桜に降る雨

和泉瑠璃

 それは、別れのための約束だった。

 けれども、無情にも雨は、桜の花びらとともに、約束までをも流してしまった。


 美咲は毎年この時期に必ず雨が多くなることを、ひどい理不尽だと思っていた。あの小さくて、風が少し吹いただけでさらさらと花びらを散らす花は、雨なんかに打たれればたちまち花びらをなくしてしまう。

 幼かった美咲は、こんな風に自分のやるせなさをきちんとした言葉にすることはできなかったけれども、つたない言葉を尽くして幼馴染の大輔に伝えたことがある。

しかし、十も年上の少年はいつものようにぶ厚い本を熱心に読むばかりで、なんら返事をしてくれない。むぅとしたところで、思いがけず大輔が目を上げた。

 桜雨、と大輔は言った。さくらあめ? と繰り返した美咲に、大輔は、はたりと本を閉じる。それで美咲は、お話してくれるんだな、と嬉しくなった。

 春になって桜が咲いた頃、必ず雨が降るんだよ。それでたいていの桜は、四月にならないうちに散ってしまう。その雨を、桜雨と呼ぶんだ。

 なんで、と大輔の膝の上の美咲は身を乗り出した。どうして雨なんて降るの。降らなかったら、桜は散らないのに。大輔はあどけなさに目を細めて笑う。そうだね。雨が降らないほうがいいね。だけど、そういうものなんだよ。降ってほしくなくても、雨は降るんだ。それも、桜が咲いた季節に。

 そんなのひどい、とまた美咲は頬を膨らませる。大輔は笑みを深めると、より丸みを帯びた美咲の頬にそっと手をそえた。

 お花見に行こうか、美咲。もし、明日雨が降らなかったら。

 美咲はきょとんとして、すぐには返事ができない。ひとつ息を吸ってから、とくとくと鳴る胸を感じながら、美咲は問うてみる。

 二人だけで? だい兄と美咲だけ?

 大輔は、どうしてそんなことを訊かれたのか、気付いていただろうか。人一倍聡くて、いつも美咲の気持ちなんてお見通しだった大輔だから、きっと知っていただろう。それでいてちっとも気付かない素振りで、けれども美咲の目をじっと見て、いいよ、と頷いたのだ。

 じゃあ、約束ね。美咲が念を押すと、うん、約束と大輔は紛れもなく言った。それを見ると、にわかに美咲の胸はちいさく痛んだ。少年の優しさが、切ない痛みになってもやもやと広がってゆく。美咲は、どうして大輔がこんな約束をしてくれるのかを知っていた。

 今年、十八歳になった大輔は、もうすぐ東京の大学へ行ってしまう。そうしたら、これから先、今日のようなやさしい時間は、もうやってこない。

けれども美咲は、精一杯それらの暗い思いを無視した。微笑みながら、大輔の首に腕を回し、頬を寄せる。すると、優しい仕草で大きな手が背に触れた。美咲の背を撫でながら大輔は言う、雨が降らなかったらね、と。

 そして、二人の約束の日、雨が降った。昨日、二人がいたソファには春の午後のやわらかな斜陽が降り注いでいたというのに、雨は降った。

たった一日の雨で、桜はあらかた散り、流されてしまった。それと時同じくして、大輔は街から離れて行った。

 別れのための約束だったのに、と美咲は泣いた。けれども、抗いようもなく雨は降り、桜は散り、大輔は行ってしまった。さよならをきちんと告げることすらできないままに。

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