[5] クールラント包囲戦

 9月24日、モスクワの「最高司令部」は北部に展開する複数の正面軍に対して、2つの攻勢作戦を下達した。レニングラード正面軍とバルト艦隊が担当するヒーウマー島とサーレマー島への水陸両用作戦―「ムーンズンド」作戦と、第1バルト正面軍と第3白ロシア正面軍による「メーメル」作戦である。

「メーメル」作戦は北方軍集団を東プロイセンから切断してバルト海沿岸の掃討を容易にするため、バルト海沿岸の都市メーメルを奪取するという内容だった。また、北方軍集団をクールラントで包囲し、他の戦区への作戦支援を不可能にしてしまうことが目的だった。

 9月25日から10月4日の間に、第一バルト正面軍は秘密裏に5個軍を新たな攻撃地点まで移動させた。中央軍集団(ラインハルト上級大将)は第1バルト正面軍が新たな攻撃の準備に入っていることを察知したが、対策を講じる時間は残されていなかった。

 10月5日、第1バルト正面軍は「メーメル」作戦を開始した。夕刻までに第5親衛戦車軍が第3装甲軍の後方地域まで突破した。第5親衛戦車軍は同月9日までに、第3装甲軍司令部を蹂躙し、メーメルの南北でバルト海に達した。第28軍団をリガ市内に封じ込め、第3装甲軍をリガとクールラントにいる北方軍集団の主力と切り離した。

 10月9日、危機的状況に直面したシェルナーはヒトラーに対して、北方軍集団をリガ周辺からクールラントまで撤退させる許可を求めた。ヒトラーはクールラントに部隊が留まることを認め、砲火の下をくぐって撤退が実施された。

 北方軍集団は10月23日までにクールラントに撤退し、兵力と物資の大半も引き揚げた。わずかに限られた部隊だけが海路で脱出して他の方面に転用された。

 モスクワの「最高司令部」は続いて、中央軍集団の掃討に着手した。この時、第3装甲軍はドイツ本土を守るため、東プロイセンの国境沿いに新たな防衛線を構築していた。第1バルト正面軍が北翼からニーメン河に接近しつつある時、「最高司令部」は第3白ロシア正面軍に対して、グンビンネンからケーニヒスベルクの軸に沿って東プロイセンへ進撃する攻勢作戦の立案を命じた。

 この命令を受けて、第3白ロシア正面軍司令部は「グンビンネン」作戦を作成した。3個軍(第11親衛軍・第5軍・第28軍)によって中央軍集団の陣地を突破し、両翼から二個軍(第31軍・第39軍)が中央の突破部隊を支援するという内容だった。

 10月16日、第3白ロシア正面軍は「グンビンネン」作戦を発動した。第5軍(クリュイロフ大将)と第11親衛軍(ガリツキー大将)が攻撃を開始し、11キロに渡って前進した。

 10月17日、第11親衛軍は東プロイセンの国境を越えた。ドイツ軍の抵抗は熾烈を極め、その防衛線も堅固だったため、第3白ロシア正面軍が陣地を突破するのに4日を要した。ドイツ国境に沿って構築された第2防衛線も堅固であり、第1降下装甲師団「ヘルマン・ゲーリング」(ネッカー少将)と第18高射砲師団が固めていた。第3白ロシア正面軍司令官チェルニャホフスキー大将は堅牢な陣地を突破するため、第2親衛戦車軍団を前線に投入した。

 10月20日、第2親衛戦車軍団の支援を受けた第11親衛軍が陣地の東翼を突破して、グンビンネンの郊外へ接近した。チェルニャホフスキーは翌21日、第29軍(ルチンスキー中将)を前線に投入した。

 10月24日、ドイツ軍は第5装甲師団と第505重戦車大隊が陣地強化のために到着した。ソ連軍の進撃はシュタルピネンで立ち往生してしまい、グンビンネンを巡る戦闘は同月27日まで続いた。大きな損害を被る結果となったが、ソ連軍はドイツ領である東プロイセンに100キロほどの侵入を達成した。

 悲劇的な開戦から3年。スターリンの対独戦はついに「敵国の領土で戦う」段階に入ったのである。

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