[2] 「ヤッシー=キシニョフ」作戦

 1944年の秋季戦の主眼は、ソ連軍によるバルカン半島の征服であった。その緒戦として位置付けられていた「ヤッシー=キシニョフ」作戦は、慎重に計画された浸透作戦と啓開から成り立っていた。

 第2ウクライナ正面軍はヤッシーの北西からルーマニア第3軍の陣地を突破し、第18戦車軍団(ポロズコフ少将)がプルート河の渡河点を押さえるため、第6軍の背後に進出することになっていた。第6戦車軍(クラヴチェンコ中将)とゴルシコフ機動集団(第5親衛騎兵軍団・第23戦車軍団)は南方に向かってシレート河の渡河点を押さえ、ブカレストとプロエスティ油田までの進撃を視野に入れていた。

 南翼のティラスポリとベンデリーでは、第3ウクライナ正面軍がドニエストル河の橋頭堡から集中攻撃を開始する。第4親衛機械化軍団(ジダーノフ少将)と第7機械化軍団(カトゥコフ少将)が突破と先導を務めることになっていた。この2個機械化軍団が北方へ転じ、第2ウクライナ正面軍の第18戦車軍団と連結して、キシニョフ地区にある第6軍の主力部隊を包囲することになった。

 8月20日、「ヤッシー=キシニョフ」作戦が開始された。南翼では、ドイツ軍の2個歩兵師団が頑強に抵抗を続けた。ベンデリーの橋頭堡が小さいこともあり、第3ウクライナ正面軍が攻撃を発起する上で、大きな障害になった。第7機械化軍団と歩兵部隊が戦場で交錯し、決定的な打撃を加えることは出来なかった。

 北翼では、第6戦車軍はルーマニア第4軍の前線を迅速に突破した。ルーマニア軍の戦線が崩壊する間にも、フリースナーは自分の責任においてまたしてもソ連軍による包囲殲滅に直面することになった第六軍の後退を命じていた。

 8月22日、モルダヴィア中心都市ヤッシーが陥落した。ソ連軍の「赤い奔流」が押し寄せてくる報せを受けたルーマニア国王ミハイは即座に、行動を開始した。すでに連合国と休戦するためにあらゆる条件を呑む用意はあり、外交担当者に連合国との休戦交渉に臨むよう指示を出した。

 8月23日、国王ミハイはブカレスト放送を通じて、「反ヒトラー連合諸国からの休戦条件を受け入れた」と宣言した。ミハイの指示により、アントネスクは即座に逮捕されて失脚した。臨時政府の首班に国防相シャナテスク大将が任じられ、共産党を含めた野党四党の指導者も無任所相として入閣した。

 シャナテスク政権はルーマニア軍の将兵に対し、ドイツ軍の指揮系統からの離脱、ソ連軍への抵抗の停止を命じた。さらに、ルーマニアが自国の領土と見なしていた北トランジルヴァニア地方をハンガリーから奪回する軍事作戦の準備を開始させていた。

 ルーマニアに進撃したソ連軍はルーマニア軍が前線から離脱したことにより、ルーマニア平原全体へ作戦を拡大させることが可能になった。ルーマニア軍が赤軍に対する戦闘行為を全て停止したが、赤軍は依然として投降したルーマニア軍の将兵を捕虜として武装解除する方策を取った。

 8月24日、王宮へ呼ばれたブカレスト駐在のドイツ公使キリンガーはシャナテスクから国交の断絶と軍事同盟の解消を通告された。ドイツ軍は2週間以内にルーマニア領内から撤収し、これまでの軍事協定はもはや無効になり、外交も断絶することになった。ルーマニアの変節に激昂したヒトラーは報復として、空軍によるブカレストへの爆撃を命じた。

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