときもよく見えなくて洗いにくいので、結局すぐ電気に切り替えた。

 おじさんが持ってきた懐中電灯は大小合わせて5個もあり、中にはスタンドタイプの大きなものもある。


「これ、なんかすごいですね」


 ボタンもいろいろついていて、ただならぬオーラをブンブン放っていた。まるで町内の子ども相撲大会に、本物の力士が紛れ込んだよう。


「これは充電式で、太陽光でも手動でも充電できる。ラジオも聞けるし携帯充電も可能」

「へええ! これさえあれば停電も怖くないですね!」


 わたしが千年前と変わらないアナログろうそくなのに対して、この家では最新携帯にも対応した備えがなされていた。ハンドルをぐるぐるっと回すと、蛍光灯のように明るいライトがパアッとついた。


「これ、うちのトイレより明るいですよ」


 携帯充電機能もラジオ機能もついているけど、この家にはそれとは別にラジオも電池式携帯充電器も、各種電池も豊富にあった。


「ほえ~! 備えがあるから憂いがない!」

「小花ちゃん、懐中電灯は?」

「買おう、買おうと思ってそのまま……」

「ラジオは?」

「あった方がいいんだろうなーって思ってます」

「携帯充電器は?」

「あ、それは買ったことあります! だからどこかにあるはず」


 痛い……おばさんの笑顔が毛穴という毛穴に刺さる。


「お節介は承知で言うけど、非常用ライトくらいは買った方がいいと思うよ?」

「そうですよね。でも高そうだな」

「そんなことないわよ。カットソー一枚我慢すれば買える程度」

「いやいや、わたしが着てるカットソー、500円くらいですから。ほぼ全部古着ですもん」


 おばさんはわたしが着ている薄いピンク色のカットソーをじっと見た。


「これも?」


 わたしも裾あたりをつまみ上げて眺める。


「そうですね。これは300円だったかな」

「全然古く見えないわよ?」

「でしょ? でしょ? いい世の中になりました。古着は貧乏OLの強い味方です。借金返済まで新品は買わない所存です!」

「借金……?」


 おばさんの顔が悲しげに歪むので、慌てて説明を付け足す。


「借金って言っても奨学金です。それも大した額ではなくて、少しずつゆっくり返還してるので大丈夫ですよ」


 不景気が長く続いたせいか、わたしのように奨学金返還を抱えている人も多い。200万円の返還はできなくはないけれど、ごく普通の会社員がひとり暮らししながら、となるとそこそこ負担に感じる額だ。借金返済というと、会社には内緒で夜の仕事も掛け持ちし、「母が病気で……」と涙ながらに訴えてお客さんから援助してもらうのが王道(?)だ。でもわたしの場合、月2万ずつ8年くらいかけて返す計画になっているので、地味ーーーな生活を心掛けることでなんとかやりくりできている。


「でも、大変ね」


 思いがけず深刻な空気になり、わたしの方が恐れおののいた。


「いやいやいやいや、今時奨学金返還なんて珍しくないし、もっと大変な人もたくさんいますから。まあ、ブランドバッグ持ってるキレーなお姉さん見ると、自分とのあまりの差に落ち込まないこともないですけど、それはお金だけの問題じゃないし……」


 男の人はみんなあんな女の人が好きなのだろうか? 好きに決まってる。違うという人はキレーなお姉さんから相手にされないがために痩せ我慢をしているに過ぎない。啓一郎さんもこんな顔してコロッと態度を変えるに違いない。あーやだやだ男って。汚れたものを見る目で啓一郎さんを見ていたら、以心伝心のように目が合った。


「ブランドものってそんなにいいかな? 布や革があんなに高いとは思えないんだけど」


 啓一郎さんが納得できないもののひとつが、高価なノースリーブシャツだという。あんなに原価が低そうなのに売値が高いということが受け付けないらしい。


「擁護するわけではないけど、布や革の量り売りしてるわけじゃないですからね? 材料や技術の質の高さ以上に、そのデザインを産み出した想像力や長年築いてきた企業の信頼度なんかが値段として反映されてるんです」

「日常使う分には3万円のバッグも30万円のバッグも変わらないと思う」

「それは同感です。だけど例えば……」


 黄色い懐中電灯をテーブルに向けてつける。美しい木目がまあるく輝いた。


「ただの懐中電灯だと買う気しないけど、『これはシンデレラが行った舞踏会のシャンデリアをモチーフにしてます』って言われたら買いたくなりますよね?」

「別に普通でいい」

「ロマンですよ! もっとキラキラ乱反射させて、本体もプリンセス使用にしたら高くっても買っちゃうなー」


 テーブルに落ちた灯りの中で王子様とシンデレラがくるくる踊る様子を妄想する。


「ただの懐中電灯でも買う気になった方がいいよ」

「……はい」


 お世話になっている身で言い返すこともできず、パチリとスイッチを切って舞踏会を終わらせた。



 つんつんと勢いのある白米が土鍋の中で湯気をたてている。炊飯器が使えないから、おばさんが炊いてくれたものだ。


『手を入れて……だいたいこの辺まで水を入れるの』


 と教えてくれたけど、目分量に慣れたわたしでもいまいちよくわからなかった。今は炊き上がったものを蒸らしていたのだけど、我慢できずにこっそりキッチンに忍んできたところ。おばさんは下山さんの家に、いただきもののお礼を言いに行っていて、おじさんは近所を少し散歩すると出て行った。はやく炊けたご飯を見てみたいのに、まだ帰ってくる気配がない。

 待ちきれず縁に沿って差し入れたしゃもじを返してみると、


「うっわあーーー! いい匂ーーーい!」


 こんがり揚がったコロッケくらいのちょうどいいお焦げが姿を現した。さくさくとおこげと白米を混ぜ合わせながら、こまめに深呼吸を繰り返す。


「過呼吸になるぞ」


 騒ぎ(わたしの声)を聞き付けた啓一郎さんが斜め後方から覗いてそう言った。


「肺を鍛えておけばよかった。ずっと吸っていたいのに吐き出さないといけないなんて悲しい」

「鍛えたって吸い続けたら死ぬよ」


 あたりを見回すと、キッチンにはわたしと啓一郎さんだけ。念のため居間を覗いてみたけれど、まだ誰もいなかった。急いで土鍋のところに戻り、特に色づきよくカリッとした部分を手のひらに乗せる。よくかき混ぜたせいか我慢できないほどの熱さではなく、手の上で白い湯気がほわんとくゆる。


「こそこそしても、俺いるんだけど?」


 選び抜いたひとすくいをしゃもじに乗せて差し出した。


「はい。もちろん共犯です」

「共犯……」

「二番目にこんがりしてるゾーンのお焦げですよ」

「一番は?」


 自分の手のひらを持ち上げる。


「当然こっちです。冷めますから早く!」


 ふらっと出した啓一郎さんの手に二番目のお焦げを乗せて、わたしはさっさと最高のお焦げを頬張った。


「おいしい! 最高!」


 くねくねと身悶えるわたしの隣で、啓一郎さんも黙々と咀嚼している。


「おいしいですよね?」

「うん、まあ」

「不満~。 もっと全身でおいしさを表現して欲しかったのに」


 半ば踊るわたしをよそに、啓一郎さんは手を洗う。ご飯を食べて踊ることなど、きっと生涯ない人だろう。それでも“共犯”にはなってくれる。そこは断られるとは思わなかった。


「ご飯、うまく炊けてた?」


 おばさんが入ってきて、わたしは慌てつつもさりげなく手を洗った。


「見るからにおいしそうに炊けてますよ」


 啓一郎さんは何も言わず、けれど口元を歪ませてキッチンを出ていった。他愛ないものでも、共有した秘密はとろりと甘く、つるつるぴかぴかの小石のように手の中であたためたくなるものだ。

「どれどれ?」とおばさんも手のひらに乗せたご飯を食べ、「小花ちゃんも」と勧めてくれる。


「おいしいですね」


 にっこり笑って食べたご飯はやはりものすごくおいしかった。しかし、身悶えすることなく二度目の手洗いをしずかに済ませた。

 キッチンの窓は、ここも庭に面していて、黄金色に暮れていく空の様子が、磨りガラスを通しても感じられる。電気のない室内にはすでに陰も見えるようになってきた。停電はまだ終わらず、いよいよ暗い夜がやってくる。


「夜になるわね……」


 同じように窓越しの空を眺めて、おばさんは心細げにつぶやいた。それはわたしに向かって言ったようでいて、ステンレスのシンクにからんと落ちるようだった。その間にも空は一段と黄色みを増し、闇も深くなったように感じる。


「あ、ねえ、おばさん! 夕食のカレー、お庭で食べませんか?」


 突然ひらめいたと思ったら、すでに口に出していた。


「今朝物置小屋の中に、イスとテーブルがあったの見たんです。家の中でも外でも真っ暗なら、外の方が楽しそうだなって。風も気持ちいいし」


 夜はだいぶ涼しくなったとはいえ、長袖なら心地よい程度。暑くるしい真夏よりはむしろ今がちょうどいい季節だ。


「そうね! 家の中にいても鬱々としちゃうし、その方が楽しいわね!」



 古くてガタガタしたガーデンテーブルは、下に段ボールを敷いて調整した。中央にライトとラジオを設置し、カレー鍋とご飯の土鍋、福神漬け、らっきょうなどは縁側に並べる。コールスローサラダとぬるいビールがそれぞれ4つ、イスの前に並べられたけど、問題はそのイス。


「さすがにわたしの方が軽いです」

「『減る気配がない』って言ってなかった?」

「言ったけど! それでも成人男性ほどは重くないですよ!」


 テーブルとセットのイスは4脚あったけど、壊れて今は2脚しかないらしい。啓一郎さんが自室で使ってるスツールを下ろしてきたのと、あとひとつは除湿機が入っていた段ボール箱を立ててイス代わりにしたのだ。啓一郎さんは断固として段ボールに座っている。


「ほら! ちょっとめりこんでるじゃないですか」

「この状態で安定してるんだよ」

「無様に転んでも知りませんからね」

「そんなにイスを使いたくないなら、その場で空気イスでもしてれば?」

「3秒、いや2秒できたら褒めてくれます?」

「2秒でカレー食えるならね」


 ハイスペック電灯は明るく頼もしいけれど、青白い色のせいで色味が曖昧になる。たっぷりと盛り付けられたカレーライスを、啓一郎さんは恐る恐るすくった。いただきます、とは言ったものの、そのまま角度を変えながら観察している。


「何を恐れてるんですか?」

「いや、明らかにいつものカレーじゃないから」

「カレーも日進月歩で進化していくものですからね」

「うちのカレーは30年変わらぬ味でやってきたはずなんだよ」


 麦茶を注いでいたおばさんが笑いながら助け船を出してくれた。


「大丈夫よ。変なものは入ってないし、ちゃんと味見はしたから」


 母への信頼は確かなものらしく、啓一郎さんはようやくひとさじ口に入れた。


「あれ? おいしい」

「ほらほらほらほら! おばさん、聞きました? やりましたよ、わたしたち!」


 実はこっそり様子を伺っていたらしいおじさんが、安心したようにスプーンを動かし始めた。


「わたしって信用ないなあ」

「それは小花の発言に問題あるからだよ」


 啓一郎さんが初めてわたしの名前を呼んだ。びっくしたけれど、反応したらもう呼んでくれないような気がして、気づかないふりをした。


「カレーなんてルー入れれば大丈夫なのに」

「それ。その考え方が危険なんだって」


 灯りはひとつだけど、虫の声にラジオ、わたしたちの会話があって、テーブルはとても賑やかだった。


「これ、啓一郎がもらってきたやつ。冷えてないのが残念だけど」

「わああああ! メロン! いただきまーす」


 添えられた爪楊枝でひと切れ持ち上げてニヤニヤしていたら、口に入る10cm手前でつるりと落下した。


「あっ! 落としちゃった。どこどこ?」


 4人一斉にだいぶ暗くなった地面を捜索する。


「あ、ほら、あそこ。お父さん取ってあげて」


 おじさんはイスの後ろに回り込んでメロンを拾い上げた。


「拾ったよ。ほら」


 テーブルの上にメロンを乗せ、布巾で手を拭っているおじさんに、ありがとうございます、と伝えた。


「……まだ食べられますかね?」


 メロンと同じ目線になって土の付着具合を確認する。


「無理だろ」


 啓一郎さんはいつも容赦ない。


「3秒ルールは?」

「屋外は適用範囲外」

「小花ちゃん、まだあるからそれは諦めて」


 遠慮なくいただいた新しいメロンは、ぬるくても甘味が強くてとてもおいしかった。


「おいしい! 幸せ! あれ、これ朝ドラの主題歌だったやつじゃないですか?」


 ラジオから流れた曲に聞き覚えがあると思ったら、以前放送していた朝ドラの主題歌だった。


「そうね。ふたつ前のやつね」

「♪ら~ら~、あーさー♪らららら~見上げたーそーらー♪」


 常にうろ覚えのわたしは、虫食いだらけで口ずさむ。


「♪今ーはじまる~、ほんとう~の~気持ち~♪」


 まっとうに覚えていたおばさんが正しい歌詞を補完してくれた。それでも、


「♪ら~ら~♪メロ~ン~、おいしい~♪」


 結局わからないので創作。

 不謹慎だけど、楽しかった。もしお邪魔してなかったら、今頃冷たくて硬いカップラーメンをひとりですすっていただろうから。少し顔の角度を変えるだけで、真っ暗なわたしの部屋が見える。夜になってみるとやっぱり不安で、あそこにひとりだったら心細かったと思う。この停電が終わって自宅に帰っても、すぐ隣に親しい人たちがいるのは心強いし、何より見えるところに啓一郎さんの部屋がある。それがとても嬉しかった。






  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る