[4] 「コンラート」作戦

 1944年12月25日、ヒトラーはハンガリーにおけるソ連軍の脅威に対応するため、ワルシャワ北方から第4SS装甲軍団(ギレ大将)を転用する決定を下した。また、南方軍集団司令官ヴェーラー大将と第6軍司令官バルク大将に対し、ブダペストとの連絡回復を目標とする反撃計画の準備を命じた。この結果、「コンラート1号」作戦が立案された。

 1月1日の夕刻、第4SS装甲軍団は第3ウクライナ正面軍の西翼に対して攻撃を開始した。第3ウクライナ正面軍の情報部は第4SS装甲軍団がワルシャワから転用された事実を把握できておらず、第4親衛軍にとっては完全な奇襲になった。第4SS装甲軍団司令部はブダペストの第9SS山岳軍団司令部に向け、次のような伝聞を送信した。

「頑張れ。我々は今、そちらに向かっているぞ」

 この攻撃により第18戦車軍団はほとんど壊滅したが、第4SS装甲軍団はブダペスト西部の険しい地形に進撃を阻まれてしまう。それでもブダペストまであと20キロの地点に進出すると、今度は第4親衛軍と第46軍が反撃に転じた。

 1月6日、モスクワの「最高司令部」は第6親衛戦車軍と第7親衛軍に対して、ドナウ河北方で反撃を開始するよう命じた。前線視察に来ていたグデーリアン参謀総長の意見もあり、第4SS装甲軍団は「コンラート1号」作戦を中止せざるを得なくなった。

 グデーリアンとヴェーラーは情勢を検討した結果、第4SS装甲軍団の南翼に位置する第1騎兵軍団を用いて、ブダペスト南西のセーケスフェヘールヴァールで陽動作戦を行うという結論に達した。この攻撃によってブダペスト西方にいるソ連軍の予備部隊を誘引させ、第4SS装甲軍団の救援作戦を再開させようと考えたのである。

 1月9日、第1騎兵軍団による「コンラート2号」作戦がセーケスフェヘールヴァール北方から開始された。だがこの攻撃はわずかに10キロほど前進しただけで、第4親衛軍に阻止されてしまった。「コンラート2号」作戦は4日ほどで中止が決定されたが、南方軍集団にも収穫はあった。この突進により、ブダペスト南西のソ連軍陣地は脆弱であることが判明したのである。

 ヴェーラーは今度、第4SS装甲軍団をブダペスト南西に再配置した上で、その脆弱な陣地からブダペスト救援作戦を実施することにした。ソ連軍に察知されないように注意しつつ、第4SS装甲軍団をバラトン湖畔に再集結させた。

 1月18日、第4SS装甲軍団はセーケスフェヘールヴァールから「コンラート3号」作戦に開始した。第4親衛軍の戦車と自走砲は修理のために引き揚げられており、弱体化していた第135狙撃師団は瞬く間に前線を突破されてしまう。

 1月20日、第4SS装甲軍団はドナペンティエレでドナウ河の西岸に達した。わずか2日で60キロもの進撃を果たし、ドイツ軍の装甲部隊はかつての栄光を取り戻したようだった。

 1月24日、第4SS装甲軍団はドナウ河沿いに北に向かい、ブダペスト南方25キロの地点にまで迫った。ブダペストを守備する第9SS山岳軍団司令部が街から脱出する許可を求めたが、ヒトラーは外部からの攻撃によって包囲を破ることに固執した。ブダペストは武装SSにとってのスターリングラードになりつつあった。

 時を同じくして、第2ウクライナ正面軍は大規模な戦車部隊(第1親衛機械化軍団・第23戦車軍団など)をブダペスト南方の陣地に転用した。第4SS装甲軍団の反撃は次第に吸収されてしまい、燃料や弾薬が底を尽き始めたことも重なり、攻撃を再開する手段を失ってしまった。

 1月27日、ヴェーラーは「コンラート3号」作戦の中止を命じた。第4SS装甲軍団は西方の攻撃発起点まで撤退し、ブダペストを守備する第9SS山岳軍団は自分たちの命運が尽きたことを知ったのである。

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