やさしく包むエメラルド

木下瞳子

1. 青いネクタイの彼

 春、夏、秋、冬、どの季節もいいけれど、わたしはとりわけ初夏が好き。ちなみに“夏”とくくってしまうとそれほど好きじゃない。殺人的な気温は言うまでもなく、朝の貴重な時間の中から日焼け止めを塗る時間を捻出するのが悔しい。皮膚呼吸できずに息苦しい一日を過ごした夜、日焼け止めを落とす時間がまたうっとうしい。あの一連の作業時間を合わせたら、避暑地まで夏休みに行けるのではないかとさえ思う。ちなみに「紫外線は一年中存在しているので、日焼け止めも一年中必要です」と言い張る方は、防空壕にでもこもってるがよろしい。

 ともかく、まだ寒く埃っぽい春が終わり、じめじめした梅雨が始まる前のほんのひとときが、わたしはとても好きだ。

 北国ではまだエアコンの必要ない夜、ベッドサイドの窓を開けると、お隣の庭に、月の光が世界をしっとりと濡らすように降り注いでいる。緑と月光をまとった涼しい風がわたしの寝室を満たすと、明日の朝には楊貴妃にでもなれるような根拠のない幸福感を覚える。「月の光にも紫外線があって……」などとのたまう方は、核シェルターにでもこもってるがよろしい。そうして、まだ冬用の羽毛布団にすっぽりくるまり、初夏のわたしは傾国美女の夢をみる。

 そんな日の翌朝はたいてい、お椀やお茶碗をテーブルに置く音で目覚めるのだ。ことり。ことん。かたん。かしゃ。ことり。かたかた。かちん。食器の触れ合う音を聞きながら、いつの間にかぐちゃぐちゃになっていたタオルケットの下で身じろぎする。枕から頭も上げず携帯で確認した時間は五時五十七分。アラームまでは三分ある。ふたたび携帯を投げ出してゴロンと転がった視線の先には、いろ味のうすい青空が、それでも一日の晴天を力強く約束しながら広がっている。

 しばらくするとかしゃかしゃという食器の音が大きくなり、まもなく引き戸を開ける音や同じ場所を何度も往復する足音も聞こえてくるのだ。

 お隣に住む宮前みやまえさんは朝が早い。夏は特に早くなるのだと、宮前さんのおばさんは言っていた。事実、わたしがまだベッドでゴロゴロしている時間に、お隣の一家は朝食を終えている。この季節は一日中縁側の戸を開けているらしく、そのため庭を挟んで隣のアパートの二階に住むわたしにまで、居間の物音が直接届くのだった。

 ここに住んで三年目。よほどの熱帯夜でない限り窓を開けて眠るわたしには、すでに宮前家の朝の音が夏の風物詩のように感じられる。

 ぴろりらん、りんらんろんらん。気づくと長ーーいまばたきをしていたようで、三分はほんのひと呼吸で過ぎ去っていた。アラームを止めて身体を起こすと、よく手入れされた宮前家の庭が見える。この住宅街にあってはまずまずの広さがあり、青々とした芝生と澄んだ池、庭木の濃い緑いろの葉がすがすがしい。

 ぴろりらん、りんらんろんらん。切り忘れたアラームのスヌーズ機能が発動して、今度こそアラームをオフにする。


「はあ~。朝の時間と永遠の愛はうたかたね……」


 すがすがしくないため息が、肌に馴染んだタオルケットに落ちる。それを払いのけて、さわやかな朝と愛のまぼろしに別れを告げてベッドを降りた。



 朝のテレビから流れるのは、大企業の脱税、大臣のセクハラ発言、人気芸人の不倫。この汚れ切った世界に憤りを感じ、持っていたグラスを握り砕く。……ことは当然なく(だって握力20以下だし)、半分閉じたままの目でチーズトーストをもそもそと噛んでから、ひび割れひとつないグラスで牛乳を流し込んだ。

 ガラステーブルの上にグラスを戻すとガチッという音がする。ふと、宮前さんの家ではこんな音はしないと気づいた。お皿が触れ合うときこそ多少はかちゃかちゃしているけれど、あとはたいてい「ことり」と落ち着いた音がする。おそらくテーブルがそれなりに重さのある木でできているのだろう。さらにメニューもご飯にお味噌汁がメインの和食で、食器も陶器や漆器が多く、グラスは使っていないかもしれない。朝早く漏れ聞こえるその音は賑やかであってもうるさくはなく、身を任せたくなるものだった。


『次は双子座のあなた!』


 番組はいつの間にか星占いコーナーに入っていて、双子座のわたしは仕事運が好調と言われた。

 じゃあ休みたいから誰か代わりにやってくれないかなー。

 ヨーグルトの空容器を置くと、今度はカコッという音がした。我が家のテーブルからは情緒豊かな音はしない。乳製品(チーズ)&乳製品(ヨーグルト)&牛乳。宮前さんの朝食はこんな白っぽくないに違いない。たとえば、ご飯(白)、お味噌汁(赤茶)、ほうれん草とベーコンの炒め物(緑とピンク)、だし巻き玉子(黄色)……。妄想してみた結果、だし巻き玉子を黄色にする自信がないので(あれ、茶色になりますよね?)、白っぽいメニューで妥協することにする。


『ラッキーアイテムはスニーカー』

「あ、今日木曜日だ!」


 この地域は月曜日と木曜日が家庭ゴミの日。生ゴミをビニール袋に移してからゴミ袋に入れ、冷蔵庫に眠り過ぎている危険な“元”食品はないか目を凝らす。やつらの擬態はかなり巧妙で、さも食べ頃のように鮮やかな色味を保ったまま、恐ろしいものへと変化していたりするのだ。そうして袋の余裕を確認してから、捨てよう捨てようと思っていたベージュ(と呼ぶにはだいぶ土気色)のスニーカーとくたびれたパンプスを突っ込んだ。ラッキーグッズを捨てるのを躊躇うほど、サザンカゆりえ(占い師)を信じていない。

 ゴミ収集所は宮前さんの家と反対方向の、十字路の角にある。折り畳み式のボックスが設置されており、最初に捨てる人が開いて、ゴミが回収された後は、週替わりの当番が簡単な清掃とボックスを畳む作業をすることになっている。

 袋の重さに耐えながらよちよち歩いて行くと、すぐ先に白いシャツを着た背中が、ゴミ袋を両手にひとつずつ持って歩いていた。高くなり始めた太陽の光が、シャツの白さで一層まぶしく感じて、わたしは目を細めた。

 彼は宮前さんの息子さんであり、25歳のわたしより年上だろうと予想はしているけれど、顔以外何も知らない。硬質な髪の毛だけが、日差しの影響を受けないかのように黒々としている。


「おはようございまーす」


 ボックスの蓋を開けてゴミ袋を入れている彼に、わたしは笑顔で声を掛けた。彼はこくんとうなずくようにして、


「おはようございます」


 と挨拶を返す。口の開き方が浅くもごもごしているので聞き取りにくい。定型の挨拶でなければ、閑静な住宅街の中にいてさえ何を言っているのかわからないと思う。だけど相手はただのお隣さんで、このゴミ捨てのときくらいしか顔を合わせない存在だ。たとえ無視されたとしても別に構わない。

 チュンチュンという鳴き声が頭上を通り過ぎていく。それをなんとなく目で追いながら、彼が場所を空けるのをぼんやり待っていた。

 スズメなんて久しぶりに見たかも。最近見ないのは個体数が減ったのか、わたしが周りを見る余裕をなくしているのか。

 そんなことに気を取られて一向に動かないわたしを、彼はボックスの蓋を押さえて待っていた。


「あわわ、すみません!」


 慌ててゴミ袋を突っ込もうと持ち上げるけれど、そこそこ高さのあるボックスの壁をゴミ袋は越えてくれない。

 本当に何がそんなに重いのか。あ、スニーカー捨てたから、あれか!

 犯人は判明しても、脆弱な筋肉の助けにはならず、ゴミ袋はドサリと道端に落っこちた。


「ああああ!」


 ベージュのスニーカーはもちろん、納豆の容器やチョコレートの包み紙という、わたしの毎日がうっすら透けて見える袋を、彼は無言で拾い上げた。屈んだ瞬間、夏の海のように深い青のネクタイが胸元を離れ、ゴミ袋をさらりと撫でる。ゴミ袋は今度こそ、悠々とボックスの中に収まった。


「ありがとうございました」


 彼はふたたびこくんとうなずいて、薄く開いた口から何かを言った。「どういたしまして」と言ったのか「受けた恩は身体で返せ」と言ったのか、定型の挨拶でないのでわからない。そして今度こそわたしを置いて帰って行った。

 約50mの距離を真っ白な背中を眺めながら戻り、その背中がお隣の門に入るのを見送る形になった。まもなく黒い車がそこから出て走り去っていく。さて、みんな出勤の時間だ!

 目覚めたときは涼しかった空気も、すでにじっとりと重い熱を持ち始めていた。濃くなった青空を見上げると、矢のような日差しが目を射る。


「夏だなー」


 まぶしさから地上に顔を戻して、わたしは自転車置き場へと足を進めた。






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