3. 広がる薄茶色

 ところで、世の中の女子はクールな男性と穏やかな男性、どちらが好きなのだろうか? わたしの心は常に、ふたり(妄想)の間でふしだらにもフラついている。仕事から疲れて帰ってきたとき、やさしい笑顔で「おかえり」って迎えて欲しいなあ。だけど、「要領悪いからだよ」なんて厳しく言われた後にあたたかいコーヒーを淹れてくれるやさしさもたまらない! ……つまりは両方やさしいのだから、やさしければいいのか。やさしい男性が好きです。

 そんな愚かなわたしのように、晩夏の気温はクールと穏やかの間をふらふらしている。昼間の気温はそれなりに上がるのに、朝晩は急激に冷える日もあって、「さっきはあんなにやさしかったのに……」と頬を殴る風に涙する。かと思えば「なんだ片桐! シャキッとしろよ!」と朝昼晩筋トレを欠かさない運動部先輩並みに暑い日もあって、不真面目な後輩であるわたしは「先輩……もう、ダメ、です……」と力尽きて妄想を終える。どうせ翻弄されるなら、気温や妄想なんかじゃなくて、素敵な男性に翻弄されたいものだ。

 半分夢の中でそんな愚にもつかないことを考えているのは寒いからだ。じめじめと暑苦しくて窓を開けて寝たのだけど、朝が近づくにつれて気温はどんどん下がっていたらしい。窓を閉めなければ、死なないまでも風邪をひいてしまう。それでも布団から出たくなくて妄想に逃げたのに逃げ切れず、しぶしぶ身体を起こして窓を閉めた。

 夜明けが近いはずなのに、空にその気配は感じられない。朝の早い宮前さんもまだ起きていないらしく、家も庭もしずかな闇に沈んでいる。あの風の抜ける居間では一層寒いのか、最近はずっと窓を閉めていて、めっきり食器の音も聞こえてこなくなった。おばさんとも啓一郎さんとも道で会えば挨拶を交わす程度で、それすらごく稀。音は聞こえなくてもあの居間では今日も湯冷まし(というらしい。あのカレールー入れの名前)を使って高級緑茶を淹れているだろうし、わたしもわたしで相変わらず白っぽい朝ごはんを食べては星占いを流し観る。見えるほど近くに住んでいても、住宅街には別々の人生がひしめきあっているのだ。

 クールな彼か穏やかな彼か、運動部の先輩かという三択しかないと思っていたら、暴力的な元彼が幸せな日常を壊すこともある、と天気図のうずまきを見ながら思い至った。南の方では次から次へと台風が発生しては消えていく。寒暖差で体調を崩しやすいとは言っても、雨風に振り回されないだけ幸せだ。

 高校の木が折れたの、あれって台風だったっけ? 小学校のとき一回だけ学校が休みになったことはあったよなあ。

 幸せなことに、台風に関する被害ははっきり思い出せない程度のものだった。台風なんて来ないし、来たとしても大したことない。これがわたしに限らずこの辺りに住む人間の一般的感覚だ。友達の友達がDV男に困っている、という程度の距離感。だから九州と四国に上陸した台風25号が日本海に抜けたときには、どうせすぐに温帯低気圧に変わるだろうと油断しきっていた。気象予報士が台風の威力の強さを強調するのは常のことで、元旦に引くおみくじより少し信用度があるくらいのもの。ところが、北上するうずまきは一向に解散することなく、くっきりとしたドーナツ型を保っている。梨やリンゴ農家では収穫作業を大急ぎですすめ、ダリア園ではすべての花を縛って固定している。そんなニュースが続くようになり、いよいよ今日の深夜に最接近という段になって、さすがのわたしも不安に駆られる。


「これ、明日の出勤は大丈夫かな?」


 わたしは自転車通勤だけど、雨の日はバスに乗る。けれど報道されているような暴風と豪雨なら、傘すら危ういのではないか。レインコートも長靴も持っていないのに。


「うーん。でも今さら何ができるわけでもないし。まあなんとかなるか」


 としずかすぎる夜を過ごした翌日2時、見通しの甘さを痛感させられた。空の奥でビュオオオオオオオオーという音が渦を巻く。巨人があくびをしたような恐ろしげな音もする。少し遅れて、ザバアッ、ザバアッと強弱つけて雨が窓を打った。風の流れに合わせて窓だけでなく、アパート全体がガッタガッタと揺れる。あまりに雨脚が強いので、その雨粒だけでガラスが割れるのではないかと思えてくる。道路の様子を確認しようにも外は見えず、窓を開けることも難しい。天気予報を見ながらどうしたものかと考えても、時すでに遅し。今さら何らかの備えができるわけもなかった。せいぜい祈るのみ。


「ふーん。じゃ、寝ちゃおう」


 唯一できる祈りさえ放棄して、冷えたベッドを体温であたため心地よく眠りに落ちた。その四時間後、『停電のため本日休み』という班長から班員全員への一括メールで起こされることとなった。


 停電。

 わたしもこれが初めての経験ではない。小学生のとき、実家の電線にトラブルがあったとか何とか、なぜかわたしの家だけ停電になったことがある。夕方から翌日の午前中までそれは続き、電気会社の素早い対応によってすぐに復旧した。あのとき幼かったわたしは、誕生日のようにろうそくがたくさん揺れるのをわくわく眺めた記憶しかない。ご飯やお風呂がどうだったのか覚えていないし、ひとりではないから寂しくもなかった。何より、わたしの家以外は電気がついていたので、すぐ近くにある街灯から入り込む明かりで、完全な闇にはならなかった。

 デジタルの時刻表示の消えたテレビに一応リモコンを向けてみたけれど、やはり反応はない。水道をひねってみると水は出たので、とりあえずトイレを済ませ、電気の消えた冷蔵庫を開けて中を確認。


「アイスは溶けちゃうな」


 8本入りのアイスは5本残っている。全部は無理だけれど、とりあえず1本食べることにして、牛乳もできるだけたくさん飲む。


「どうしよ」


 防災意識の低いわたしには、停電時の知識なんてない。幼い頃のイメージで、アロマ用のキャンドルとライターは用意したけど、まだ必要ない。とりあえずコーヒーでも飲みたいところだけど、わたしの住むこのアパートは望んでいないのにオール電化だった。牛乳を一応冷蔵庫に戻すついでに確認しても、調理なしで食べられるものは食パンくらいしかない。カップラーメンは水でも戻ると聞いたけれど、まだそこまで思い切れなかった。


『小花、そっちは大丈夫?』


 さすがにこんなときは母親らしいメッセージが届くものらしい。


『停電してるけど大丈夫。電池もったいないから連絡は控えるね』


 マーガリンを塗りつけた生の食パンをもそもそ食べながら、肉親らしいといえば肉親らしい親不孝なメッセージを送り返す。続けて数人の友人とも安否確認をして、同じく停電中の同僚とは暗黙の了解でかんたんなやりとりを済ませる。その後は電池温存。


「コンビニ行って来ようかな」


 電気が通ってなければ中は暗いだろうし、レジも動かないだろうけれど、もしかしたら……。足早に通りすぎた台風は、ネットの情報だと温帯低気圧に変わったらしい。窓から見下ろす通りは濡れているものの空は明るく晴れ上がり、町中に散りばめられた水滴が日の光にキラキラ輝いている。見た目にはいつもと変わらない世界が広がっていた。

 他に思い付かないので、歩いて7分のコンビニまで雨上がりの涼しい風を感じながら歩いていく。この非常事態に浮き足立っているのか、足元でぴしゃぴしゃ跳ねる音は楽しげにすら聞こえる。台風の名残なのか時折強い風が吹いて、青モミジに残っていた水滴をわたしの顔まで飛ばしてきた。羽織ったカーディガンの袖口でそれを拭う。停電という実感がいまいちなかったのだけど、通りに出ると信号機は消えていた。さほど大きくない通りだから、行き交う車の隙間を縫って走って渡ったけれど、大きな通りではこうもいかないだろう。

 お散歩気分で気楽にやってきたわたしと違い、コンビニ周辺は少し殺気立っていた。同じように考える人がドアから溢れて列をなしている。レジに並ぶ列ではなく、コンビニに入るための列であるらしい。入り口から覗いてみても、人ばかりで中の様子はわからない。懐中電灯の灯りがあちこちでチラチラ動いているだけだった。


「あらー、こんにちは!」

「あ、どうもー」

「買えたの?」

「うーん、一応ちょっと。コーラとバームクーヘンと、インスタントのスープとね。ご飯になるようなものは何も残ってなくて、あとはお菓子ばっかりよ」

「みんな考えることは同じだものねえ」


 コンビニから出てきた人とその知り合いの会話を聞いて、わたしは来た道をさっさと引き返す。のんびり惰眠を貪っていた自分に、食べ物を恵んでくれるアリさんなんていないのだ。食パンはあるし、いざとなったらカップラーメンを水で戻して食べればいい。あとは海苔とハムはそのまま食べられる。停電は不便だけど、死にはしないだろうとふたたびたらたら歩いて帰った。することないし、眠くないけど寝ようかなと、ちょうど見えてきた自分の寝室の窓を見上げたとき、


「小花ちゃん、おはよう。大丈夫だった?」


 ブロック塀の向こうから声がかかった。


「あ、おはようございます」


 門から顔を覗かせていたのは宮前さんのおばさんだった。


「おはようございまーす!」


 その向こうの庭でせかせか動いているおじさんにも挨拶すると、ペコッとうなずくような会釈を返され、やはり啓一郎さんのお父さんなんだと妙に納得した。


「お庭、大丈夫ですか?」


 土に汚れたおばさんの軍手を見下ろす。


「うん。大丈夫よ。風向きがよかったのか何本か折れた花もあったけど大きな被害はなかったの。ただ、ゴミが溜まっちゃって」

「お手伝いします!」


 日頃の恩を返すのは今に違いない。おばさんの脇を通りすぎてお邪魔しまーすと庭に踏み入ると、慌てた声が背中に降りかかる。


「靴が汚れちゃうから」

「大丈夫です。元々汚れてるスニーカーだし。どうせ暇だし」


 足元に落ちていたメロンパンのビニール袋を拾っておじさんの持つゴミ袋に入れた。一見して荒れた様子はないけれど、飛んできたゴミや枯れ草などがあちこちに引っかかっている。


「木の葉っぱは落ちたりしなかったんですか?」


 ゴミ袋に入れているのはどれも飛ばされてきたものらしく、まだ青々とした庭木は艶のある葉に光を集めていた。


「意外と大丈夫だった」

「あれって何ていう木ですか?」

「あれはグミの木、こっちはひめりんご。実もなったけどカラスにぜんぶ食べられちゃってね」


 ぼそぼそとではあるが、拒絶した風でもなくおじさんは答える。


「カラスは残念ですけど、台風被害がなくてよかったですね。さすがに今回は身の危険を感じたので」


 停電までしているのだから、何十年に一度の大襲来なのだ。もっと直接的な被害に遭っている人もいるかもしれない。けれど、塀のそばに避難させた鉢植えもすべて無事だったらしい。かわいらしい実をつけているムラサキシキブ(おじさんに聞いた)にも、可憐なシュウカイドウ(おばさんに聞いた)にも、台風の名残は感じられない。


「よいしょ! っと」


 おばさんの指示を受けつつ鉢を元の位置に戻す。


「ごめんね、小花ちゃん。無理はしないで」

「大丈夫でーす」


 膝に不安を抱えるおばさんに無理をさせたくなくて、おじさんとふたりで鉢を運んでいた。大丈夫、大丈夫と笑顔で安請け合いしたのだけど、持った瞬間予想以上に重くて笑顔が引きつった。だけど予想より重いなんて言えず、何でもない風を装って作業を続けていたのだ。


「この水、何かに使いますか?」


 縁側の脇にあった大きなバケツに雨水が溜まっている。断水時なら貴重だけど、今回は停電だけ。


「ああ、それ捨てるわね」


 おばさんがバケツを受け取ろうとするので、


「あの水道のところでいいなら捨ててきます」


 とまたしても安請け合いしてバケツを運んだ。これまた予想より重い上に縁まで満タンに水が入っていて、フラつくだけで水がこぼれる。表面張力を刺激しないよう必死に静かに運んでも、靴とデニムに少しだけかかった。どうにか玄関脇の水場まで運び一気に流すと、ガゴンと勢いのままにバケツが倒れた。ザッパンと大きく波打った泥水は水場を飛び出して……


「母さん。俺これから……わ!」


 タイミング良く玄関から出てきた啓一郎さんにかかってしまった。グレーのパンツへの被害はよくわからないが、白いワイシャツには薄茶色の水跡が確かに見える。ごく薄いので数m離れればわからないかもしれないけれど、そういう問題ではない。


「わー!! す、すみません!」


 慌てて縁側にあったタオルを押し付けてこすったら、汚れはさらに広がっていく。


「あ……」


 泥で汚れた軍手をつけたまま拭いたせいで、余計な汚れを擦りつけてしまったようだ。もはや数m離れたとしても、はっきり汚れて見える。


「重ね重ねすみません!!」


 すがりつくようにシャツを握って謝罪したのに、啓一郎さんは少し乱暴にワイシャツからわたしの手を離して、


「着替えてくる」


 とふたたび家の中に戻っていった。

 あーあ、すっかり怒らせてしまったよ。

 あの夏の日の記憶があるから少しは親しみを持っていたのに、関係性はマイナスに転んだらしい。ほとんど会うこともないし、嫌われたからといってわたしの生活にさほど影響はないけれど、水を流し終えたバケツは、ガランと悲しげな音がした。

 それから少しして、


「あら、啓一郎。仕事?」


 庭とは家屋を挟んで反対側にある駐車場の方からおばさんの声が聞こえた。何か返事はしたかもしれないけれど、啓一郎さんの声は聞こえない。


「信号機も動いてないし気をつけてね。暗くなる前には戻っておいで」


 まもなく車のエンジン音がする。それが遠くなり聞こえなくなるまで、わたしは見えない車を見送った。



「小花ちゃん、どうもありがとう! もう終わったからうちでお茶でも飲んで休みましょう」


 おばさんがそう声を掛けてくれ、疲れ切ったわたしは喜んでうなずいた。

 二度目となる宮前家の居間は、南向きの縁側から入る光で明るく、停電であることも忘れてしまいそうだった。サッシを閉めているせいで風は入らないけれど、その分入り込む陽光と畳の匂いが、少し冷えた腕をやさしく包んだ。


「ポットが使えないから不便ね」


 とおばさんはヤカンから湯冷ましにお湯を注いだ。それを湯呑みに移してから急須に入れる。特別丁寧にしてるというよりも、馴染んだ日常の仕草だった。茶葉の場所も知らない啓一郎さんがちゃんと湯冷ましを使った理由が、なんとなくわかる。


「いただきます」


 明るい若葉色のお茶はあたたかく、すっきりとした苦味がおいしかった。おじさんもお茶をすすりながら日なたで新聞を読んでいる。


「あったかいお茶が飲めるって幸せですね」

「ガスと水道は無事だからね」

「そっか。ガスがあればお肉とかお魚も使えるんですよね」


 カレーを作ろうと思って買った豚バラを思い、切ないため息をつく。


「あ、豚バラのかたまり使いませんか? うちだと傷んじゃうだけだから」


 いいひらめきだとおばさんに提案するも、ポカンとされる。


「小花ちゃんが使ったらいいじゃない。昼間なら動けるし」

「うち、オール電化なので今調理はできないんです」

「それは……不便ね」


 うつむいて思案に暮れるおばさんに、わたしはおずおずと声をかける。


「あの……あとでお湯もらってもいいですか? カップラーメンはあるんですけど、何しろお湯がなくて……」

「だったら小花ちゃん」


 おばさんが決然と顔を上げた。


「停電が終わるまで、うちにいなさい」

「へ?」


 驚いておばさんの顔を見たけれど、おばさんはおじさんの方を向いていた。


「いいわよね? お父さん」

「ん? ああ」


 新聞に目を落としたままおじさんも答えた。ちゃんと話を聞いていたのかあやしいと思ったけれど、おばさんはそれを同意と受け取った。


「大体、こんなときに女の子ひとりなんて物騒じゃないの。家族と一緒の私でも不安なのに。そんなに長い期間じゃないだろうし、そうしましょう」


 ヤカンから湯冷まし、そして急須へとお湯を移してから、おばさんがお茶を足してくれる。保温がきかないせいか、さっきよりもぬるいお茶はどこかとろりと感じた。


「わたしにはありがたいお話ですけど、啓一郎さんは嫌じゃないでしょうか? いきなり他人が入ってきて」


 さっきの啓一郎さんの態度だと、とても歓迎してくれそうには思えない。


「啓一郎? 大丈夫よ。家に誰がいたってマイペースに動く子だから」


 あの態度を思い返し、それもそうかと納得する。それに両親が許したのなら、例え嫌でも面と向かって反対はしないかもしれない。少しの間だし、迷惑がられてもまあいいかとわたしも覚悟を決めた。


「じゃあ、お言葉に甘えてお邪魔します。よろしくお願いします」

「どうぞどうぞ」

「それであの、ひとつお願いが……」


 そうと決まれば気になることがある。


「なあに?」


 おばさんはゆっくり小首をかしげた。


「実はさっき、啓一郎さんのワイシャツとパンツを泥で汚してしまって。それ、洗濯させてもらえませんか?」


 クリーニング店もお休みだろうし、洗濯機は使えない。それでも放置しているとどんどん取れなくなってしまう。


「そんなの気にしなくていいのよ。どうせ安物だし」

「いえ。啓一郎さん、ずいぶん怒ってましたから」

「何か言われたの?」

「言われたわけじゃないけど、かなり不機嫌そうでした」


 申し訳なくて顔をまともに見られなかったけれど、声色は冷たく感じた。話しもしたくないとばかりにさっさといなくなってしまったから、許してもらっていない。


「たぶん気にしてないわよ。ああ見えて、怒ることなんてほとんどないの」

「それでもシミになる前に洗った方がいいですし。わたしに貸してください」

「ちょっと待ってね」


 おばさんは出ていき、居間にはおじさんのお茶をすする音と新聞をめくるパラリという音が大きく響く。


「これね」


 パタパタとおばさんは戻ってきて、啓一郎さんの白いワイシャツを広げた。こころなしかさっきより濃く茶色のシミが見える。


「このくらいならすぐ取れるから、私がやっておくわ」

「申し訳ないのでやらせてくださいー!」

「そう? じゃあ、うちのお風呂場でどうぞ」


 クリーム色のタイルが貼られたお風呂場は、古いながらも明るく清潔だった。アパートのバスルームには窓がなくいつも暗いけれど、ここは高い位置に取り付けられた明かり取りの窓から光と風が流れてくる。おばさんが用意してくれた大きなタライと泥汚れがよく落ちるという緑色の固形せっけんで、シミの部分を軽く揉むと、それだけで汚れが跡形なく消えた。


「わー! 気持ちいい!」


 お日さまの光を受けて、白いシャツは発光するように真っ白になった。全体も軽く洗って水を交換し、柔軟剤と糊づけまでしてから絞る。さすがにシワばかりはどうしようもない。パンツの方は汚れの場所がよくわからないので、全体的にせっけんをつけてやさしく洗った。こっちは絞るのも躊躇われて、畳んだ状態でぎゅっぎゅっと押して脱水したものをベランダに干す。あたたかい日差しと少し冷たい風がワイシャツとパンツを乾かしてていく。


「今日は風があるからよく乾きそうね。洗濯できないなんてもったいない」


 きれいな青空を見上げながらおばさんは残念そうに言った。


「暇だしカーテンでも洗ってこようかな」


 休みの日は何をするともなくテレビを観たり、本を読んだりしている。テレビは観られないし、なんとなく落ち着いて読書する気持ちにもなれない。


「あ、いいわね、それ」


 沈みがちだったおばさんの顔がぱあっと明るくなった。


「まとめてうちの浴槽で洗いましょ。別々にやるより効率いいわ」


 わたしの返事を待つことなく、おばさんはカーテンをはずしに家の中に戻って行った。




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