第42話 赤銅の魔狼

「あれ?もう終わっちまったのか」


 先程から精神を集中するために目を閉じているしのぶを護るようにしているナビネは、頭をハティに咥えられているマーナガルムを見て嬉しそうな声を上げる。

 しかし、マーナガルムに掴まれ近くの壁まで投げ飛ばされたハティをみて、そんなことはなかったとすぐに考えを撤回した。


「くくくく…思っていたよりも楽しめそうだな」


 後ろに折れ曲がった自分の首を、銀色の髪の毛を掴んで持ち上げながら笑うマーナガルムは、狂気の女神という名に恥じない姿だった。

 壁に背中をぶつけてから床に落ちるように着地したハティはすぐに立ち上がると頭を低くしてマーナガルムの方へと向き直る。


「私はこの世界で支配者になり、父すら叶えることのできなかった夢…魔狼の楽園を築くのだ」


 マーナガルムは自分の片手で持ち上げている頭をそのまま勢いよく引き抜いた。美しい蒼白の肌からは血が噴き出し、足元に転がった頭に降り注ぐ。銀色の長く美しい髪がみるみるうちに赤くなるのを一同は警戒を解かずに見つめた。


「姉たちとはいえ、私の邪魔はさせぬ」


 そう叫ぶと同時に鋭く釣り上がったマーナガルムの目が、丸くなるほど見開かれる。そして、事切れたように静かになった頭部とは対照的的に首なしの胴体は内側が膨らむように大きくなっていく。


「あら…ちょっと見ない間に太ったんじゃない?」


「あたしらがいない間にしっかりと成長していたようでうれしいよ」


 骨の軋む音を立てながら姿形を変えるマーナガルムに斬りかかるも、虚しくすべての攻撃が弾かれたハティとスコル。

 彼女たち二人は忌々しそうに顔をしかめながら吐き捨てるように皮肉を言ってみせると、信を護るように彼の前へと並んで立った。


「愚かにも私に楯突く姉たちこそ、太陽の領域あちらにいる間に随分と弱くなったのではないか?」


 大きくなったマーナガルムの影が、信たち一行の前に落ちる。

 ドラゴンの成体となったナビネと同じくらい大きさとなった赤銅色の狼が、三日月のように細くなった瞳孔で三人を見下ろして笑う。


「これくらいがちょうどいいハンデって考え方をしたらどうだ?」


 唸り声をあげながら地面を蹴って跳ぶハティを踏み台にして、マーナガルムの顔面へと斬りかかるスコル。


「いつまで強がりを言えるか楽しみなものだな」


 しかし、スコルの刃はマーナガルムの鼻先にすら届かず、大きな前足で軽く払い落とされ、スコルとハティは大きな前足の下敷きになってしまう。

 

「先程から姉たちの後ろにいるニンゲン、少しは戦う素振りを見せたらどうだ?」


 自分の足の下から抜け出そうともがくスコルとハティを嘲るように前足に力を入れたマーナガルムは、ずらりと並んだ鋭い歯を見せた。


「シノブはな…そういう担当じゃねえんだよっ!」


 信を護るように佇んでいたナビネは、巨大になった体躯を活かしてマーナガルムへ体当たりをする。

 驚いた顔を一瞬浮かべたマーナガルムは、黒煙を牙の間から噴き出して唸り声を上げているナビネを見てニタリと不気味に笑った。


「助かったわナビネちゃん」


「よくやった」


 マーナガルムが、ナビネの体当たりでよろけたすきに逃げ出していたスコルとハティは、硬い鱗の並んでいる前足を軽く叩いて感謝の言葉を述べる。


「他の羽つきトカゲたちより…少しはやるようだな」


「俺はミトロヒア様のってやつだからな!母さんから特別な力をもらったんだ。お前なんかに簡単にやられねえぞ」


 ビリビリと空気を震わせるような咆哮をあげたナビネは、マーナガルムへ再び突進をする。

 しかし、マーナガルムは状態を持ち上げて後ろ足で立ち上がると、ナビネの突進を正面から受け止めた。

 マーナガルムは、そのままナビネの羽根の付け根に前足を勢いよく下ろすと、ナビネの体は地面へ倒れて、マーナガルムにのしかかられる形になる。


「特別な力を持っていても体の使い方が下手なら驚異ではない」


 自分の下から抜け出そうとバタバタと羽根や尻尾を動かすナビネを踏みつけたマーナガルムは、無防備になったナビネの首に思い切り噛み付いた。

 悲痛そうなナビネの鳴き声が響くが、それと同時にマーナガルムもうめき声を上げながらナビネの上から体をどけた。


「なんだ…クソ…」


 床に落ちて黒煙をあげているのはナビネの傷口から滴ったであろう血だった。顔をしかめているマーナガルムを、ゆっくりと頭を持ち上げたナビネが睨みつける。


「太陽の力を受けたドラゴンであるオイラの血はめちゃくちゃ熱いんだよ」


 傷口からも黒煙を上げているナビネが後退りをすると、ハティに跨ったスコルが剣を構えてマーナガルムへ突進していく。


「何度来ても剣どで私は傷つけられない。血迷ったか黒い姉よ」


「さぁ?どうかな」


 正面から側面に回り込むように動くスコルを、ハティごと噛み砕こうと頭を下げたマーナガルムだったが、スコルがハティの背中を蹴って飛び込んだことに驚いて口を開いたまま視線を泳がせる。

 マーナガルムが自分の頭上を飛び越えたハティの言葉を理解したのは、彼女の剣に薄っすらと見える光の粒子を目にしたときだった。

 急に息苦しさを覚えたマーナガルムは、自分を飛び越えてハティと挟む形で立っているスコルを無視して首元を前足で掻きむしる。


「スコルにハティ…それにナビネもありがとう」


 先程までデクのようにそこに立っていることしかしていなかった男―信が、自分の息苦しさの原因だと直感的に理解したマーナガルムは、スコルもハティも無視して彼に突進しようとした。けれどそれは叶わず、走り出そうと勢いよく地面を蹴って進むはずの体は勢いよく地面に押し付けられ、息はますます苦しくなった。


「クソ…クソ…なんなんだ…」


 マーナガルムは泡を吐きながら絞り出すような声を出して信を見た。

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